大判例

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広島高等裁判所 昭和32年(う)542号 判決

本籍 山口県熊毛郡平生町大字平生町第五六四の二番地

住居 山口県熊毛郡平生町大字堅ヶ浜字人島

保釈後の住居 東京都千代田区五番町五 正木方

人夫 阿藤周平

大正一五年一二月一〇日生

本籍と住居 山口県熊毛郡麻郷村大字麻郷第二七番地

保釈後の住居 神戸市兵庫区神田町四七四番地 田中建設株式会社 田中郁雄方

人夫 稲田実

昭和二年一二月六日生

本籍と住居 山口県熊毛郡平生町大字平生町第四二〇番地

保釈後の住居 右同

人夫 松崎孝義

昭和四年一一月三日生

本籍と住居 山口県熊毛郡平生町大字平生町第一九〇番地の二

保釈後の住居 広島市舟入南町舟入高校東 河野克己方

人夫 久永隆一

昭和三年一二月一三日生

右の者等に対する強盗殺人被告事件につき、昭和二七年六月二日山口地方裁判所岩国支部が言渡した有罪判決に対する各被告人及び原審検察官からの控訴について、同二八年九月一八日広島高等裁判所が言渡した被告人阿藤周平に対し控訴棄却、被告人稲田実、同松崎孝義及び同久永隆一に対し原判決破棄、被告人稲田実を懲役一五年に、被告人松崎孝義及び同久永隆一を各懲役一二年に処するとの判決に対し、各被告人から上告の申立をしたところ、同三二年一〇月一五日最高裁判所において原判決破棄、本件を広島高等裁判所に差し戻す旨の判決があつたので、当裁判所は差戻後の第二審として審理をして次のとおり判決する。

検事卜部節夫、同好並健司、同下川巖、同山崎恒幸及び同中野博士関与。

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人等はいずれも無罪。

理由

弁護人原田香留夫の陳述した控訴趣意は記録編綴にかかる丸茂忍、三浦強一、弘田達三、三名連署の控訴趣意書(第三点を除く)記載のとおりであり、又検察官卜部節夫の陳述した控訴趣意書は記録編綴にかかる検事土井義明作成名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

略語例等

以下判文において(1)単に吉岡とあるのは吉岡晃を指す。各被告人については概ね姓だけを示す。(2)月日だけを示すのは昭和二六年を意味し、月だけを示すのは同年一月を指す。なお昭和二六・一・二四とは昭和二六年一月二四日の略。(3)警察調書又は検事調書とは司法警察職員又は検察官に対する供述調書を指す。吉岡警二回、又は検三回とは吉岡の司法警察職員に対する第二回供述調書、又は検察官に対する第三回供述調書を指す。その他これにならう。(4)警察検証調書、警察捜索差押調書とは司法警察職員作成の当該調書を指し、検事検証調書とは検察官作成のそれを指す。(5)各種調書及び上申書中の供述記載又は証言記載をも便宜上単に供述又は証言と表示したものがある。(6)単に当審とあるは差戻後の控訴審を指す。(7)供述等の引用は必ずしも原文どおりでなく、その趣旨を要約したものもある。

弁護人の控訴趣意の要旨は、(1)事件は元相被告人吉岡晃の単独犯行であつて、被告人等は何れもこれに関係がない。従つて吉岡及び被告人等の共同犯行と認定している原判決は明らかに事実誤認の違法を犯している。(2)原判決は各被告人の警察自白調書を証拠に引用しているが、これらの調書は警察官が強制、拷問、欺罔等による違法な取調べによつて被告人等に自白を余儀なくさせた上、その供述を録取したものであるから任意性がないということに帰着する。そこで以下章をわけて右控訴趣意に対して判断をする。

第一章  吉岡晃の供述の検討

原判決は本件の有罪証拠の一部として元相被告人吉岡の警察六回調書及び同人の原審公判廷における供述を引用しており、これをその挙示にかかる他の証拠に比較対照してみると、右吉岡の供述ないし供述記載がいかに重大な意味を有しているかを知り得るのである。換言すれば、本件の有罪無罪を解決する鍵は一にかかつて吉岡供述の信憑力いかんにあると云つても敢て過言ではない。

第一吉岡の供述の概観

そこで、原判決引用にかかる吉岡の供述ないし供述記載の信憑力を検討する前に先づ原審並びに当審において証拠調のなされた吉岡の供述、その供述録取書及び供述書(刑訴法第三二八条の書証をも含む)概観してみるに、警察官に対する供述調書五通、検察事務官作成にかかる弁解録取書一通、裁判官に対する被疑者陳述録取調書一通、検察官に対する供述調書九通、検察官施行の検証において指示供述二回、原審施行の検証において指示供述一回、原審第一回ないし第一〇回公判廷において殆んど毎回のようになした供述、差戻前の控訴審公判廷においてなした供述二回、同控訴審繋属中提出した上申書一一通、及び答弁書一通、差戻前の二審判決言渡後上告審へ記録送致前に提出した上申書六通、上告後(上告取下服役後をも含む)検察官に対する供述調書一四通、同検察官宛上申書類一二通、最高裁判所宛上申書四通、原田弁護人等を通じ提出された上申書三通、原田弁護人作成に係る聴取書二通、当審における証人としての供述前後二二回の多きを数え、更に正木、原田両弁護人及びその他の者に差出した書信類、広島刑務所で右弁護人等に面会した際の供述を録取した広島刑務所の接見表並びにその際同弁護人等が吉岡の供述を記録したメモ等を加えると尨大な量に達し、以上吉岡の供述関係書類のみを輯録しても優に通常記録一〇冊分を越えるものと思料される。

第二吉岡供述変遷の概要

一、犯行否認

吉岡は昭和二六年一月二六日午前四時頃柳井町の寿楼で警察官に逮捕せられ、直ちに熊毛地区警察署(以下平生警察署以下平生警察署又は平生署と略称する)に連行の上取り調べを受け、当初は黙秘権を行使する等して本件の犯行を極力否定していたが(当審吉岡証言、三三冊一二七四四丁以下)

二、単独犯行自供

原判決挙示にかかる有力なる物的証拠等による尋問に窮し同日単独犯行を自供するに至つた(右証言及び吉岡警一回三冊五四〇丁以下)

三、六人共犯自供

しかし、犯行現場の状況等から判断して事件を数人による共同犯行と確信していた捜査当局者が吉岡の右単独犯行の自供を容易に信用せず追及を重ねたため、遂に同月二七、八日頃上田節夫及び本件被告人等四名と共同による犯行であると自供した。(警察検証調書、二冊二八八丁、「事件は数人が共同して斯る犯行をなしたもので、一人にて斯る状態をなすことは不可能である」旨の記載、原審証人三好等一冊九八丁以下、同松永章三冊六六九丁以下、同松本正寅三冊七〇一丁ないし七〇三丁の各証言、当審証人松本正寅の証言三四冊一三〇七〇丁以下、三九冊一五一四八丁以下、四五冊一七八六七丁以下、前示吉岡証言・吉岡警三回三冊五五八丁、同警四回三冊五六〇丁以下)

四、五人共犯自供

そこで同署員は吉岡の右自供に基き同月二八日上田節夫、被告人稲田、同松崎、同久永を翌二九日被告人阿藤を順次逮捕して取り調べたところ、上田節夫については第三者である福屋ユキ等によるアリバイ供述があつたため同人は同月三〇日釈放された。かような経過から吉岡はその頃(後記吉岡の警五回調書の作成日付は二月一日となつているが、原審証人松本正寅の証言三冊、七〇三丁によれば実際の取り調べは同日より前に行われたものと認められる)上田を共犯者の中から除き五人共犯自供に改めた(当審証人上田節夫二七冊一〇一四三丁以下、前示松永章、松本正寅、三好等及び原審証人福屋ユキ二冊四一七丁以下の各証言・吉岡警五回三冊五七九丁以下)

その後警察官、検察官の取り調べに対してはもとより原審公判、差戻前の控訴審公判においても五人共犯の供述を維持したのであるが、その間犯罪の動機、態様等に関する個々の具体的事実に関しては後述するように変転又変転して目まぐるしい変化を示している。

五、二人共犯自供(金山某との共犯)

昭和二八年九月一八日差戻前の控訴審で控訴棄却の判決を受けた吉岡は同年一〇月二日上告申立をなし、翌二九年一月頃より被告人等の弁護人である原田香留夫と広島拘置所で面会を重ねる中、被告人等四名が本件犯行に関係がない旨重大な発言をなし、同年二月下旬右犯行は金山某なる者と共同でなした旨の上申書(以下金山上申書と略称する)を原田香留夫に手交し(六冊一四三二丁以下一四五六丁、当審証人吉岡晃の証言一七冊五九二九丁以下・四四冊一七二六六丁以下、吉岡の昭和二九、二、二二付上申書一三冊四三〇二丁以下)、更に同年三月六日頃及び同月一三日頃の二回にわたり原田香留夫に対しこの自供を確認したのみでなく、六人共犯を自供したのは取調警官の拷問の結果であると阿藤等の冤罪を訴え(吉岡の原田聴取書四四冊一七三七七丁以下一七三八〇丁以下)。

六、五人共犯自供

右二人共犯自供の舌の根も乾かね同年三月一五日広島高等検察庁検事栗本義親の取り調べを受けるや、金山は虚無人で原田香留夫に申述べたことは嘘であると前言を飜して五人共犯自供に復帰し、同日上告を取下げた(六冊一五一九丁・吉岡の栗本検一回上告審一冊二四〇〇丁以下・右吉岡証言)

七、二人共犯自供

しかるに、翌一六日原田香留夫に面接するや、再転して金山某と共犯である旨の上申書を提出し、同時に上告取下の取消申立をなした(六冊一五二〇丁一五二一丁・及び前項証言)

八、五人共犯自供

更に同月下旬頃栗本検事の取り調べに対し、五人共犯が真実であつて、阿藤等が関係のないように言つたのは同人等を助けるため嘘を言つたものである旨答弁した外、その頃同高検検事及び広島高等裁判所伏見裁判長に宛てて同旨の上申書を提出し(六冊一五三〇丁上告審一冊二四二一丁二四二三丁以下の各上申書・吉岡の栗本検二回上告審一冊二四一一丁以下)

九、二人共犯自供(金村某との共犯)

同年六月六日頃に至り今迄阿藤等と一緒にやつたと述べたのは嘘で、実際は金村某と二人で犯したものであると詳細な上申書(以下金村上申書と略称する)を手記作成して原田香留夫に手交した(昭和二九、六、六付吉岡上申書一三冊、四三〇六丁・前掲吉岡証言)

一〇、五人共犯自供

一方において同月中旬より下旬にかけ、三回にわたり、前記栗本検事宛の書面で、前項の二人共犯は虚偽であつて阿藤等と共に五人で犯したことに間違いない旨の上申をなした(上告審一冊二四六〇丁以下、二四六八丁以下、二四六九丁以下の各上申書)

一一、二人共犯自供(林某との共犯)

しかるに、同年八月二八日、同月三〇日の二回にわたり、広島刑務所において看守部長立会の上原田香留夫、正木両名に面接した際、前に金村と言うたのは実際は林のことであり、同人と二人で本件を犯したことは間違いないと述べ(原田、正木両名の吉岡供述メモ一三冊四三一四丁以下・広島刑務所の吉岡晃接見表・当審証人吉岡晃の証言一六冊五四四四丁以下、一七冊五六五三丁以下、五九二九丁以下、一八冊六二六四丁以下)、更に同年九月二〇日、同月二四日、同年一〇月五日、同月二六日の四回にわたり、同所で原田香留夫に対し同様の供述をなし(原田の吉岡供述メモ一三冊四三二四丁以下・右接見表・及び前項吉岡証言)、その後同年一一月中旬頃前記林と共同犯行をなした具体的事実及び警官の拷問等を詳記した上申書(以下林上申書と略称する)を原田弁護人を通じ最高裁判所へ提出し(上告審一冊一九一六丁以下)た外、その頃から翌三〇年一月二二日頃までの間に正木、原田香留夫等に対し阿藤等の無実を訴えその冤罪を明らかにするよう依頼する趣旨の書信数通を郵送した(一三冊四三〇〇丁、四三〇一丁、一七冊五八七五丁)。

一二、五人共犯自供

越えて、昭和三〇年六月二五日から同年八月一九日までの間、前後一二回にわたり、前記栗本検事の取り調べを受けるや、二人共犯及び警官の拷問等を自供するに至つた経過を説明し、五人共犯に相違ない旨弁解これ努め(吉岡の栗本検三回ないし一四回上告審一冊二五〇一丁以下・四七冊一八六〇〇丁以下、一八七三〇丁以下)、更に同年六月二一日頃より昭和三二年二月二三日頃までの間一〇回位にわたり書面で検察官に対し(上告審一冊二四七二丁以下、二四七七丁以下、二四九三丁以下、二四九八丁以下、二五一四丁以下、二五一七丁以下)、或は最高裁判所に宛てて(上告審一冊二〇九七丁以下、二一〇二丁以下、二一五一丁以下・同二冊二七二四丁以下)五人共犯を前提とする趣旨の上申自供をなし、なお当公廷における前後二二回にわたる証人としての供述においても、五人共犯の自供を維持強調したのであるが、個々の具体的事実に関する供述の中には明らかに虚偽と認められるもの、或は矛盾撞着ないし極めて不自然な供述が数多く散見することは後に説明するとおりである。

第三吉岡供述の変遷の経緯とその信憑力の一般的検討

以上のように吉岡の供述は単独犯から六人共犯に転じ、次いで五人共犯を自供し、更に三転して二人共犯を主張し、その後検察官に対する答弁ないし上申書においては五人共犯を自供し、原田香留夫、正木等に対しては二人共犯説を展開し、恰もシーソーゲームを演ずるかのような変転振りを示しているのである。

そこでかような変転をなした経過並びに吉岡の供述の信憑性について概略の検討を加えてみるに

一、六人共犯の自供について

この点について吉岡は

1、警察三回調書において「私が今まで部長さんや主任さんに申上げた事は全部うそであります。早川事件は阿藤、稲田、松崎、久永及び上田節夫の六人がやつたのであります。私一人でやつたとうそを言つたのは捕つたら一人でやつたと言い人の事は言わない様にと約束したからであります。又その様な事をしたら皆の者からひどい目に合わされるので今までうそばかり言つていたのであります。」(三冊六三五丁以下)

と述べ初めて六人共犯を自供し

2、差戻前の控訴審公判において「一人でやつたと言つても辻褄が合わぬ点があつてそれは出来なかつた。例えば下から括つたのかと問われるのに対し下から括りましたと答えたが、その後同じことを尋ねられた時は前に下から括つたと答えたことを忘れて上から括つたと答えた。一事が万事そのように辻褄が合わぬことばかりで、一人でやつたとは言い切れなかつた。なお阿藤が上田も一人入れて置こうと言つたので上田も一緒にやつたと言うた。」(六冊一三四〇丁一三四二丁)

と述べていたのに拘らず

3、当公廷においては「昭和二六年一月二八日平生署刑事室で調べを受けていたら昼頃騒々しくなつたので共犯が捕つたと思つた。それで、同日午後四時頃相談に従つて関係のない一人を加えて六人で犯したように自白した。警察で拷問を受けたことはなかつた」(一五冊四八七五丁以下・二五冊九〇九四丁以下)

と証言して前言を飜したのであるが、右(2)の弁解はそれ自身単独犯の自供を共同犯行に改めなければならない程の根拠とは首肯し難く、又3の供述は、上田節夫及び被告人等四名が逮捕されたのは吉岡の六人共犯自供に基くものであると云う記録上争い得ない事実と牴触し、何れの供述もそのまま信用し難く、又当法廷では拷問の点を否定しているに拘らず、昭和二九年一一月一五日付上申書(上告審一冊一九二三丁以下)において、或は同年三月六日同年九月二四日原田香留夫に対し(一三冊四三二四丁以下メモ、四四冊一七三七七丁以下原田聴取書)同年一〇月一八日検事伊東幸人の取り調べに対し(四七冊一八六一四丁裏以下)それぞれ詳細な具体的事実を挙げて取調警察官の拷問を訴え、或は林との共犯自供後警察官の干渉を案ずるような書信を原田香留夫に差出し(一三冊四三〇〇丁)ているのである(当審吉岡証言一七冊五九二九丁以下)。これらの供述がそのまま信用に値するとは認められないにしても、吉岡が同年五月下旬広島法務局人権擁護部に対し取調警察官により拷問を受け或は金品の贈与を受けたとして調査方を上申した事実(当審吉岡証言一七冊五九二九丁以下)、又平生署において警察官の取り調べを受けている時悲鳴をあげたり泣いたりしたこと、取調べに当つていた三好警部補等から金品の贈与を受けたこと(同吉岡証言一七冊五九二九丁以下、一八冊六二六四丁以下、上告審一冊二四五七―八丁の書面)は看過し得ない事柄であつて、これらの事実関係と、後に被告人等四名の警察官に対する各自白調書の任意性を検討する際に引用する証拠(第二章第二参照)及び前段で認定した取調警察官が本件を当初より数人による共同犯行と確信し吉岡の単独犯自供に耳を藉さなかつた事実とを綜合すれば、吉岡の取り調べに当つて警察官が同人より共犯の自白を求めるため厳重な追及をなし、その間多少妥当を欠く言動があつたのではないかと疑わしめるふしがある。現に吉岡は池田検事に対する五回調書において、これを裏書するかのように「私は上田節夫をあまりよく知りません。警察で取り調べを受ける際にも上田とは早川方で悪い事をしたことはないと云いました。併し警察の方で上田も一緒に悪い事をしたのではないかと聞かれるのでそんな事はないと思うが或は私の考え違いでそんな事があつたかも知れんと申しました。」(三冊六四八丁)と供述しているのであつて、捜査当局者が上田節夫に対し当初より嫌疑をかけていたことは当審証人松本正寅の証言(前掲)によつても容易に推測し得るのである。尤もこの点について吉岡は当公廷で「捕つた時関係のない者一人入れることは早川方から帰るとき阿藤が云い出してそのように決めていたので関係のない上田節夫を入れたのである。」(一三冊四一五九丁以下、二五冊九〇九四丁以下)と弁解するのであるが、被告人等四名が関係ない者を一名入れて自白した形跡が記録上全然認められないことからしても右弁解は到底信用し難いところであり、何れにしても誘導尋問の疑惑を払拭することができない。そして被疑者が自己の刑責の軽からんことを求めるの余り取調官に迎合する事例のあることは経験上稀有ではないのであり、ましてや後述するように性格的に虚言を弄する傾向のある吉岡が、数人による共犯であることを確信している取調官の激しい追及や誘導その他妥当でない尋問に遭遇したとするならば、取調官の意図に迎合して虚偽の自白をなすであろうことは容易に想像し得るところである。ここで吉岡が六人共犯の詳細を自供した警察四回調書を観察してみるに吉岡は上田節夫が本件犯罪に加担したとして、その言動特に犯行に関する詳細な供述をなして居る(三冊五六〇丁以下)のであるが、これが総て根も葉もない架空なことであることは今や明白であつて、前段で述べた事情と併せ考察すれば、同調書記載にかかる自白は任意性の点は兎も角としてその信憑力については重大な疑問を懐かざるを得ない。

二、五人共犯の自供について

五人共犯を自供するに至つた経過の概要は既に前段で記述したとおりであるが、この点について吉岡は

1、差戻前の控訴審公判で「五人でやつたと云うようになつたのは実際にやつていない者の名前を云つても刑事が聴入れてくれないので色々考えた結果いくらうそを云つても刑事に判ると思い本当の事を云う気になつた。」(六冊一三四一丁)

と供述していたのに拘らず

2、当公廷では「六人共犯を述べた翌日と思うが、私が刑事室にいたら二階で、松崎が五人でやつたと自白しているのが聞えて来たので自分だけうそを云つてもつまらんと思い五人でやつたと自白した。」(一七冊五六五三丁以下、二五冊九〇九四丁以下)

と前項の供述を変更したのである。しかし当裁判所が昭和三三年一〇月三一日施行した検証の結果(四五冊一七五二四丁以下)に徴すると、平生署刑事室では同署二階でなす談話の内容を聴取し得ないことが明白であるから、吉岡の右2の供述は虚構のものと認めざるを得ない。結局前記第二の四で述べたように、上田節夫については明白なアリバイが成立したため六人共犯の自供を五人共犯のそれに変更することを余儀なくされたものと見るのが相当である。してみれば、六人共犯の自白に内包すると前示信憑性に関する難点ないし疑問は依然司法警察員に対する五人共犯の供述(警五回三冊五七九丁以下、警六回三冊六〇二丁以下)にも残存しているものと解すべく、その後個々の具体的事実について転々と修正変更を加えながら維持された五人共犯の自供もその母胎は司法警察員に対する右自供であるから、その信憑性については前同様の瑕疵を包蔵するものと認められる(その詳細は後段第四の説明に譲る)。

三、二人共犯の自供について

この点について吉岡は

当公廷で証人として「広島高等裁判所の判決があつてから二、三ヶ月後に阿藤からお前の口一つでどうにでもなるのだから良い具合に云うてくれ、近い中に弁護士が来るからよく話してくれと頼まれた。その後原田弁護士が二、三回目に面会に来てくれた時原田弁護士からこの事件に阿藤達が関係のないことを云うてくれさえすれば良い、阿藤達が無罪になれば金をやると云われた。それで一人でやつたと云うては通らんから同房の者と相談して金山と二人でやつたと云ううその上申書を書いて渡した。そうすれば阿藤等も救えるし、自分の利益にもなると思つた。その後金村上申書や林上申書をうそと知りながら書いて渡したが、それは原田弁護士、正木弁護士から金や物を貰つていたので義理が悪いから書いて渡したのである。昭和三〇年三月民事の裁判を起こされたので原田弁護士とは完全に手を切つた。(四四冊一七二六六丁以下)。金山上申書を渡した後検察庁で調べられ、それがうそだと云うことが判つたので正木弁護士の顔をつぶした。それで同人の顔を立てるため名前をかえて金村と一緒にやつたと云う金村上申書を書いて渡した。」(一七冊五九二九丁以下)と証言しているのである。

なお吉岡は右三通の上申書の外広島刑務所において原田香留夫、正木等に対し再三にわたり林上申書と略同様の供述をなした外右両名に対し書信で被告人等の無実を訴える趣旨の書信を差出していることは既述のとおりである。しかし、当公廷における証人吉岡晃の証言及び同人の栗本検事に対する一回ないし一四回の調書(前掲)によれば、金山某、金村某は虚無人で林某なる者は死亡していたこと、従つて二人共犯の各自供が虚構であることを認めるに十分であつて、二人共犯を前提とする供述が信用に値しないこと勿論であるが、被告人等四名が本件に関係ないと供述したところに右自供は意義を有するのである。吉岡の前掲証言(四四冊一七二六六丁以下)中「一人でやつたと云うては通らんから云々」なる供述部分は当法廷で初めて証言したものではなく、他にも全く同趣旨の供述記載がある(六冊一五一六丁、上告審一冊二四二五丁裏の各上申書)のであつて、これらの証言及び供述記載によれば、吉岡が曽て平生警察署において単独犯行を自供した際取調警察官がこれを毫も信用しなかつたため、この経験に懲り単独犯行の自供では到底他人を納得さすことができないものと考え、一面単独犯行を自供すれば自己に対する責任又は非難が加重されることを虞れ金山外二名の虚無人又は死者の名前を転々と揚げて二人共犯の自供をなしたものとも推察される。

かような観点からすれば二人共犯の自供は益々重要な意味を持つものというべく、栗本検事が吉岡の二人共犯自供後前後一四回にわたり同人を取り調べ詳細な供述調書を作成した所以も亦ここにあるものと解される。そして吉岡は二人共犯の自供をなすに至つた動機について前記のように、被告人阿藤及び原田香留夫より依頼を受け且つ原田香留夫、正木等より金品の贈与を受けたためであると証言するのであるが、たとえ、その動機が吉岡の証言するとおりであつたとしても、被告人等が本件に関係ないとの供述部分に関する限り、関係証拠を十分に検討した上でないと軽々に虚偽であるとは断じ難い。

四、吉岡の虚言的性格

以上の記述のみからしても、吉岡がいかに多数の機会に軽々として数多くの虚言を弄したかを窺い知るに十分であり、更に前記第一に掲げた供述乃至供述記載を仔細に検討すればその虚言的供述は枚挙に暇がない(主要なもののみを後記第四に挙示する)と云つても必ずしも誇張ではない。

この点について吉岡は二人共犯の各自供が虚構であることを認める(当審証言)のはもとより原審までの自己の供述についても

1「私が警察にいるとき兄が早川さんの家に詑びに行つたと聞き、肉親に色々迷惑をかけていると感じ、兄が本当のことを云えと申したので、これ以上肉親に心配をかけてはいかぬと思い本当のことを申上げる気になつた。」(差戻前の控訴審公判供述六冊一三四二丁・吉岡警六回三冊六〇二丁)

2「警察ではよい加減のことを云つたのでどのように云つたか憶えないが、検察庁や岩国の公判廷では色々考えた上申上げた。」(右公判供述六冊一三五四丁)「金のことを除いては警察でも全部本当のことを述べた。」(同一三九二丁)

3「私が本当のことを一つもかくさず答えはじめたのは岩国の公判がはじまつてからである。」(吉岡上申書六冊一三七一丁)

4「警察では金のことについて嘘を云つた。それは阿藤が金のことは本当のことを云うなと口止したからであるが、検事には大体本当のことを答えた。二審へ来てからは全部本当のことを述べた。」(当審証言三三冊一二七四四丁以下)

5「岩国の裁判所では一〇の中八位真実を述べ二位嘘を答えた。」(同一六冊五二五五丁以下)

とそれぞれ供述して過去における自己の供述に虚偽の部分が存することを自認し、特に原審が証拠に採用している自己の警察六回調書中奪取金員の点に関する供述部分(奪取金員の認定に必要欠くべからざるもの)も虚偽であると主張するのであつて、かような点から考察すれば、真実であると述べる吉岡の証言も何時本人によつて覆えされる運命にあるか保証の限りではない。しかも当審証人松本正寅の証言(三九冊一五一四八丁以下)に照すと、吉岡を取り調べた警察官松本正寅は上田節夫のアリバイが成立するまで吉岡の六人共犯自供をそのまま誤信したことが推認され、又正木の告発状その他の関係書証(四四冊一七三六三丁ないし一七三八〇丁)吉岡晃の当審証言(四四冊一七二六六丁以下)及び正木より吉岡宛手紙(一七冊六一一八丁)によれば、吉岡より金山との二人共犯自供を打ち明けられた原田香留夫は右供述をそのまま誤信し、正木をして検事総長に対し金山某に対する告発並びに緊急逮捕請求状を提出せしめていることが認められるから、吉岡は虚言を弄しながら一応他人を誤信せしめる様な生来の技術を身につけているものと推測し得る。現に林上申書、六人共犯自供調書等の各記載内容を通覧すれば、適宜に実在人を配する巧妙奔放な虚言は只々唖然たるばかりである。又当審証人玉井義治の証言(四〇冊一五七〇九丁以下)に徴すると、吉岡は玉井義治より差入れを受けた同人の著書「一死刑囚の手記、汝我と共にパラダイスにあるべし」の中にあるキリスト教に帰依した一死刑囚の手記を一五回にわたりそのまま盗用記述して上申書を認め、これを広島高等検察庁或いは最高検察庁の検察官に送付したことを認定しうべく、この事実によつても吉岡の卑劣軽薄な性格の一端を知ることができる。

以上の事柄に吉岡の当公廷における前後二二回にわたる証言内容及びその態度を綜合して考察すれば、吉岡は虚言を弄する性癖を有するものと認めるのが相当であつて、吉岡の云う「テレンポレン」の虚偽の供述は同人の右性癖に由来するものと解することができる。

第四吉岡供述の信憑力の具体的検討

これまでの説明により吉岡の供述は軽々に信用すべきものでないことを概略論証したのであるが、更に個々の具体的事実に関する吉岡の供述中信憑性について最も疑問の存するものから順次検討を加えてみるに、吉岡は

一、昭和二六年一月二三日の謀議の点について

1、警察五回調書(実際の取り調べが、調書作成の日付即ち二月一日より前に行われたことは第二の四で示した)において

「昭和二六年一月二三日午後七時頃阿藤方へ行つたところ、阿藤が居て松崎、久永、稲田の五人になつたので四方八方話をしてから私がこの間のは俺の所の早川瓦屋なら良かろうではないか、あしこは二人ぢやから金も大小位あろうではないか、これなら見付けられても後には山があるし見付けられても逃げるいや愈々いけぬ時はしばつて置くかと話した。外の者はそれならそうしようと言い出した。そこで皆んなが話し合つて明日の晩九時か九時半頃に八海橋の処へ集ろうと話が決つた。」(三冊五八〇―一丁)と述べ

2、次に同六回調書において

「一月二三日の晩午後七時半頃私は阿藤方へ遊びに行つたところ、阿藤方には松崎や久永、稲田が来て居り五人になつた。当時阿藤の母親も同じ間に居たが、阿藤が小さい声で私等にこの間の話を明日の晩にやろうかと云うので他の者はそうしようかと云うていたので、私は九時半か一〇時頃ならよかろうではないかと話したら外の者はそれならその頃八海橋の方へ出て行こうと話を決めた。」(三冊六〇七丁)と供述し

3、更に検事に対する一回(三冊六二四丁)四回(三冊六三八丁)七回(三冊六五七丁)各調書において右と略同旨の供述をなしていたところ

4、原審第五回公判廷においては(原判決が証拠採用していると認められるもの)

「一月二三日夕方私が便所に居りますと、稲田が来て、阿藤が私に用事があるから行け、俺も後から直ぐ行くと云うので、私は直に阿藤方へ行きますと、家の前を阿藤、松崎、久永の三人が歌を唱つて来るのに出会いました。その時阿藤は私に二四日の晩に懐中電灯と手袋を持つて来いと云いましたので、私は何時頃やと申したところ午後一〇時か一一時に来いと云うた。その時阿藤等は私を除け者にして三人でやつた後は火をつけるとか、埋めるとか話して居た」(二冊四七〇丁)と述べ

5、更に差戻前の控訴審における公判廷においては、稲荷さんの土手の所で阿藤等に出会つたと改めた外前項と略同様の供述をなし(六冊一三四丁、一三八七丁)、同控訴審で提出している上申書においては、右に付加し「阿藤等三人はこの時は酒でも飲んでいたのであろうかどうも勢がよかつた。」(六冊一一一八丁)と述べている

6、ところが、昭和二九年一一月一五日付上申書(上告審一冊一九一六丁以下)においては「一月二三日晩稲田が私方へ来たのは事実だがその晩阿藤方へ行つたことはない。」旨上申して従来の供述を全面的に否定し

7、昭和三〇年九月二二日付最高裁判所宛の上申書(上告審一冊二一〇三丁)においては、会つた相手に稲田を付加した外前記5の項と略同旨の上申をなし

8、昭和三二年一一月四日広島刑務所において副看手長平岡都一及び看守部長川本隆二立会の上吉井太一、吉井よし子両名の質問に対し答弁したところによれば「一月二三日家で餠をついたことを思ひ出すが、私が便所に入つている時稲田が来てお前昨夜帰らなかつたから阿藤が怒つているぞ、今晩後で来いと云つたので兄が出て行つてから後で又起き出し阿藤のところへ行つた。あの時には家にあつた真鋳を持ち出し朝鮮人の家で売り酒五合位買つて行き阿藤の家で五人で飲み、明日の晩やろうということを決めた。」(吉岡晃の接見表該当年月日欄参照)と述べ9、最後に当公廷においては

「阿藤等は酒に酔うて歌を唱つていた。稲田にも会つたように思う。(一九冊六五三一丁以下)その時八海橋に集る約束はしなかつたが阿藤方へ集ればよいと思つた。」(一二冊三五五〇丁以下)と証言する外前示5の項と略同様の証言をなしているのであつて、以上で判るように、吉岡は共謀の場所を「阿藤方屋内」「同家前」「稲荷さんの所」と逐次変更し、又八海橋集合時間を「九時か九時半」「九時半か一〇時頃」「一〇時か一一時頃」と順次延ばし或は共謀者の中に稲田を加えたり除いたりしているのみでなく6、8のような供述をもなしているのである。

そこでこの点に関する被告人等及び関係者の供述について検討してみるに

1 被告人阿藤の供述

(一) 阿藤の警察一回調書によると

「一月二三日は松崎、久永、稲田、樋口、岩井、私の六人が午後四時前まで新光学院東側でバラス採の仕事をやつて皆で帰る途中樋口と別れ、他の者は平生の久永の家に寄つて三〇分位遊び、松崎、稲田と三人連れで帰る途中別れて家に帰りその晩に何処へも行かず午後九時頃寝ました。」(四冊七八六丁)と述べ

(二) 同四回調書によると

「一月二三日の午後六時頃から八時頃まで私宅で稲田、松崎、久永、樋口の五人で焼酎一升を飲んで樋口は家に残り私等四人は福屋の娘の家に遊びに行くため連れ合つて家を出て歩いて行く途中八海橋までの間に私は明晩八海橋に一〇時頃集れ、それから早川の家に入ろうと申しました。」(四冊八〇九丁)

と述べているのであるが、右(二)の「一月二三日」のところは「二二」か「二三」か頗る曖昧で「二三」と解しても改ざんの形跡が明らかであつて、この点の調書の記載に全幅の信が措けないのみでなく吉岡供述の何れとも符合せず、更に後段で述べるように、被告人等が阿藤方で飲酒した上福屋ユキ方へ出かけたのは一月二二日であることが明らかであるから、この供述部分は信用し難い。右不可解な供述記載を除いては、爾来検察官の取り調べ、原審公判、差戻前の控訴審公判(上申書等含む)上告趣意書(上告審一冊一七一六丁以下)当審公判を通じ一貫して当初の供述を維持している。

2 被告人松崎の供述

(一) 松崎の警察一回調書によると

「一月二三日は午前一〇時頃より田名のじやり取りの仕事に行き午後六時前頃帰りその晩は遊びに出ず自宅で寝たようであります。」(四冊八一九丁)

(二) 同三回調書によれば

「一月二三日の昼一一時頃仕事に行くため久永方に久永、阿藤、稲田、私が集り阿藤が明日にするかと云いましたので三人の者はアーと云つて置きました、その晩私は福屋へ一人で遊びに行きました。」(四冊八三九丁)

(三) 差戻前の控訴審で提出陳述した上申書においては

「一月二三日今日より仕事に行くことになりましたが、汐が引かないので昼から久永、樋口、岩井、阿藤、稲田、私の六人で佐賀村田名海岸にバラスを揚げに行き、四時頃仕事を止めて久永の家に帰つた。帰りに稲田が私に福屋の家に遊びに来るように云いました。晩方私は福屋静江方に遊びに行きました。行つて一〇分位たつて稲田が阿藤方に行つたと云つて来た。その晩も午後一一時頃まで遊んで帰つた。」(六冊一二九八丁)

とそれぞれ述べ、その後上告趣意書(上告審一冊一八三三丁以下)、当公廷に於ける供述においても右(三)の供述を維持しているのであるが、被告人松崎は警察官に対し犯行を自白(警一回四冊八一三丁以下、警二回四冊八二九丁以下、警三回四冊八三六丁以下)しているのに拘らず、一月二三日夕方阿藤方へ行かなかつたとの点については終始一貫その供述を変えていない。

3 被告人久永の供述

(一) 久永の警察三回調書によると

「一月二三日の日が暮れてから阿藤の家へ行つて見たら阿藤、松崎、稲田の三人が居り暫くして吉岡が来た。その時吉岡が主になつてこの話は絶対秘密にして外部に漏すまい、万一わかつたら絶対に口が裂けても割るまいと云いました。」(五冊八九六丁)

(二) 同五回調書によると

「一月二三午日後七時頃阿藤の家に私、松崎、稲田、吉岡が集合し五人で話したが、その時吉岡が明日の晩一一時八海橋に集ろう、自分方の近くの早川方に物とりに行こうと云うた。」(五冊九一八丁)

(三) 検事三回調書によれば

「一月二三日午後六時頃阿藤の母に頼まれランプの油を持つて行く途中堅ヶ浜にある三角バス停留所で阿藤、稲田に会つた。二人は麻郷に行くと云つていた、一〇時頃帰ると云うので私一人阿藤方へ行き泊つたが阿藤は帰らなかつた。」(四九冊一九二〇二丁以下)

(四) 久永の上告趣意書によれば

「一月二三日午後私は田名の海岸で阿藤、松崎、稲田、樋口、岩井等と砂利採取をなし、午後五時頃全員私方に帰り(樋口のみ途中から帰宅)それから夫々家に帰つた。私と岩井は徒歩で田布路木の中野に賃金の受領に行つたが、金がないので二四日に来てくれと云われたので八時過ぎ帰宅した。私が吉岡の云うように阿藤方へ行つていないことはこの事実によつてわかる。」(上告審一冊一八一〇丁以下)

とそれぞれ述べ、当公廷においては右最後の記載に副う答弁をなしている。なお前記(一)(二)の供述は被告人久永が警察官に対し犯行を自白した際になされたものであつて後にふれるように信憑力の非常に疑わしいものであり、しかもそれは原審の採用しなかつた前記吉岡供述一123に略照応するものである。又(三)の供述は、これを裏書するような何等の資料のないものであり、(四)のそれは記録に徴し無下に排斥すべきものではないのみならず、当審証人岩井武雄の証言中(二二冊七六六三丁以下)にも稍これに照応するものがあるがまだ確認する程度に達しない。

4 被告人稲田の供述

(一) 稲田の警察三回調書によれば

「一月二三日のことであります、私、岩井、久永、松崎、阿藤、樋口の六人は平生町中野の仕事で田布路木の川の仕事に行きましたが、寒くて仕事が出来ないので、午後から仕事場を変え、佐賀村田名のバラスを上げるところに行くように変えてもらつた。その行きがけ六人の者は午前一一時頃平生町横土手の秋山という朝鮮人の家に行き、焼酎二升を買い、一升をそこで飲み、弁当も食い、それから一升を持つて仕事に行く途中久永方へ寄つて一升を置き午後一時半頃現場へ行き、午後六時頃久永方に帰り、五人の者が笹屋の肉屋から肉を買つてきて預けていた焼酎一升を持つて阿藤方へ行き、午後六時半頃私、久松、松崎、樋口、阿藤が飲み始めた。その時吉岡もやつてきた。そうして代る代る風呂に入つた。樋口が風呂に入つた際阿藤が『明日の晩早川に行こう』と云う話を出して皆の者が行くことに決めた。七時半頃吉岡が帰り、私、松崎、久永、樋口、阿藤の五人は福屋方へ遊びに行つた。すると、福屋の柳井の兄と中本清一が阿藤と口論を始めたので、私達が仲裁に入つて止めた。その時福屋の兄が二百円出して焼酎を買い皆で飲み、久永、松崎、阿藤は私より三〇分位早く帰り、私は一〇時三〇分過ぎに帰つた。」(四冊八七一丁)

と述べ

(二) 差戻前の控訴審で提出陳述した上申書によると

「一月二三日は昨夜の酒が少し過ぎたようで気分が悪いが何時ものように阿藤を誘つて昼前久永方へ行き、弁当を食べ、暫くして、松崎、岩井、樋口が集り六名で田名へ行つた四時頃仕事を終り久永方へ帰りここから阿藤、松崎、私の三人で帰り平生座入口手前で松崎と別れた。今夜松崎も福屋に遊びに行くように話した。八海橋のところで阿藤と別れた。その時阿藤が私に吉岡が家にいたら酒代の期間が過ぎているので貰つて来てくれと云うので吉岡の家に寄つたら丁度吉岡は便所に居た。吉岡は今夜は必ず阿藤の家に行くからと申しますので何も云わず家に帰つた。阿藤の家に行きすぐ福屋方へ行つた。松崎が来ていて上田節夫もいた。一〇時過頃まで話して松崎と別れて帰つた。」(六冊一二八七丁)

と述べ、爾来上告趣意書(上告審一冊一五八九丁以下)はもとより当公廷においても右(二)の供述を維持しているものであるが、前示(一)の供述は、上田節夫(昭和二六、一、二九付警察調書四八冊一九〇九二丁)福屋治郎(昭和二六、二、一付警察調書四八冊一九一一八丁)福屋ユキ(昭和二六、二、一付警察調書四八冊一九一二〇丁)岩井武雄(昭和二六、二、一三付検事調書四九冊一九二一七丁)被告人久永(検三回四九冊一九二〇二丁)の各供述調書(何れも一月二二日に関する供述部分)に対照してもそのまま信用し難く、却つて後段に挙示する福屋シズヱの検事調書以下の各関係証拠を綜合すれば、前記(一)の供述中本件犯行に関する部分を除くその余の供述は、被告人稲田の記憶違いによるものか、或は取調官の示唆誘導に由来するものか、その原因は兎も角として、一月二二日の出来事を一月二三日のそれと錯覚して答弁したもの、換言すれば、同供述に一月二三日とあるは一月二二日の誤であることを認めるに十分である。従つて右(一)の供述中阿藤方で吉岡を交え本件犯行を謀議したとの部分も一月二二日の出来事でなければならないのは当然の帰結であるところ、吉岡が一月二二日午後一時頃三木停留所で被告人等(松崎を除く)及び岩井武雄、樋口豊等と出会つた後柳井町へ赴き同夜寿楼に登楼宿泊して遊興したこと、及び同人が同日夕方阿藤方へ立寄つた事実のないことは証拠上明らかであるから、該供述は条理上あり得ないことであり到底信用することができない。

5 木下六子の供述

(一) 警察調書において

「一月二三日午後七時頃主人(阿藤)が仕事から帰る時久永、松崎、稲田、樋口の四人を連れて帰りすき焼で焼酎一升を約一時間位で飲み終り、八時頃までに五人が一緒に福屋方へ遊びに行き、約一時間位して阿藤が久永、松崎の二人を連れて帰り、久永と阿藤が夕食を食べそれから、久永と松崎は一緒に家を出た。」(三冊五一五丁)と述べ

(二) 原審で証人として

「阿藤は一月二三日午後八時頃仕事から帰つて今から飲むと云つて樋口、松崎、久永、稲田等と焼酎を飲み遊びに出ると云つて出て行つたが、阿藤、松崎、久永の三人は直ぐ帰つて御飯を食べた。」(二冊三八九丁)と証言し

(三) 当公廷で証人として

「橋柳旅館を引揚げた日の翌日だつたと思うが、午後八時頃阿藤方で阿藤、稲田、松崎、久永等がすき焼で酒を飲んで女の話ばかりしたことがある、樋口がいたかどうか記憶にない。酒がなくなつてから皆出かけたが間もなく阿藤と松崎か久永のうち一人が帰つて来た。それは一月二二日か二三日かはつきりしない。私が橋柳旅館から阿藤方へ帰り上田節夫方へ行く間に阿藤方で皆んなが酒を飲んだのはこの時一回だけで夜分阿藤が出かけたのもその時一回きりであつた。」(三〇冊一一五四五丁以下)と証言し

6 阿藤サカヱは当公廷で

「一月二二日か二三日頃(二三日のように思う)私方で兄周平、久永、松崎、稲田、樋口等がすき焼で酒を飲んでから出かけたことがあるが、その席に吉岡がいたという記憶はない。その頃私方で皆んなが集つて酒を飲んだのはその時一回だけである。」(三四冊一三三三八丁以下)と証言し

7 阿藤小房は当審証人として

「早川惣兵衛夫婦が殺された数日前私方で息子の周平、稲田、松崎、久永、樋口の五人で焼酎を飲み、飲み終つてから福屋へ出かけたがその晩吉岡は来なかつた。それは一月二二日と思う(証言前段)一月二三日夕方稲田が来て周平に吉岡が便所に入つていて出て来んと話していたが、その晩私方に皆んなが集つて酒を飲んだことはない。」(三二冊一二一五三丁以下)と証言し

8 樋口豊の供述

(一) 警察調書において前掲稲田の(一)の供述中吉岡との謀議に関する部分を除くその余と同趣旨の供述をなし(四九冊一九一三〇丁以下)

(二) 当審証人として

「一月二二日昼朝鮮人の家で昼飯を食べ焼酎を飲み、その日仕事から帰つて晩方阿藤方へ行つて皆んなと酒を飲んだが、私は福屋方へは行かずに帰つた、翌二三日晩方阿藤方へ行つてみたら阿藤等は既に福屋方へ遊びに出かけていたので私も後から福屋方へ行つた。」(三九冊一五三三七丁以下、四三冊一六七八六丁以下)と証言

しているのであるが、木下六子、阿藤サカエ、樋口豊の各供述中、被告人等が一月二三日夕方被告人阿藤方で飲酒した上福屋ユキ方へ出かけたとの部分及び樋口豊の証言中同人が一月二三日晩方被告人阿藤方へ行つてみたら阿藤等が既に福屋ユキ方へ遊びに出かけていたとの部分は、前掲上田節夫、福屋治郎、福屋ユキ、岩井武雄の各供述記載及び次に挙示する各証拠に照し、到底信用し難く却つてこれらの証拠によれば、被告人等が阿藤方で飲酒した上福屋ユキ方へ出かけたのは一月二三日でなく、その前日二二日であることを認めるに十分である。

即ち福屋シズエの検事調書(一冊二三一丁)、木下六子((三)のみ)阿藤サカエ(日時の点を除く)、阿藤小房、樋口豊(一月二三日に関する部分を除く)の前記各証言、松崎ツヤ(二八冊一〇六二八丁以下)吉岡晃(一七冊五六五三丁以下、一九冊六七〇七丁以下)岩井武雄(二二冊七六六三丁以下)樋口豊(三九冊一五三三七丁以下)の各当公廷における証言、被告人阿藤(警一回四冊七八五丁)稲田(警三回四冊八七一丁)松崎(警一回四冊八一九丁、警三回四冊八三八丁)久永(警一回四冊八八五丁)の各供述記載、吉岡の上申書(六冊一一一七丁、一〇項)、被告人四名の原審並びに当審における各供述(差戻前の控訴審において被告人等が提出陳述した各上申書「六冊一二五八丁ないし一二七〇丁、一二八四丁ないし一三〇六丁」計五通を含む)

被告人等の前掲各上告趣意書(以上何れも昭和二六年一月二一日ないし二三日に関する部分のみ)を綜合すれば、被告人阿藤は木下六子と共に昭和二六年一月二一日夕方橋柳旅館を引揚げて当時の自宅に帰り、翌二二日朝被告人阿藤、同稲田、同久永の三名は樋口豊、岩井武雄等と共に平生町田布路木の小川で砂利採取をなし、昼前仕事を打切り、同町横土手朝鮮人秋山某方で焼酎約一升を飲んだ上昼食をとり、被告人阿藤が別に焼酎一升を買いこれを被告人久永方に置き、五名で砂利採取のため佐賀村田名海岸へ赴く途中、三木停留所で吉岡と出会い(前掲吉岡晃、樋口豊、岩井武雄の各証言は、この時被告人松崎がいなかつたとの同人の一貫した主張を裏書しており、この点に関する樋口「二冊三七四丁」岩井「一冊一三八丁」の各原審証言が誤であることを明らかにしている)、そして午後右海岸で仕事をなし、午後五時頃岩井を除く四名は久永方に引揚げた。一方被告人松崎は同月二一日柳井三枝子と共に橋柳旅館に一泊し、翌二二日三田尻へ帰る同女を送り旁々下松市の下松鋼板に就職試験のため出頭し(前掲阿藤小房証言一二二三四丁以下、同松崎ツヤ証言一〇八二七丁、同木下六子証言一八二〇六丁)、同日午後五時前後平生町に帰り久永方へ立寄つたところ阿藤等に出会い、阿藤より夕方同人方へ来るよう誘われた。そして同日夕方被告人等四名は樋口豊と共に阿藤方で焼酎を飲んだ上福屋ユキ方へ遊びに出かけ(樋口豊は稍遅れて出かけたものと推測される)、同家で更に中本清一外一名位と共に焼酎一升を飲み午後一一時前後にそれぞれ帰宅したこと、及び翌二三日夕方阿藤方で被告人四名及び樋口等が飲酒した事実のないことをそれぞれ首肯し得る。しかし関係証拠を通覧してみても、被告人等四名が一月二三日夕方被告人阿藤方に集合した上揃つて外出したことを認めるに足るような信用すべき資料はなく、むしろ前記各証拠によれば、そのような事実がなかつたものと推認することができる、石井道子の警察調書中の供述記載(四三冊一六七二八丁以下)は日時の点が明瞭を欠き、右引用証拠に照せば却つて同人の供述記載中一月二二、三日とあるのは一月二二日のことと認めるのが相当である。

右事実関係と前記第三で記述した各種の事情とを併せ考察すれば、一月二三日夕刻阿藤方又はその付近で吉岡が被告人等と集合時間等について謀議をなした旨の吉岡の前掲各供述は原審の信用したと認められる4のそれをも含め何れも信用し難く、却つてこれ等の供述は虚構ではないかとの疑いが濃厚である。そして吉岡が当初一月二三日阿藤方で通謀したように供述(前掲1)したのは、被告人稲田、木下六子、樋口豊等の記憶違い等の理由による誤つた供述(前掲稲田の(一)、木下の(一)、同樋口の(一))を何等かの機会に察知し、被告人等が同日夕方阿藤方で飲酒した上福屋ユキ方へ行つたものと誤信してなしたものではないかと疑われ、次に阿藤方屋外に謀議の場所を変更(前掲4)したのは、四畳半一間である(当審検証の結果、一五冊五一四五丁以下)阿藤方屋内で同人を含め家族五名(前出当審証人阿藤小房の証言)の外樋口豊等のいる際犯罪の謀議をすることの不自然さに気ずいて供述を変えたものとも想像され、更に一月二四日の集合約束時間を順次ずらしたのは、当初の頃自供した時刻では被告人等特に被告人阿藤、同松崎、同久永等についてアリバイが成立することを察知したためであろうと推認されることは次項で詳説するとおりである。

二、一月二四日八海橋集合時刻及び犯行時刻等について

原判決は「吉岡及び被告人等が一月二三日阿藤方付近で早川方に押入ることを申合せた上、翌二四日午後一〇時四〇分頃八海橋に集合し、役割等協議の上直ちに早川方へ赴き午後一〇時五〇分頃(この時間は起訴状記載のとおり)阿藤が先づ長斧で早川惣兵衛の頭部を殴打した」と認定しており、原判決の挙示する証拠を精査してみると、右認定の根拠となる資料は吉岡の原審公判廷における供述であることが窺えるので、先づこの点に関する吉岡の供述の経過を摘示してみると、

1 警察一回調書によると「私が早川方で悪いことをして外に出たのは午後一一時頃であつたと思う。」(三冊五五六丁)

2 同四回調書によれば「上田節夫、阿藤、松崎、稲田、久永、私の六人で早川方部屋の北側の西寄りに集つた。時間が早いと云つて腰を降して周りの状況を見ていた。そこで三〇分ばかりまつたが、その頃が午後八時半か九時頃かも知れぬ兎に角まだ早い時刻であつた。私が早川方を出たときは皆逃げていたがその頃の時間が午後一〇時か一〇時半頃ではなかつたかと思う。」(三冊五六八丁ないし五七〇丁、五七六丁)

3 同五回調書によると「八海橋へ五人が集つたのは午後九時過であつた。早川方で悪いことをして八海橋で皆んなと別れたのは午後一一時頃であつた。」(三冊五八一丁五九三丁)

4 同六回調書によれば「八海橋に五人が集つたのは午後九時半頃で、早川方を出て八海橋で皆と別れたのは午後一一時半頃であつた。」(三冊六〇八丁、六二一丁)

5 検事一回調書によれば「午後九時半か一〇時頃八海橋へ行くと、阿藤、松崎、久永が居り少し遅れて稲田が来た。」(三冊六二五丁)

6 同四回調書によると「晩一〇時過頃新庄方で貰つた焼酎の入つた瓶を持つて八海橋へ行くと阿藤、久永、松崎が来た。稲田は遅れて来た早川方で悪いことをしたのは一一時前後と思う。」(三冊六三八丁、六四二丁)

7 原審検証調書によると「午後一〇時頃八海橋西岸に行くと三人が来ており暫くして稲田が来た。」(一冊三六丁)

8 原審第三回公判調書によると「阿藤が八海橋へ来たのは午後一〇時四〇分か一一時である。」(二冊三八四丁)

9 同第四回調書によると「八海橋へ集合したのは午後一〇時五〇分頃と思う。」(二冊四四一丁)

10 同第八回調書によると「早川方へ忍び込み殺したのは午後一一時頃に間違いない。」(四冊七六三丁)

11 当公廷では「八海橋へ集つたのは午後一〇時過である。」(一七冊五六五三丁以下)「早川方で悪いことをしたのは午後一一時頃と思う。」(四三冊一六五八〇丁以下)

とそれぞれ供述している。

そして犯行当日吉岡が時計を所持していなかつたことは明白なところであり、右の各供述が事後の推定によつてなされたものであることもこれを窺うに十分であるが、それにしても以上のような供述の変化は合理的根拠がない限り到底理解できない。

特に3以降の供述は総て一月二三日夕方阿藤方又はその付近で被告人等と集合時間等を打合せこの約束に基いて八海橋へ行つたことを前提とするものであるところ、右打合せに関する吉岡の供述が前掲第四の一に詳記したような理由によつて信用できない以上、打合せを前提とするこれ等の供述は既にこの点においてその信憑力に疑問を抱かざるを得ない。

ここで吉岡が早川方へ到達した時間を推定する資料の一として同人が一月二四日新庄藤一方を立去つた後の行動について観察してみると、この点について吉岡は、

1「午後八時頃新庄方を出て自宅へ帰る途中鳥越部落と八海部落の境で坂になつているところで酔が廻り草原に伏せていた。暫くして酔が少々消え寒くなつたので焼酎をつぎ込んだ、それから阿藤方へ行くため八海橋を渡つて平生町へ向け歩いていたが途中で引返し私方のところまで帰つた。それから再び阿藤方へ向い吉井太一のへんまで来た頃焼酎を飲みそこの石の上に腰を降し、計画していた早川方で金を盗んでやろうと腹を決め早川の家へ行つた。」(警一回三冊五四七丁以下)

2「午後六時半頃焼酎を飲み終り帰途につき峠のところで一休みした。そして阿藤の処へ遊びに行こうと思い八海橋を渡つて平生の境に取りついた頃人島部落から阿藤と稲田の二人が橋のたもとに来ており、平生町の方から久永と松崎が来た、八海橋の下八海のたもとで上田節夫に出会い、六人で早川方へ行つた。六人が時間が早いと云つて腰を降して周りの状況を見ていた。三〇分位待つて家の人が寝ているかいないか状況を窺つていた……その頃が午後八時半か九時頃か兎に角まだ早い時刻であつた。」(警四回、三冊五六四丁以下)

3「午後六時半か七時頃新庄方を出て阿藤方へ行つてみたが誰もいないので、昨日の約束の時間にはまだ早いと思い、阿藤方を出て八海部落をブラブラ歩き廻り、平生町の方へ行くと八海橋を渡つたところで阿藤、松崎、久永が待つていた。その中稲田が来た、それから五人で早川方へ行つた。」(警五回、三冊五八一丁)

4「新庄方で貰つた焼酎をもつて午後七時半頃阿藤方へ行つたら、誰もいないので又新庄方へ引返そうとしたが、その頃飲んだため苦しかつたので休んだり吐いたりして居るところへ阿藤、久永が来るのに出会つた。」(原審五回公判調書、二冊四七一丁)

5「新庄方を午後八時頃出て、ぶらぶら歩いて「ハナヤ」のへんでえらいので道のへりで一寝入りした。一時間位そこで休んだと思う。それからぶらぶらして阿藤方へ行つてみたが阿藤がいないので引返し、家本方前で又新庄方へ行つて酒を飲もうと思いつき行きかけたが、鳥越橋のへんで引返し、阿藤方へ向つて行つたところ八海橋の上で阿藤、久永に出会つた。」(上告審一冊二一〇四丁以下上申書)

とそれぞれ供述し、例によつてその供述内容の変転著しいものがある。そこで当裁判所はこの点について証人としての吉岡晃に対し詳細な尋問を試みたところ同人は

6「新庄方を午後七時半か八時頃出てぶらぶら歩き、鳥越部落と八海部落との境の処で馬車の上に休みそこで寝たように思う。それから八海橋を渡つて阿藤方へ行つてみたが阿藤がいないので引返し私方近くまで帰つた。それから又新庄方へ行つて飲もうと思い歩いて行き「ましの」と云う煙草店で煙草しんせい一個を買い、新庄方へ行きかけたが、橋のへんから引返し、八海橋を渡つていたら平生町の方から来る阿藤、久永に出会つた。」と証言(三三冊一二七四四丁以下)したのである。

以上の供述中鳥越部落と八海部落との境の所で暫く休憩した旨の供述部分は終始一貫しているものであるから一応信用してよいものと思料されるが、「一寝入りした」「寝たように思う」旨の供述部分は殊更に時間を遅らせるために従来の供述を変えたのではないかとの疑念を拭い難く、前掲1ないし4の供述に照したやすく信用できない。なお右の休憩時間を確かめる資料は吉岡の供述を除いて何等存しないのであるが、厳寒の折柄道端に長い時間休憩するとは到底考えられないのみでなく、1ないし4の供述内容をその余の関連供述と共に仔細に精査してみても長い時間休憩したとは認め難い。

進んで、当審証人新庄サツヨ、同新庄藤一の各証言(二四冊八六七六丁以下、八七一〇丁以下)によれば、吉岡が新庄方を立去つたのは午後六時半頃から午後七時頃までの間であることが認められ、又当審第二回検証の結果(一五冊五一四五丁以下)に照すと、新庄方を出て阿藤等に出会うまでの経過に関する吉岡の前掲各供述中具体的に述べているもののうち最も歩行距離の長いものを採つてみても、その通常歩行時間は一時間弱であることが推認されるから、新庄方を午後六時半から午後七時頃までの間に出たものとすれば、午後七時半ないし八時頃までの間に八海橋で阿藤等に出会う筈であり、なお前記休憩時間の外、吉岡が当時相当酩酊していた事情及び同人が当公廷で証言するように途中で煙草を買つたことが真実と仮定し、これらに一時間を費したものとしても、午後八時半ないし九時頃までには八海橋に到着する道理である。次に吉岡が八海橋で阿藤等に出会つた後謀議をしながら早川方へ直行したことは、五人共犯自供において、吉岡の一貫した供述であり、八海橋東詰から早川方までの歩行所要時間が約一〇分であることは、前記検証の結果に照し明瞭であるから、午後八時半過から九時過までの間には早川方へ到着する筈である。これは休憩時間等をむしろ過大に見積つた結果の推定時刻であるから、これよりも早い時刻に到着した公算が多い。そして早川家へ到着した時間に関する限り前段掲記のこの供述即ち「早川方屋外へ着いたが時間が早いと云つて腰を降して周りの状況を見ていた。三〇分位待つて家の人が寝ているかいないか、状況を窺つていた。その頃が午後八時半か九時頃で兎も角まだ早い時刻であつた」旨の供述が最もよく吉岡の真意を訴えたもの(それが客観的時間に一致するか否かは兎も角として)ではないかと思料される。何故なれば、右供述は吉岡が被告人等の当日夕刻における行動を全然知らないうちに述べたものであつて、しかもそれは吉岡の前記行動所要時間とも概ね一致するからである。早川方へ到着後早川夫婦に対し凶行を加えるまでの行動経過に関する吉岡の供述はこれ亦変転を極めているのでその真相を捕捉することはまことに至難な業であるが、同人の全供述と関係証拠とを綜合すれば、少くとも早川方へ到着後吉岡が同家内外の様子を窺い、侵入口を物色し、更に窃盗犯人にあり勝ちな迷信から同家部屋付属の便所南側空地付近で脱糞したこと、何人かが部屋中連窓をバール(証第三〇号)を使用してこじあけ部屋を通つて炊事場に侵入したこと、吉岡が所携の懐中電灯を口にくわえて明りをとりながら新庄藤一方で借り受け携行していた三合瓶(証第一号)の中の焼酎を炊事場東側棚に置いてあつたサイダー瓶(証第二号)に入れ換え、三合瓶を棚に置き、炊事場北出入口の戸を開けてその付近に右サイダー瓶を放置したこと、何人かが台所と炊事場との間に戸締りされていた板戸の「落し錠」を探ぐるため刀物で板戸を九回位突き刺したこと、吉岡が右板戸を開けて同家母家台所に侵入したことを各認めることができる(後記第四の五、六、七参照)。以上の行為をなすについては少く見積つても二〇分内外の時間を要したものと推測されるから、これを前掲到着推定時刻午後八時半過ないし九時過に加算すれば、午後九時頃から九時半頃までの間に凶行をなしたことになる(前記2の供述によれば、「早川方へ到着後三〇分位様子を窺つていたが、その時が午後八時半か九時頃でまだ早い時刻であつた」というのであるから、これに右二〇分を加算すると午後九時前後に凶行をなしたことになる)。これは、吉岡の行動所要時間を推測した結果得られた時間であるからもとより正確なものではないが、仮に一時間の誤差を見込んでも午後一〇時半頃までには早川夫婦に対する凶行を完了したことになるのである。

次に早川惣兵衛夫婦の最終食事後死亡までの時間を検討してみるに、直接解剖を担当した鑑定人藤田千里は惣兵衛につき「食後二時間以上経過の後殺害されたものと推定する」(同人鑑定書、二冊二五八丁)ヒサにつき「食後一乃至二時間経過した頃殺害されたものと推定する」(同二七一丁)旨鑑定し、当審鑑定人上野正吉は、右時間を両名につき約三時間(三三冊一二六〇六丁以下)、同香川卓二は、その時間を両名につき三ないし四時間(四五冊一七四五〇丁以下)とそれぞれ推定する旨鑑定し、三者の結論必ずしも一致しないのであるが、三鑑定の結果を綜合すれば食事後三時間位で死亡した公算が最も多いものと認められ、蓋然性の少いものをとれば、食後二時間或は四時間で死亡したことになる。ところで当審証人新庄智恵子(四五冊一七八二三丁以下)同加藤スミ子(三二冊一二三九九丁以下)同新庄好夫(二九冊一〇八五八丁以下)の各証言を綜合すれば、八海部落では冬分午後六時頃から午後七時頃までの間に夕食をとる家庭が多く、特に早川惣兵衛のような瓦製造業者は仕事の性質上早寝早起の傾向があり、従つて夕食も一般の家庭より多少早目にとることが多く、現に早川ヒサが一月二四日午後五時過頃夕食の仕度にとりかかつていたことを窺い得るから、惣兵衛夫婦は同日午後六時頃から午後七時頃までの間に夕食をとつたものと推認するのが相当で、むしろ六時に近い頃に食事をなした公算が多いものと解せられる。

この事実に、食事後死亡までの時間に関する前示鑑定の結果を組み合せてみると、右の鑑定結果中最も公算の多いと認められる三時間説によれば、惣兵衛夫婦は午後九時頃から一〇時頃までの間に死亡したことになり、この結論は奇しくも、吉岡の行動所要時間より算出される前掲凶行推測時刻即ち午後九時頃から九時半頃までの時間関係と略一致するのである。してみれば、惣兵衛夫婦の夕食時刻及び食事後死亡までの時間に関する鑑定の結果を綜合して推定される前記午後九時から一〇時までの死亡時間は相当高度な信頼度を有するものと解される。従つて多少の誤差を考慮に容れるとしても、早川夫婦に対する凶行は原判決認定の午後一〇時五〇分頃よりも早い時刻であつたものと推定するのが相当である。

かようにして吉岡の早川方到着並びに凶行の各推定時刻及び早川夫婦の死亡推定時刻の両者に参照してみても、午後一〇時頃以降吉岡被告人等と共に八海橋に参集した上早川方へ赴いた旨の同人の供述は軽々に信用できない所以を納得し得るのであり、況んや原判決が採用している午後一〇時四〇分頃八海橋に集つた旨の供述(前掲8)は到底そのまま信ずることができない。

ここで角度を変え被告人等の一月二四日夕方における行動を考察してみるに、原審証人上田節夫(一冊一八一丁以下)同福屋ユキ(二冊四一七丁以下)原審並びに当審(差戻前の二審をも含む)証人中野良子(一冊一六〇丁以下、六冊一一七五丁以下、二一冊七二九六丁以下)同曽村民三(二冊三八二丁以下、二三冊八二七一丁以下)同清力用蔵(一冊五一丁以下、六冊一一八三丁以下、二三冊八〇八三丁以下)同岩井武雄(一冊一三四丁以下、二一冊七三六八丁以下、二二冊七六六六三丁以下)同木下ムツ子こと六子(二冊三八六丁以下、二八冊一〇三五二丁以下、三〇冊一一五四五丁以下、四六冊一八一一一丁以下、四七冊一八三五七丁以下)同阿藤サカエ(二冊四二〇丁以下、三四冊一三三三八丁以下)同久永サイ子(二冊四五〇丁以下、二七冊九八九三丁以下、三一冊一一八八七丁以下)同久永恵エ(二冊四二八丁以下、三五冊一三六二八丁以下)当審証人阿藤小房(三二冊一二一五三丁以下)同丸茂忍(四〇冊一五五四一丁以下)同大津繁一(三四冊一三〇三六丁以下)同曽村ワキエ(四五冊一七六五七丁以下)同中野末広(二一冊七四六九丁以下)同岡本軍一(六冊一二〇一丁以下)の各証言、木下六子の警察調書(三冊五一四丁以下)福屋シズヱの検事調書(一冊二三一丁以下)被告人阿藤の警察一回(四冊七八七丁以下)三回(四冊七九七丁以下)被告人稲田の同一回(四冊八五〇丁以下)二回(四冊八五七丁以下)三回(四冊八七二丁以下)久永の同一回(四冊八八二丁以下)二回(八八七丁以下)三回(五冊八九八丁以下)松崎の同一回(四冊八二〇丁以下)三回(四冊八三九丁以下)各調書、原審第一〇回公判調書中被告人等四名の各供述記載(五冊九七八丁以下、九八五丁以下、九六二丁以下)、差戻前の控訴審に提出陳述した同人等の各上申書(六冊一二五八丁以下、一二九六丁以下、一二九三丁以下、一二八六丁以下、一二九六丁以下)、各被告人の前掲上告趣意書及び同被告人等の当公廷における供述(三二冊一二五〇二丁以下、一二五四五丁以下、三四冊一三四八二丁以下、三五冊一四〇三二丁以下、三六冊一四二一二丁以下)、差戻前の控訴審がなした第一次(六冊一二二一丁以下)第二次(六冊一二三四丁以下)の各検証の結果、当審が施行した第二、三回検証の結果(一五冊五一四五丁以下、四五冊一七五二四丁以下)押収にかかる証第一六一号の一(国鉄定期乗車券)を綜合すれば(以上の各供述ないし供述記載中次に認定する時間関係と牴触する部分は採用しない趣旨である)、被告人等四名は岩井武雄、樋口豊等と共に一月二四日午後熊毛郡佐賀村の田名海岸へ砂利採取に赴き、午後四時頃仕事を打切つて引揚げ、被告人稲田は自宅で夕食後午後七時過上八海の福屋ユキ方へ遊びに出かけ、一方その余の被告人三名はその頃岩井武雄と共に平生町田布路木の中野末広方へ賃金請求のため赴いたところ、予期に反し同人が留守であつたため、同家に上つて将棋をさす等して末広の帰宅を待つていた。

しかし同人が帰宅しないため被告人松崎は被告人稲田に所用もあつたので午後九時頃三人を残して同家を辞去し自転車で帰途につき(途中久永方へ一寸立寄つたものと推測される)、稲田が前記福屋ユキ方へ遊びに行つているものと予想し同女方を訪ねて行つたが、それより暫く前稲田が帰宅していたので、通行人に稲田方を尋ねながら同人方へ赴き、稲田に対し、翌二五日田布施駅発発午前六時四六分発下り列車で徳山へ仕事に出向くよう伝え且つ自己の徳本組に対する賃金受領方を依頼して印鑑を渡し(その際両名が本件の犯行に関する協議をなしたか否かについては第二章で論ずる)ておいて、被告人阿藤に依頼されていた伝言を同人の家族に伝えるため、平生町人島の阿藤方を訪れ母小房に、「阿藤は中野の主人が留守でその帰りを待つておるため遅くなるから風呂を沸かして待つていてくれ」と告げた上同家で阿藤の妹のサカエ及び阿藤の内妻木下六子等と暫く雑談をなし、自己の田布施、徳山間の国鉄定期乗車券(証第一六一号の一)を、翌朝徳山へ仕事に出かける阿藤に貸与するため、サカエ、六子の両名を伴い歩いて自宅に帰り同乗車券をサカエに手渡したが、それが大体午後一〇時半頃であつたこと。

一方中野方に居残つていた被告人阿藤同久永の両名は主人末広が帰つて来ないため、賃金を貰つて帰らぬと翌日の米代にも差支えるという岩井一人を残し、午後一〇時頃同家を辞して山道を歩いて柳井より平生に通ずる道路まで下り、吉本表具店付近で阿藤の自転車に久永を乗せて帰途についたが、「天池」付近でチエーンが切れたため同所より歩いて平生町まで帰り、久永方前で両者が別れ被告人久永は帰宅した。そこで被告人阿藤は自転車を押しながら町中を通り同町新市の岩井商店前に差蒐つた際曽村民三と出会つて同人に声をかけ、更に間もなく同商店西寄りの新市と裏町との境付近で、前記のように松崎より定期乗車券を借り受けて帰途についていたサカエ、六子の両名に出会つたが、それが大体午後一〇半過頃であつたことをそれぞれ認めることができる。そして右認定にかかる事実関係は多少の例外を除くと、警察自白供述をも含め、被告人等の一貫した供述とも一致するのである。なお時間関係について若干の補足を加えるならば、被告人阿藤同久永が中野方を立去つた時間について先に挙示した関係者(同被告人等及び中野良子、岩井武雄)の供述が完全に一致しているわけではないが、これらの各供述を綜合すれば両名が中野方を立去つたのは大体午後一〇頃と認められるのである。そして前掲当審検証の結果に照すと、中野方から吉本表具店までの坂道の歩行所要時間は四分、同表具店より「天池」までの自転車による走行所要時間は八分、同所より久永方前を通り岩井商店西寄りの新市と裏町との境付近(サカエ、六子等に出会つた地点)までの歩行所要時間は二四分以上通計三六分を要することが明らかであり、一方前記証人曽村民三、曽村ワキエ、大津繁一、清力用蔵、岡本軍一の各証言を綜合すれば、曽村民三は一月二四日夜同町所在の平生座で浪曲師一座を引受けて浪花節の興行をなし、午後一〇時数分前頃興行を終り、火の始末小屋の跡片付等をすませた上午後一〇時一五分過頃帰宅し、自宅で浪曲師一座の者に食事の接待をする途中同人等の求めにより酒を買いに出て、既に閉店戸締りをしていた岩井商店の人を数回呼んだが、同店の人がこれに応じてくれなかつたので諦め、土手町鈴木商店に赴く途中被告人阿藤に出会つたものであること及び同人は以上の行動経過を綜合判断した上一、二審共阿藤と出会つた時間を午後一〇時三五分か四〇分頃と証言したものであることが認められる。更に前掲差戻前の二審及び当審が施行した検証の結果に照すと、被告人阿藤が曽村に出会つた場所と、サカエ、六子等に出会つた場所との距離は僅かなものであることが明らかであるから、多く見積つてもその間の歩行所要時間は一分に達しないものと認められる。以上の事情を綜合すれば、被告人阿藤が曽村に出会つた時刻は大体午後一〇半頃で、これと時を接してサカエ、六子等に出合つたものと認めるのが相当であり、又被告人松崎方から阿藤と六子、サカエ等が出会つた地点までの歩行所要時間は一分余であることが右当審検証の結果に照して明らかであるから、被告人松崎がサカエに国鉄定期乗車券を手渡した時刻は前掲時刻より一分余前であると認められる。

当審証人森上直(二六冊九二四六丁以下)同木下六子(四六冊一八一一一丁以下、四七冊一八三五七丁以下)原審並びに当審証人山崎博(一冊一一七丁以下、六冊一二〇八丁以下、二一冊七六〇三丁以下、二二冊七九四二丁以下、二五冊八八一四丁以下)の各証言、右山崎博の上申書(二冊四〇六丁以下)裁判官上村実の証人岩井武雄に対する尋問調書(四九冊一九二二六丁以下)、裁判官田辺博介の証人上田節夫に対する尋問調書三通(四九冊一九二三八丁以下、一九二四四丁以下、一九二五七丁以下)検事山崎恒幸作成にかかる山崎博の供述調書三通(四九冊一九二七二丁以下、一九二八九丁以下、一九三二〇丁以下)の各供述記載中叙上の認定に牴触する部分は信用し難く(前記森上証人は本件が差し戻された後始めて検察官より本件に関して取り調べを受け、しかる後当公廷で証言したものであつて、その証言中曽村民三の証言と牴触する部分は前掲証人大津繁一、曽村ワキエ、曽村民三の各証言に照し到底信用し難く、なおその余の証言ないし供述記載の信用し難い所以は後に第四章で詳説する)他にこの認定を左右するに足る証左はない。

次に被告人阿藤がサカエ及び六子等に出会つた場所から八海橋東詰に達するまでの通常歩行所要時間が約九分であることは当審施行の検証の結果(四五冊一七五二四丁以下)に徴し、これを推認するに十分であるから被告人阿藤がサカエ、六子等と出会つた後八海橋に直行したとしても午後一〇時四〇分頃より前に八海橋に到達するのは至難と認められる。原判決が八海橋集合時刻を午後一〇時四〇分頃と認定したのも右時間関係を顧慮したことによるものと推察される。ところで吉岡は、原審第三回公判で証人曽村民三が「阿藤と出会つた時間は午後一〇時三五分か四〇分頃であります」(二冊三八三丁)と供述した直後裁判官の質問を受け「阿藤が八海橋へ来たのは午後一〇時四〇分か一一時頃であります」(二冊三八四丁)と答え、曽村証言に符合するように従来の供述を変え(前掲冒頭の吉岡供述ないし8参照)、更に原審第四回公判で証人阿藤サカエが「一〇時のサイレンが鳴つてから間もなく松崎、木下六子と私の三人で連立つて松崎方へ出かけたが松崎方へついたのは午後一〇時二〇分か二五分頃であつた」(二冊四二三丁)と証言した後裁判官の質問を受け「八海橋へ集合したのは大体午後一〇時五〇分頃と思うがはつきりしない」(二冊四四一丁)と答え、しかも次の第五回公判においては「一月二三日晩方阿藤方へ行つていると家の前で阿藤、松崎、久永に出会つた。その時阿藤は二四日の晩一〇時か一一時に来いと云いました」(二冊四七〇丁)と供述して、従来述べていた集合約束時間をずらしたのである(前掲第四の一1ないし4参照)。現実の集合時間が正確を欠くことは已むを得ないにしても、その前提である集合約束時刻が原審公判の中途において変転することは到底理解し得ないところであつて、これらの事情から考察すれば吉岡は曽村民三、阿藤サカエ等の前掲証言を聞き、被告人阿藤、同久永、同松崎特に被告人阿藤が午後一〇時四〇分頃より前に八海橋に到着することが至難な状況にあつたことを察知し、これら証言に牴触しないように従来の供述を変更する一方、一月二三日晩方約束したと云う八海橋への集合時刻をも右に照応するようにずらしたものと解せざるを得ない。

以上各種の角度から検討したところを要約すれば、一月二四日夕方八海橋に集合した旨の吉岡の供述は、その前日阿藤方又はその付近で取決めたと称する約束を前提とするものであるところ、右約束の事実が認め難いのみでなく却つてそのような事実がなかつたものと推測される(前掲第四の一参照)から、既にこの点において右供述は信用に値しない。更に又個々の供述内容を考察してみても、吉岡が検挙当初の頃より原審検証の頃まで自供していた八海橋集合時刻即ち午後九時過ないし一〇時過(前掲3ないし7)の時間では被告人阿藤同久永同松崎等のアリバイが成立し原審第三回公判で改変した時間即ち午後一〇時四〇分か一一時の時刻では惣兵衛夫婦の死亡推定時刻及び吉岡自身の当夜の行動所要時間に矛盾牴触するのである。従つて以上何れの観点からしても吉岡の前記供述は信用し難い。

三、奪取金員とその分配の点について

本件が怨恨に由来するものでなく、金員奪取を目的とする凶行であることは証拠上異論のないところであるから、奪取金額及びその分配に関する事実こそ本件の中心論点でなければならない筈である。従つてこの点については最も慎重且つ正確な吟味が要請されるのは事理の当然であるところ、原判決は吉岡及び被告人等が早川惣兵衛方で強奪した金額を一六一〇〇円(起訴状記載のとおり)と認定しているのであるが、その主たる証拠が吉岡の警察六回調書であることは、原判決の挙示する各証拠を通覧することによつて明瞭であるから、同調書中の供述記載が信用に値するものであるか否かを検討する順序として先づ吉岡が奪取金員及びその分配の点についてこれまでどのような供述をなしているかを調べてみると、

1 警察一回調書(単独犯)によると

(一) 奪取金員、一〇〇〇円札五枚、一〇〇円札二〇枚位、一〇円札五、六〇枚(三冊五五三丁)

(二) 分配、単独犯の自供であるため分配の供述はない。

2 同四回調書(六人共犯)によると

(一) 奪取金員、一円や五円とまぜ一〇〇円余取つたと追加した外、前項(一)と同じ(三冊五七四丁)

(二) 分配、六人共犯の自供であるのに拘らず分配の供述がなく「盗んだ金七七〇〇円位は一〇〇〇円を残して費つてしまつた」と供述している。(三冊五七七丁)

3 同五回調書(以下総て五人共犯)によると

(一) 奪取金員、「一〇〇〇円札は枚数を数えずポケツトに入れた。一〇〇円札約二〇枚、一〇円札約五〇枚阿藤もタンスをいらつていたが金があつたかなかつたか知らない。」(三冊五八八丁)

(二) 分配、「私は一〇〇〇札二枚、一〇〇円札五、六枚を直接稲田に渡し稲田がその金を久永や松崎に渡していた。阿藤は自分が持つていた金の内を稲田、久永、松崎に渡したが幾ら渡したかわからん。」(三冊五九三丁)

4 同六回調書によると

(一) 奪取金員、「私が取つたのは一〇〇〇札八枚、一〇〇円札二〇枚位、一〇円札五〇枚位五円一円取りまぜて一〇〇円余、阿藤もタンスの引出の中から金を取り出していたが金がいくらあつたか知らぬ。」(三冊六一四丁)

(二) 分配、「私は久永、松崎、稲田に一〇〇〇円宛渡した。阿藤は一人三〇〇〇円宛ならよかろうと云つて右三人に金を渡していたが、私の渡した金と一緒で三〇〇〇円になるのか阿藤が三〇〇〇円宛渡したのか知らぬ。」(三冊六二一丁)

5 検事一回調書によると

(一) 奪取金員、「一〇〇円札と一〇円札が「コヨリ」で結んであつたが隙間があつた。一〇〇〇円札は塵紙に包んであつた。懐中に五〇銭銀貨や一円銀貨があつた。阿藤もタンスの着物の間から金を取り出していた。」(三冊六二八丁)

(二) 分配、「私は阿藤を除く三人に一〇〇〇円宛渡し、阿藤は右三人に三〇〇〇円宛渡した。後で私の持つていた分を計算してみたら一〇〇〇円札五枚、一〇〇円札二〇枚位、一〇円札二〇枚位、一円や五〇銭の銀貨が全部で一〇〇円位あつた。」(三冊六三〇丁以下)

6 同八回調書によると

(一) 奪取金員、「一〇〇〇円札束四〇枚位の中五、六枚を私がとり他は阿藤がとつた。一〇〇円札束(約一糎の厚さ)の中五、六枚を私がとり、他は阿藤がとつた。五円や五〇銭の銀貨も私が少し抜き取つた。」(三冊六六四丁)

(二) 分配、「取つた金は全部で五万円位、その中一〇〇〇円札四〇枚位は阿藤が捕つた後の弁護士代やら保釈金に使うと云つて持つていた。」(三冊六六五丁)

7、原審第一回公判調書によると

奪取金員及び分配、「一〇〇〇円束が五万円位束にしてあつたのを私が五、六枚とり他は全部阿藤がとり、私は阿藤を除く三人に一〇〇〇円宛やつた。」(一冊一六丁)

8、原審検証調書中の指示供述によると

(一) 奪取金員、「一〇〇〇円札が五万円位あり、その中から五、六枚を私がとり他は阿藤がとつた。一〇〇円札と一〇円札が五分位の束にしてあり、懐中に五〇銭と一円があつたので私がとつた。」(一冊三六丁)

(二) 分配、「私は一〇〇〇円札を阿藤を除く三人に一枚宛やり、一〇〇円札を阿藤に三枚やつた。阿藤は私を除く三人に二、三〇〇〇円宛やるが残りの金は弁護料保釈保証金にわしが預つておくと云うていた。」(一冊三八丁)

9、原審第八回公判調書によると

奪取金員、「一〇〇〇円札束一〇〇円札束(各一寸位の厚さ)の中各五、六枚を私がとり他は阿藤がとつた。枚数は記憶にないが一〇円札は私がとつた。」(四冊七六九丁)

とそれぞれ述べており

10、その後差戻前の控訴審公判では、奪取金員の点について9、分配の点について4の(一)と略同様の供述をなし(六冊一一一二丁、一三五三丁)

11、昭和二九年八月三〇日広島刑務所で正木、原田香留夫等に対し「一〇〇〇円札束は煙草バツトの厚さ位であつた。」と述べ(前掲吉岡の接見表及び三冊四三一八丁メモ)

12、最後に当公廷では証人として「稲田も押入を探した。金を分けるとき阿藤が今日はさしむき三〇〇〇円宛やつておいて残りは明日計算すると云つた。」と新事実を追加し且つ一〇〇〇円札束の厚さを一寸位ともいい煙草バツト位とも述べた外右10と同趣旨の証言をなし(一二冊三五五〇丁以下)

たのである。

かようにして1の単独犯を自供した際には奪取金七五〇〇円位、2の六人共犯の時にはこれに一〇〇円余を追加したのみで分配の供述をせず、3の五人共犯を当初私に自白したときは奪取金額、分配金額共に曖昧で、その額が不明であり、4において自己が久永、松崎、稲田に一〇〇〇円宛計三〇〇〇円宛分配し、阿藤からも各二〇〇〇円位渡したと初めて供述し、右三〇〇〇円を加算して自己の奪取額を一〇六〇〇円位に増額したのであるが、阿藤の奪取金額は不明である。5の供述は奪取額が依前曖昧で捕捉し難く、6に至り一躍して奪取総額を約五万円と変更し、その中四万円位を阿藤が弁護士料、保釈保証金等に充てるためとつたと供述し、その後7ないし12に記述しているように一〇〇〇円札束の厚さ等を転々変更し、特に最後に至つて阿藤が「さしむき三〇〇〇円宛やつておいて残りは明日計算する」と言つた旨供述しているのである。次に原判決のあげる証拠(特に中本イチ「一冊二〇八丁」八木初江「同二一〇丁」の各検事調書及び証第一四号ないし第一七号)等によつて吉岡自らが犯行後費消又は所持していた金額を調査してみるに、自動車賃四五〇円、遊興費四四〇〇円、酒肴代その他一六〇〇円位、逮捕当時の所持金一〇〇〇円計七四五〇円位であることが認められ、犯行直前吉岡が金銭を所持していなかつたことは記録上疑いを容れないところであるから、右の金員は吉岡が早川方で奪取したものと認めざるを得ない。そしてこの金額は吉岡が単独犯を自供した際の奪取金に関する供述1と恰もよく一致するのである。

そこで進んで被告人等がこの点について如何なる供述をしているかを調べてみるに

1、被告人阿藤の供述

(一) 警察二回調書によると、「私は何も取らなかつた、久永から一〇〇〇円札二枚貰つた。」(四冊七九六丁)

(二) 同三回調書によると、「吉岡と稲田がとつた金を出したので私が各人に一〇〇〇円札一枚、一〇〇円札二枚、一〇円札四、五枚宛配り、残金二六〇〇円は私が取つた。私が取つた二六〇〇円の金は、徳山のマーケツトで、私、久永、稲田の三人で飲み一五〇〇円位使い、残りは一月二六、七日の両日徳山で皆の者と使つた。」(四冊八〇三丁)

(三) 同四回調書によると「私は何も取らぬ、旧八海橋の処で私が金を集めて四人に一六〇〇円か一七〇〇円宛渡し、私は二五〇〇円位とつた。」(四冊八一二丁)

2、被告人松崎の供述

(一) 警察一回調書によると「阿藤から一〇〇〇円札二枚、吉岡から一〇〇円札五枚貰つた。この金は一月二六、七、八日の三日間に飲食費映画代等に全部費つた。」(四冊八二四丁、八二七丁)

(二) 同二回調書によると「阿藤から一〇〇〇円札一枚貰つただけで前回二五〇〇円貰つたと述べたのは、嘘である。この金は菓子代映画代等に使つた。」(四冊八三三丁)

(三) 同三回調書によると「阿藤から一〇〇〇円札一枚、吉岡から一〇〇円札五枚、一〇円札六、七枚貰つた。」(四冊八四三丁)

3、被告人稲田の供述

(一) 警察一回調書によると「阿藤と吉岡から一〇〇〇円宛計二〇〇〇円貰つた。この金は全部遊興費に使つた。」(四冊八五三丁、八五四丁)

(二) 同二、三回調書によると「吉岡、阿藤から一〇〇〇円宛貰つたがこれは映画、買食煙草銭等に使つた。」(四冊八六五丁、八六八丁、八七六丁以下)

4、被告人久永の供述

(一) 警察二回調書によると「吉岡から五〇〇円、阿藤から一〇〇〇円受取つた。この中一〇〇〇円は母に渡し、五〇〇円は徳山駅前のローズ喫茶店で飲食費に使つた。」(四冊八九三丁以下)

(二) その後同三ないし五回調書でも右分配額に関する供述を維持したのであるが、四回調書において使途を「一月二五日徳山の喫茶店で一二五円位、その隣りのゲーム屋でチケツト三〇〇円使い、五七五円はすられたのか落したのかなくなつていた。一月二六日ローズ喫茶店で五〇〇円使つたことは前に述べた通り間違いない。」(五冊九一二丁)

とそれぞれ供述したことになつている。

被告人等の司法警察員に対する自白を内容とする供述が殆んど信用に値しないことは後段(第二章参照)に詳説するとおりであつて、現に右に掲げた各被告人の供述もそれぞれ変転し、吉岡の前掲供述を含め五名相互間の供述が牴触し互に相容れない関係に立つているのである。しかも原審で取り調べた全証拠を調査してみても、被告人等四名が奪取領得して費消したと自供している前示供述部分について何らの裏付け資料がなく、又被告人等が奪取したと自供する金員を隠匿したと推測せしめるような証左もない。更に当審で提出された尨大な書証と証拠物、並びに証拠申請をなしたが採用されなかつた数多くの証拠、及び裁判官の岩井武雄に対する証人尋問調書(同人は二、三〇回取り調べを受けたように証言している。四九冊一九二三一丁)当審証人中野末広の証言(同人は本件が差戻後捜査官に再々取り調べを受けた旨証言している。二一冊七五二二丁)、同木下六子の証言(同人は昭和三三年一月以降再々取り調べを受け、他家に嫁している姉、病気入院中の兄及び既に離婚していた前夫佐久間隆一も取り調べを受けた旨証言している。四七冊一八四八一丁、ないし一八四八七丁)を綜合すれば、検察官が本件の差戻後証拠蒐集のため絶大な努力を傾けたことを察知するに十分である。従つて問題の奪取金員及びその使途等についてもできる限りの捜査活動がなされたであろうことは容易に想像されるのに拘らず、被告人等の前示自白供述を裏書するに足る立証は何一つなされなかつたのである。しかのみならず、当審証人木下六子の証言(四六冊一八一一一丁以下)によれば、同女は昭和三三年一一月一〇日頃偽証容疑で逮捕され、同年一二月三日頃保釈されるまで平生警察署に勾留され、その間連日朝から夜九時頃まで取り調べを受けたことが認められ、且同証人は同年一一月一七日頃以降偽証容疑を認めた上一切の真相を告白した旨証言しているのであるから、本件の凶行前後を通じ被告人阿藤の内妻として同人と起居を共にしていたことの明らかな木下六子に対し、その間における被告人阿藤の金銭所持ないし費消等の状況について質問がなされ、同女がこれに真実を告げて応じたであろうことは容易に推測し得るところである。しかるに本件の凶行後阿藤が奪取金員に相当するような不相応な金銭を所持ないし費消したとの点については遂に同証人によつて何等の論証がなされなかつたのである。却つて被告人阿藤の当公判廷における供述(三六冊一四二七〇丁以下)木下六子の警察調書(三冊五一四丁以下)及び当審証人木下六子(前後四回二八冊一〇三五二丁以下、三〇冊一一五四五丁以下、四六冊一八一一一丁以下、四七冊一八三五七丁以下)同阿藤小房(三二冊一二一五三丁以下)同木下きくよ(三五冊一三九八〇丁以下)の各証言に照すと、被告人阿藤及び木下六子は昭和二六年一月二五日より同月二八日朝まで上田節夫方に起居していた間も金銭に窮し、そのため昼間稼働しない六子の如きは、その間二三回を除いて食事すら取り得ず、同月二八日阿藤がその前日受取つた人夫賃金約一〇〇〇円中五〇〇円を母小房に渡し残金を旅費として両名で漸く六子の実家へ赴いたのであるが、その間阿藤は所持金不足のため、田布施駅より徳山駅まで無賃乗車の非行を敢てした程である。そして翌二九日同家を辞去するにあたり六子が同女の母より金一〇〇〇円と米少量を貰い受け両名で帰途についたところ三田尻駅で阿藤が逮捕されたのであるが、そのとき同人は所持金なく、六子も右一〇〇〇円で買物をしその釣銭約六〇〇円を所持していたに過ぎなかつたことを認定することができる。更に又、原審証人上田節夫(一冊一八六丁以下)当審証人岩井武雄(二一冊七四二九丁以下、二二冊七六九一丁以下)の各証言、被告人稲田の警察二回調書(四冊八六六丁)被告人阿藤が差戻前の二審に提出陳述した上申書(六冊一二六五丁)同稲田の上申書(六冊一二八八丁)及び右被告人両名の当公廷における供述(三二冊一二五四八丁以下、三六冊一四二七〇丁以下)を綜合すれば、被告人阿藤、同稲田、同久永等は一月二五日早朝より徳山へ稼働に出かけ、道具類が揃わなかつたため早目に仕事を打切り、同市内の映画館に入つたが、その際三名共入場料に窮し、阿藤の友人で同映画館の映写技師をしていた三宅某に依頼して無料入場した事実を推認することができる。以上の各事情からしても被告人等四名の前示各自供は信憑力の極めて薄弱なもので採るに値しないことを窺うに十分である。本件は不幸にして被害者両名が死亡しているため被害者の側より提供する資料によつて被害金額を確定する途なく、各被告人の自供も右に述べた事情によつて採り得ないとすれば、専ら吉岡の供述に頼らざるを得ないのである。

そこで吉岡の前示1ないし12の供述を検討してみるに、阿藤が本件犯行の終了した頃と目される日時以降逮捕されるまでの間に四―五万以上の大金を所持又は費消隠匿したと推測せしめるような証拠の片鱗もないのみでなく却つて金銭に窮していた事情からすれば、6ないし12の供述の信用し難いのは当然のことであり、原審も亦原審公判廷における自供を含む6ないし9の供述を信用しなかつたからこそ奪取金額を一六一〇〇円と認定したものと解される。次に原判決がこの点の証拠に採用したと目される警察六回調書によると、吉岡自らが約一〇六〇〇円奪取し、内三〇〇〇円を被告人稲田、同松崎、同久永の三名に一〇〇〇円宛分配し、阿藤は自らの奪取金員中右三名に少なくも各二〇〇〇円宛合計六〇〇〇円を与えたというのであるから、これを合計すると一六六〇〇円となり、既に原判決の認定額を超え、阿藤自身は一銭も領得しなかつたのみでなく、五〇〇円位自己の所持金を提供したような皮肉且つ不自然な結果を招来するのである。尤も原判決は被告人等の各警察自白調書をも証拠として挙示しているのであるから、或は奪取金員の認定について被告人等の前掲供述中領得金の最も多額なもの(阿藤二六〇〇円、松崎二五〇〇円、稲田二〇〇〇円、久永一五〇〇円)を採用し、右合計八六〇〇円と、吉岡が費消或は所持していたことの明瞭な奪取金計約七五〇〇円とを合算し、一六一〇〇円と認定したものとも解されるのであるが、若しそうだとすれば、原審自らがその採用した吉岡供述に不信を表明したことを意味するものである。

以上何れの場合であつても、発覚すれば死刑又は無期懲役刑で科せられるような本件犯行を、被告人阿藤が発意して且つその主役を演じ、他の被告人等がこれに共鳴加担したのであれば、自己等が三〇〇〇円、或いは一五〇〇円ないし二六〇〇円の分配に甘んじ、吉岡に対しその数倍にあたる約七五〇〇円を与えて同人に遊興費を貢ぐような愚を敢てするとは到底考えられない。なお阿藤が数万の大金を領得したことを疑わしめるような証左のないことは前に述べたとおりである。

かように種々の角度から観察して来ると、吉岡前掲1ないし12の供述はそれ自身に動かすことのできない裏付け証拠のある12のそれを除きその余は総て信用することができない。

四、早川方へ赴く途中清力用蔵が追越したとの点について

吉岡は検挙されてから昭和二十六年四月一三日までの間に司法警察員より五回、検察官より九回の取り調べを受け、それぞれ供述調書が作成されているのであるが、これらの調書を通覧すると、検事九回調書において突如として、

1「一月二四日の晩五人で早川方へ悪いことをしに行つたが、その途中八海橋を渡つて二町位行つた地蔵さんの辺を通りかかると、後から八海の清力用蔵が自転車に乗つて私等を追越した(三冊六六〇丁)と供述し、原審検証の掲示説明(一冊三一丁)、原審第五回公判(二冊四七二丁)、差戻前の控訴審公判(六冊一三四八丁)及び当公廷(一三冊三七五七丁以下、一六冊五四四四丁以下)においても右供述を維持したが、原審検証の際には「清力が追越したとき自分と阿藤の二人であつた」ように供述し、当公廷(一六冊五四四四丁以下)では「清力は自転車に乗つていたようでもあり、自転車を押していたようにも思う」と曖昧な供述をなした。

2 ところが、金山上申書(一三冊四三〇二丁以下)、金村上申書(一三冊四三〇六丁以下)、林上申書(上告審一冊一九一六丁以下)においては、何れも右事実を否定し、特に林上申書においては、検察官に対し当初前掲1のような供述をなしたのは三好等警部補の示唆誘導によるものであると述べている。

この点について

1 清力用蔵は

(一) 原審証人として「昭和二六年一月二四日夕方自転車で平生町へ行き、平生座の前で一〇時のサイレンを聞き、自宅へ一〇時半頃帰つた。」(一冊五一丁以下)

(二) 差戻前の控訴審証人として「一月二四日午後七時頃浪花節を聞くため歩いて平生座へ行き、浪花節が終り平生座の出口で一〇時のサイレンが鳴つたように思う。友人岡本軍一と二人で歩いて帰つたが、その途中八海橋を渡つてから一人すれ違つたようにも思う。平生座から自宅まで歩いて三―四〇分かかる。」(六冊一一八三丁以下)

(三) 当審証人として「一月二四日晩方岡本軍一と二人で自転車に乗つて平生座へ浪花節を聞きに行つた。九時五〇分か五五分頃終り、平生座の前に出たとき一〇時のサイレンが鳴つた。そして帰りは二人共自転車を押して何処へも寄らずに帰つたが、途中石地蔵近くの分岐点付近で一人か二人を追越したように思う。」(二三冊八〇八三丁以下)

2 岡本軍一は

(一) 差戻前の控訴審証人として「一月二四日清力と二人で歩いて平生座へ行つた。午後一〇時頃平生座を出て帰つたが、途中石地蔵の辺で誰にも出会つたような気がしない。」(六冊一二〇一丁以下)

(二) 好並検事に対する一回調書(昭和三三、一、二二付)において「一月二四日夕方清力と二人で自転車に乗つて平生座へ行つた。浪花節が終つて小屋を出てから一寸してサイレンが鳴つた。二人で自転車を押して帰つたが、途中石地蔵付近で二、三人の男を追越した。」(四三冊一六七六四丁以下)

とそれぞれ供述しており、事件後日時の経過に従い供述が変遷し、しかも後になるほどその内容が判然としていること及び自転車を殊更押して帰つたとの点について不可解の感を抱くものであるが、何れにしても前掲吉岡の1及びこれと同旨の供述は右両名の供述に牴触するのである。

右両名の供述を綜合し、これに当審証人曽村民三の証言(二三冊八二七一丁以下)を参照すれば、平生座の浪花節興行は午後一〇時より数分前頃に終り、両名は平生座を出てから間もなく一〇時のサイレンを聞き、途中何処へも立寄らず八海橋を渡り石地蔵付近を通つて帰宅したものであることを首肯し得るところ、当審施行の第三回検証の結果(四五冊一七五二四丁以下)によると、平生座より石地蔵までの通常歩行所要時間は一三分弱であることが認められるから、清力岡本の両名は午後一〇時一三分頃遅くとも一〇時一五分頃には石地蔵付近を通過したものと推定するのが相当である。しかし右時刻に被告人阿藤、同久永、同松崎等が同所付近を通行することのあり得ない事情は前掲第四、二で詳論したとおりであるから石地蔵付近で清力用蔵が吉岡及び被告人等を追越した旨の吉岡の供述は信用に値しないことが明らかである。若し吉岡が真に清力用蔵と遭遇したものであれば、数回にわたる前掲供述において、清力と行を共にしていた岡本軍一についても当然触れなければならない筈であるのに拘らず、同人について片言も述べていないところからしてもこれを裏書することができる。そしてこのことは同時に清力用蔵と会つたと述べ始めたのは三好警部補の示唆によるものである旨の前掲林上申書中の記載が必ずしも虚偽でないことを推測する一資料と解し得る。これらの事情に、吉岡が早川方へ赴いたのは午後一〇時より前と推測される(前掲第四の二参照)状況を綜合して考察すれば、吉岡は清力が当夜一〇時過頃石地蔵付近を通過した事実を何らかの機会に察知し、岡本が行を共にしていた事実を知らない一知半解の知識で前記のような供述をなすに至つたものと推測することができる。又清力用蔵、岡本軍一の前掲供述中石地蔵付近で一人ないし三人位を追越した旨の供述はそれ自体頗る曖昧であるのみならず、若しそれが真実であつたとしても追越した相手の中に少くも被告人阿藤、同久永、同松崎等がいなかつたということは以上の論証によつて明瞭である。

五、一月二四日夕刻八海橋付近における謀議について

原判決は「一月二四日午後一〇時四〇分頃被告人等四名及び吉岡は八海橋に集合し、被告人阿藤から家の勝手をよく知つている吉岡は先に侵入して戸を開けるように、自分は稲田と侵入して長斧を探す、松崎は見張をし、久永はロープを探すようにと各人の分担を指図し、その外終つた後の始末や発覚したときの対策等について話合い、場合によつては老人夫婦を殺害することを相互に了解し、以つて五名は早川惣兵衛方から金品を奪い取ることの共謀を遂げた」と認定しており、右認定の根拠たる証拠は吉岡の警察六回調査及び同人の原審公判廷における供述であることが明らかであるから、この点に関する吉岡の供述を検討してみるに、吉岡は検挙当初早川方へ侵入するまでは窃盗の目的であつたように供述していたのであるが、前示調書において初めて八海橋付近で強盗殺人を謀議した旨供述するに至つたものである。即ち同調書によると「五人の者が下八海に下つて行きだすと、阿藤が吉岡は開ける、久永はロープを探す、松崎は人が来たら口笛を吹く、稲田は婆さんを叩いて首をしめる、俺は薪割を探す、家の中に入つたら吉岡、自分、稲田、松崎、久永の順で一人が一回づつ殴ろう、婆さんは叩かずに首を締めよう、その後で夫婦喧嘩のように見せかけようではないかと云つた、皆んなはそれも良かろうと返答をした。この時早川夫婦を殺すということが決つたのである。」(三冊六〇八丁)旨供述し、その後検察官に対し(検一回、三冊六二四丁以下、検事検証調書、二冊三二九丁)、原審公判で(五回四七一丁以下)、或は差戻前の控訴審公判で(六冊一三四三丁)同様の供述をなし、当公廷でも右の供述を維持した(一二冊三五五〇丁以下、一三冊四一五九丁以下)。

しかしながら既に最高裁判所の判決が指摘しているように、怨恨関係によるものでなく単に金員奪取を目的とすることの明瞭な本件の犯行において、事前に吉岡が供述するような、早川夫婦殺害の方法、各人の役割、殴打の順序、殺害後の偽装工作まで詳細且つ具体的に打合せをするのは極めて不自然であるのみならず、事前に夫婦喧嘩のように偽装して犯跡を隠蔽することを周到に計画したと解するには、余りにも矛盾する数々の痕跡が残されており、且つ偽装工作の方法が幼稚拙劣なのである。即ち

1 早川家炊事場北出入口付近軒下に殊更子供のような素足の偽装足跡をつくり、一見して外部から犯人が侵入したことを疑わせるような証拠を残していること(警検証調書、二冊二八九丁、原審証人松永章証言、三冊六八一丁、当審証人松本正寅証言、三七冊一四四五四丁以下、吉岡警六回、三冊六一九丁)。尤も吉岡は被告人阿藤が該足跡をつけたもののように供述している(六一九丁)のであるが、被告人等の各自白調書を検討してみても、この点について何等の供述記載がないところより考察すれば、この足跡は吉岡自身がつけたものと推測される。

2 吉岡が早川方屋内に侵入前窃盗犯人にあり勝ちな迷信から同家部屋南側付近に脱糞し殊更証拠を残したこと(吉岡警六回、三冊六一〇丁・原審証人三好等証言一冊一〇八丁)。

3 吉岡が新庄藤一方で借り受け所持していた指紋の残り易い焼酎入瓶を早川方へ携行し、同家台所で棚にあつたサイダー瓶に焼酎を入れかえ、元の瓶を棚に置き、自己の指紋がついた右サイダー瓶を不用意にも同家北出入口付近軒下に放置して遺留し決め手となるような証跡を残したこと(吉岡警六回、三冊六一一丁以下、現場指紋対照書、二冊四八三丁、証第一、二号の瓶・前示検証調書、二冊二八八丁)。

4 早川方納屋硝子戸を開けるのに使つたと称するバールを吉岡が現場に遺留したこと(吉岡検八回、三冊六六三丁・警実況見分書、五冊九三五丁・原審証人中山宇一証言、五冊九四三丁・証第三〇号のバール)

5 早川方寝室にあつた箪笥を物色した後引出を不自然な状態にしたまま放置し(右検証調書、二冊二八八丁)、或は惣兵衛の屍体下の畳をはぐり金銭を探した際電灯点滅用紐を畳の裏側に喰込ませて置き(同二八六丁・吉岡警六回三冊六一五丁)金品を物色したことを疑わせるような状況を明らかに露呈していること。

6 足跡隠蔽のため惣兵衛夫婦の寝室にあつた火鉢の灰を撤きながら(前示検証調書二八六丁・吉岡警五回三冊五八九丁)、皮肉にもその灰の上に吉岡自身の足跡を残していること(第三章第三の一参照)

7 縊死のように見せかけるため、ヒサの屍体を麻縄で鴨居に吊り下げたのに拘らず(吉岡警六回三冊六一五丁以下)、同女の頸部を緊縛した部分の麻縄の輪が極めて小さくヒサの頭部も通らないほどであり、しかもその後頭部の結び目に同女の頭髪を喰い込ませ、又鴨居には麻縄の喰い込んだ擦れ傷が歴然と残存し、特にその片側は他の側に比較し擦れ傷の幅が広く且つ深く、しかもその付近に麻縄による擦れ傷がありこれらの事情と、鴨居に結びつけた麻縄の状況及び両足を後に曲げて畳につけているヒサの頗ろ不自然な姿勢と様相(前記検証調書二八七丁及び二九九丁ないし三〇一丁の各写真、原審検証調書一冊四三丁・証一二九号の鴨居)とを併せ考察すれば、縊死の偽装工作は頗る稚拙で殺害後麻縄の中央部で頸部を縛り、しかる後麻縄の両端を鴨居の上に通しそれを引下げると同時に屍体を抱え上げ縄を緊縛して吊り下げたものと容易に推知できる状況であること。

8 ヒサが惣兵衛を殺害した後縊死したように偽装するため、同女を鴨居に吊り下げた後ヒサの足裏に惣兵衛の血をつけながら、(前示吉岡調書六一六丁・前掲検証調書二八七丁)滑稽にも畳上にこれに対応する血痕付着の偽装足跡をつけていないこと(原審証人松永章証言、三冊六七三丁、右検証調書、二八二丁以下)

右の外犯行現場は一見して何人にも両名共他殺であることを感得できる状況であつたことが認められる(同検証調書、二八七丁・原審証人清力用蔵証言、一冊六二丁・同松永章証言、三冊六七三丁)

以上のうち、屋外に殊更偽装足跡をつくり(前掲1)、或は脱糞する(前掲2)等の行為は、事前に夫婦喧嘩を偽装すべく通謀したものとするならば、将にこれと相容れない精神分裂症的行動であり、その余の各挙動ないし状況も右通謀の存在に矛盾する資料というべく、これ等各般の事情から考察すれば、本件の犯人は知能が低劣か、或は犯行当時酩酊等のため注意力が極めて散慢になつていたものと推定することができる。

そして、吉岡は当日午後三時過頃より午後六時半頃までの間に、新庄藤一方で焼酎約五、六合を飲み、更に同家を立去る際焼酎二合を借り受けこれを早川方へ携行したのであるが(吉岡警一回、三冊五四四丁以下・同四回、三冊五六二丁以下・当審証人新庄サツヨ証言二四冊、八六七七丁以下・同新庄藤一証言、二四冊八七一〇丁以下・同吉岡晃証言、一二冊三五五〇丁以下)、凶行に着手するより前に右焼酎の殆どを飲み、犯行当時もかなり酩酊していたものと推認できる(吉岡警一回三冊五四七ないし五四九丁・同四回三冊五六四丁以下・同五回三冊五八四丁以下・同六回三冊六一一丁以下・原審五回公判調書、二冊四七一丁)のに反し、原審並びに当番で取り調べた全証拠を調査してみても、被告人等が当夜飲酒酩酊していたと認めるべき資料はなく、又同人等の知能が低劣であるとみるべき根拠も見当らない。尤も吉岡は当公廷で証人として被告人等四名が八海橋の上で、吉岡の所持していた焼酎を一口宛飲んだ旨証言するのであるが、これは従来の同人の各供述に照し毫も信用の価値なく、却つて吉岡の嘘言癖を裏ずける資料を提供した点において意義を見出し得るのみである。

かように観察して来ると、吉岡の前掲通謀に関する供述は被告人等の供述と比較対照するまでもなく、その信用性が極めて薄弱で採るに値しないものであることを窺知するに十分であり、むしろ以上の各事情に吉岡の警察一回調書(三冊五四〇丁以下)及び同人の答弁書(六冊一一〇六丁以下)を綜合考察すれば、同調書記載の如く当初窃盗の目的で早川家へ侵入し、家人に発見されたため酔余周章狼狽の結果早川夫婦を殺害し、しかる後犯罪の発覚を虞れて幼稚極まる偽装工作をなしたものと推測するのがより自然であり、吉岡が当審第四二回公判で八海橋付近の謀議の点について曖昧極まる証言をなした(三二冊一二七四四丁以下)のもこの推測を裏書する一資料と解し得る。

六、早川方屋内への侵入口の点について

早川方屋内への侵入口についても、吉岡の供述が例によつて変転又変転し、容易にその真相を捕捉し難いのに反し、出口については、台所より床下にもぐり母家の裏側より脱出した旨一貫した供述をなし、これは関係証拠とも完全に符合し真実と認められるのである。しかし脱出に関する供述は侵入に関する供述と密接に関連するので、両者併せ摘記してみるに、吉岡はこの点について

1 警察一回調書(単独犯)において

(一) 侵入口、「母家と部屋との間の硝子障子(以下勝手口と略称する)を開け、そこから中へ入り炊事場から台所に出て座敷に上つた。」(三冊五四九丁)

(二) 出口、「私はその時侵入した出入口が開放したまま早川の宅に入つていたので、直ぐ出入口の硝子障子をしめて捻込錠をしておいた。私は出入口に困つた揚句のこと台所の階段の下側の蹴込があることに気がついてそこから床下を這つて出て行くべく床下を覗いて見たら板らしきところが見当り、月の光が流れていたのでそれを目当てに這い出し、裏山の方向の板戸を押して外に出た」(三冊五五五丁)と述べ

2 同四回調書(六人共犯)において

(一) 侵入口「勝手口の障子を開け、阿藤、稲田、私の順に入つた。」(三冊五六九丁)

(二) 出口「その後稲田が俺等は外に出るから後をしめて置け、お前は床の下から出え大方出られるよう外に出てから出るところを見てやると云つたので、私は最初入つた出入口の障子の捻込錠をしめ、台所の階段の下側の蹴込み板の処から床下に足の方から入れて蹴込板を元のままに直しておいて床の中で一廻りしておる処に外側から音がしはじめたのでそれを目標に動いて居たら板が外れて月の明りがあつたのでそれを目当に外に出た。その時板を外してくれたのは稲田であつた。」(三冊五七五丁以下)と述べ

3 同五回調書(以下五人共犯)において

(一) 侵入口「勝手口の硝子障子を引張つてみたが開かないので裏手に廻り板戸の下側の板をはぐり、床の下から入つて台所に出て、そこから炊事場に行き勝手口の硝子障子を開けた。それから炊事場の出入口の硝子戸と板戸を開けてやつた。阿藤は何処から入つたか知らぬ。」(三冊五八三丁以下)

(二) 出口「私はお前等は出え、俺がしめておくからと云うと、阿藤と稲田は裏口か表の出入口から外に出た。私は勝手口の硝子障子をしめ捻込錠をかけ、それから炊事場出入口の板戸を硝子障子を元通りにしめた上、階段下の床下から外に出た。」(三冊五九〇丁以下)と述べ(以下出口については略同旨の供述をなしているので必要と認めるものを挙示するに止める)

4 同六回調書において

「勝手口の戸が開かないので裏手に廻ることにしたが、部屋の前で私が大便をしていた時阿藤が部屋の中連の処で硝子障子をがたがた動かしていた。私は裏手へ行き板をはぐつて床の下に入り台所に出た。それから炊事場へ行き北出入口の戸を開けて外を見たら二、三人の者が月の明りで見えた。私は炊事場から台所を通つて座敷に上り奥座敷に近寄ると布団の動くような気がしたので、炊事場まで引返したところ、阿藤がそこに来ていたが、阿藤が何処から入つたか解らぬ。」(三冊六一〇丁以下)と述べ

5 検事一回調書において

「私が阿藤から長斧を受取る時は、他の者は皆んな私が開けておいた出入口(炊事場北出入口)から入つたのではないかと思うが炊事場に入つて居た」と追加した外4と略同様の供述をなし(三冊六二六丁以下)

6 検察官施行の第一回検証において

「私が便所の前で大便をしている時阿藤が部屋の便所の東側硝子戸を音を立ててさわつていました。私は裏へ行き床下から家の中へ入り、勝手口の戸を少し開け、ついで炊事場の北出入口の板戸を開けて瓶を外側に置くと出口の阿藤達が立つていた。私は一人で板の間を通つて部屋に上り様子を窺うと、手がふとんにさわる様な音がしたので気が進まんので炊事場へ引返してみると既に阿藤、松崎、久永、稲田も入つていた。」(二冊三三〇丁以下)と指示説明し、同第二回検証において「床下の出入口を塞ぐため釘で打ちつけてある古板が二枚ありましたので、左側の板を左手で上の方を持ち右手で下の部分を持つて前に引張ると釘の打ちつけてある部分が割れて板が外れたので、右側の板を横に引張つて取り外し床下の中に手をのばし頭から腹ばつて入つた。」(二冊三五五丁)と述べた外右と略同旨の説明をなし

7 検事八回調書において

「私が大便をしていると、阿藤が部屋の硝子窓をがたがた音をさせながら開けていた。するとそこへ稲田が来て阿藤に金棒のようなものを渡していた。そのうちに阿藤と稲田が金棒で窓をこじ開け、二人は廊下へ入つて窓をしめた。私も一諸に家の中へ入ろうとすると、阿藤が家の中に人が居るといけんから、二部屋に別れて入らないといけんからお前は母家の裏から入れというので、阿藤から受取つた金棒を密柑の木の下の盛り上つた土の中に差し込んだ上、私が今まで再々申上げた通り母家の床下から入つた。久永と松崎は私が開けた北側勝手口から入つたものと思う。」(三冊六六三丁以下)と述べて阿藤、稲田の侵入口を変更し、原審検証(一冊三二丁)、原審第八回公判(四冊七六三丁・七六七丁)においても右と略同趣旨の供述をなしていたところ

8 差戻前の控訴審に提出した上申書及び答弁書において

「阿藤、稲田がチユウレンから侵(入)つて行つたので、私もそこから侵ろうと思つて、それを越そうと思つて腰かけると稲田がお前は此処から入るな、もしも母屋の方にも寝ていたら困るからお前と久永は母屋の裏から侵れというた。」(六冊一一二〇丁一一〇六丁)と述べて7の供述を一部変え

9 差戻前の控訴審公判では

「私と久永は裏の床下から入つた。」(六冊一三五〇丁)と8の供述に一部照応するような供述をなし

10 当公廷では「阿藤が私にお前と久永は裏口に入るところがあるから入れというた。二手に別れたのははさみ討ちにするためである」と述べた外7と略同旨の供述をなし(一三冊三七五七丁以下)

11 最後に二人共犯を自供した前掲金山、金村、林各上申書中

(一) 金山上申書において

「金山は便所中連を機具をもつてこじ開け、私は彼と共に便所より入り座敷を通つて庭に出た。庭より玄関に通ずる戸の中央に五寸釘を差し込んでいたが、なかば抜けかかつていたところをないふでこじ開けた。私は炊事場より一旦表に出て、裏に廻り座敷の下から台所に出て、炊事場より入つた彼と協力して奥座敷に入つた。」(一三冊四三〇二丁以下)と述べ

(二) 金村上申書において

(1) 侵入口「金村が勝手口のがらすどをあけた、そこから二人ですいじばにいつた。金村がとをあけておくに入つていつた。私は金村がだしていたほうちようをもつておもやのほうに入つていつた。」

(2) 出口「そしていよいよすんでから金村はこの下からでられるのではないかとゆかしたをみてうらにまわつたので私もでた。そしたらちゆれんの下に板がうつてありましたので、ここからでられるぞといつて又中に入つた。私はとをしめて、ここからでいいおれがあしこうやぶつてやるからというので、そのゆか下をくぐつて出た。」(一三冊四三〇六丁以下)と述べ

(三) 林上申書において

1と同旨の供述をなし(上告審一冊一九一六丁以下)ているのである。

以上のように、吉岡は自己の侵入口について「勝手口」「母家裏手床下口」「部屋中連窓」と種々の供述をなし、被告人等の侵入口についても各種各様の供述を試みているのであつて、その真相を看破することは至難の業であるが、警察検証調書(二冊二八二丁以下)によれば、勝手口の硝子戸には捻込錠が取りつけられていたことが明らかであるから、当夜も右の戸に施錠がなされていたものと想定するのが一応自然であつて、勝手口が開かなかつたとの点に関する限り前掲3以降の供述は信用に値するものと思料される。従つて勝手口より侵入した旨の供述は採用できない。そこで進んで原判決が証拠に引用している原審公判廷における供述(第八回公判)及びこれと同旨の供述(710)を検討してみるに、これらの供述は要するに、吉岡が部屋南側空地で大便をしていたところ、阿藤、稲田がその北側の部屋中連窓を金棒様なものでこじあけて部屋の廊下に入り、続いて吉岡が入ろうとすると、阿藤が吉岡に対し、母家にも人がいるといけぬから二手に別れて母家裏側から入れと命じ、その窓をしめたので、吉岡はその際阿藤から手渡された右金棒様のものを携えて裏手へ廻る途中これを同家南側推肥中に差し込んだ上裏手の板をはぐり床下にもぐり込み侵入したというのである。そして右供述と原審検証調書(一冊四二丁)、警察実況見分書(五冊九三五丁以下)、原審証人中山宇一の証言(五冊九四三丁以下)及び証第三〇号のバールとを綜合すれば、なにびとかが当夜早川方部屋東側に付属する便所前(南側)の硝子戸をこじあけて侵入したものと推認されるのであるが、吉岡自身が裏手床下口から侵入した旨の供述部分には次のような不可解且つ不自然な点がある。即ち、(1)本件は先に述べたように怨恨関係等による謀殺ではなく、当初窃盗の目的で侵入し、被害者に発見されたため両名を殺害したものと推測され(前掲第四の五参照)、しかも当時早川家には抵抗力のない老夫婦のみ居住していたことは吉岡自ら百も承知していたのであるから、同人等に備えて二手に別れ別異の場所より侵入するということは何人も到底首肯し難いところである。(2)次に警察検証調書(二冊二八二丁以下、特に添付写真及び図面参照)、検事検証調書二通(二冊三一六丁以下三五三丁以下)、原審検証調書(一冊二八丁以下)を綜合すれば、吉岡が侵入したと指摘する個所は早川夫婦の寝室に北接する四畳半の西側下部であつて、同所には壁代りに板が釘で打ちつけられ(四〇丁及び三五五丁参照)、且つその西方に接し竹竿七・八本が地上に置かれ、右板を取外してみても床下口は高さ二〇糎ないし二二糎で人間が出入するには頗る窮屈であることが認められる。従つて同所より侵入するには先ず竹竿を適当にずらし、打ちつけられている板を取外し、しかる後窮屈な四つ這いの姿勢で床下にもぐり込むことを要するのであつて(吉岡も当審第三回公判でこのことを肯定する趣旨の証言をしている)、このような事前工作にはそれに相応する物音が随伴するのが必然であり、前記寝室との距離的関係からして老夫婦に察知される危険が非常に多く、しかも途中で発見された際は逃げ場所に窮するであろうことは明らかである。そして吉岡が早川方付近に居住し、同家の事情に通していたことは吉岡の全供述を通じ明白であるから、吉岡がいかに焼酎に酩酊していたとしても、惣兵衛夫婦の最も気ずき易い床下口より侵入することは不自然であり、況んや、吉岡の供述する如く、既に部屋中連窓が開いたのであれば同所より入るのが当然であつて、危険且つ困難な床下口より侵入する必要は毫も考えられない。(3)吉岡に対し裏側から入れと命じたと云う阿藤が当時裏手に侵入口のあることを知つていたと認めるべき証左がないこと。

尤も警察検証調書(二冊二八九丁)によれば「床下を検するに裏床下より土間階段下に通行したものの如く床下に痕跡がある」旨の記載があり、検事検証調書(二冊三一九丁)にも「杉板のある床下口から斜北側内部へ人が四這いしたと思われる足跡や掌跡が点々と明瞭に認められる(第八写真参照)」旨の記載があり、又原審検証調書(一冊四〇丁以下)には、立会人三好等の指示供述として「居間の床下を調べて見たところ、土に掌の跡があつて、そこから屋内に侵入したように見受けられた」旨の記載がある。しかしながら、吉岡が台所より床下をくぐつて脱出したことは証拠上動かし得ない事実であるから、若し吉岡の自供する如く、同所より侵入し、且つ脱出したものであれば、この両者に関する痕跡が残存しているのが理の当然であるところ、前記各調書は脱出に関する痕跡について何等ふれるところがなく、残存している痕跡を専ら侵入の痕跡とのみ認めているのは不可解の感を免れ難い。そして痕跡そのものについて前掲各調書は「数ヶ所の通行したと思われる痕跡」(二八八丁)「掌の跡が三ヶ所」(四二丁)「足跡や掌跡が点々」(三一九丁)と記載しているのみで、その位置、方向、形状等について何等の記載がしてないのであるから、果してそれらの痕跡が侵入の際のものか或は脱出にあたつて生じたものか疑問なきを得ない。現に検察官施行の第二回検証(二冊三五三丁以下)において立会人三好等は「私は昭和二六年一月二五日午後五時より早川方を検証した。その時床下を調べたところ二ヶ所に手の跡か足の跡かわからんが痕跡がついていた。そして床下に芋釜の籾殻が散乱していた。それは吉岡が出る時向をかえたので散乱したものと想像されます。これらの痕跡を総合して私は犯人は床下から侵入し或は出たものと想像した」(三五七丁及び三六四丁の第三見取図参照)と指示供述し、右痕跡が侵入のものか、或は脱出のそれか明らかでないことを告白しているのである。若し吉岡が裏手床下から侵入し台所に出たものであれば、前記見取図によつて知り得る芋釜の所在位置の関係上、芋釜の籾殻は当然侵入方向である台所土間に散乱する筈であるのに拘らずそのような形跡は些かもなく、却つて脱出方向である床下に散乱していたことからすれば、右床下口は侵入口でなく脱出口と推測するのが自然であり(前記三好供述参照)、前段の記述によつて推定し得る手足の痕跡数の少いこともこの推測の正当さを裏書するのである。

ここで被告人等が司法警察員に対する各自白調書において侵入口の点に関しいかなる供述をなしているか摘記してみると

1 被告人阿藤は

(一) 二回調書において「早川方裏に五人が集合し、吉岡は裏の方から入るところを見つけるべく探し、私等四人は表に廻つた。稲田が勝手口の硝子戸を開けそこから四人が入つたところ裏側へ廻つた吉岡が来て私等の入つたところから来た。」(四冊七九三丁)

(二) 三回調書において「稲田と吉岡が家の裏で入るところをあちこち探していた。私達三人(阿藤、松崎、久永)は家の横の山のところで待つていたら稲田が来て横手の板戸を少し開けてくれたので稲田、阿藤、松崎、久永の順で中に入つた。その時吉岡は家の中の暗いところにいたのでそこは吉岡が開けたものと思う。」(四冊八〇〇丁以下)

(三) 四回調書において「吉岡は北側に廻つてそこから入り、北側の戸を開けてもらい私が入り、私が前側の硝子戸を開けて三人を入れた。」(四冊八一〇丁)

2 被告人稲田は

(一) 一回調書において「吉岡と阿藤は早川の母家の裏手に廻つて入り口があつたら裏から入り表側の出入口を開けると言うので、私達三人は部屋の前の風呂場のところに行つて待つていたら、阿藤が勝手口の硝子障子を開けてくれた。松崎、久永、私の順にそこから入つた。」(四冊八五一丁)

(二) 二、三回調書において右と略同旨(四冊八六一丁八七三丁以下)

3 被告人松崎は

(一) 一回調書において「吉岡、阿藤、稲田の三人は家の正面から南側を通つて裏へ廻り家の中に入つた様であつた。私と久永は風呂場のたき口の前で見張をしていたが屋内で喧嘩をして叩きあう様な音がしたので怖しくなり久永と二人で走つて逃げ地蔵さんのへんで家の陰に隠れていた。」(四冊八二三丁以下)

(二) 二回調書において「吉岡と阿藤の二人は裏に廻り私と外の二人は前に廻り風呂の角のところで見張をしていた。暫くして阿藤が表玄関の障子を開けたので稲田、私、久永の順にそこから入つた。」(四冊八三一丁)

(三) 三回調書において「吉岡、阿藤、稲田の三人がどちらに行つたか分らなかつたが、一寸して吉岡と思うが勝手口を開けてくれたのでそこから入つた。」(四冊八四二丁)

4 被告人久永は二、三、五回調書において「吉岡が裏へ廻り勝手口の硝子障子を開けてくれたのでそこから四人が入つた。」(四冊八八九丁、五冊八九九丁九一九丁)

とそれぞれ供述したことになつている。

以上の記述で判るように、被告人等の供述は吉岡の供述と牴触するのみでなく、被告人等相互間においても多くのくい違いを示しているのであるが、何れの自白内容を吟味してみても、部屋中連窓よりなにびとかが侵入したことを想像させるような供述の片鱗も見当らないのである。被告人等四名がそれぞれ数回にわたり司法警察員に対し自白供述をなしているのに拘らず、部屋中連窓の侵入口、及び同所より侵入するに際し使用したと推測される前記バールに関して何等の供述をしていないのは甚だ奇怪なことであつて、このことはむしろ被告人等がこれらの事実を関知しなかつたためではないかと疑わせるに十分である。これに反し中連窓の硝子戸枠に傷跡のあつたこと及びバールの存在したことが何れも吉岡の供述によつてはじめて発見されたものであることは記録を通じ些かも疑を容れないところであり、更に証第三〇号のバールは通常使用されている柄の長いバールの柄の部分を切断して短くし、持ち歩くに便ならしめたものと想像されるところ、原審及び当審(差戻前の二審を含む)で取り調べた全証拠を調査してみても、被告人等が当時右バールを所持していたことを推測せしめるような資料は存しないのに反し、吉岡方には当時父兄の職業柄バール及び金切鋸があり、吉岡自ら曽て金切鋸で金属を切断した経験を有し(当審証人吉岡渉証言、三五冊一三八七一丁以下・同吉岡晃証言、四一冊一六〇四四丁以下)、しかも吉岡が単独で昭和二五年三月頃より翌二六年一月中旬頃までの間四回にわたり窃盗をなしたことは原判決の認定するとおりであるから、これらの事情を綜合すれば、前記バールは吉岡自身携行使用した疑いが濃厚である。このように種々の角度から検討すると、被告人阿藤、同稲田両名が部屋中連窓より侵入し、自らは裏手床下口より侵入した旨の前掲吉岡供述はたやすく信用することのできないものであることが明らかであり、却つて上来記述した各般の事情を綜合すれば、中連の硝子戸をバールでこじ開けて侵入したのは被告人阿藤、同稲田の両名ではなく吉岡自身であると推測することができる。

七、炊事場と台所との間にある板戸を阿藤、稲田等が刃物で突き刺していたとの点について

吉岡が自己の侵入口について「勝手口」「母家裏手床下口」「部屋中連窓」と三様の供述をなしていることは前項六で述べたところであるが、勝手口から侵入した旨供述している警察一回、四回調書においてはもとより、裏手床下口から侵入したとする警察五回調書においても、炊事場と母家台所との間に板戸のあつたこと及びその施錠ないし戸締りの状況については何等ふれるところがないのであるが、警察六回調書においてはじめて「私は台所から炊事場に行く処に板戸が締めて釘が止めてあつたのでそれを開けて炊事場に行きました」(三冊六一〇丁)と供述し、炊事場と台所との間に板戸があり、それに釘を差し込んで戸締りがしてあつた旨を明らかにしたのである。そしてその後原審検証に立会し「床下の板をこねあけて屋内の床下を通り、母家の土間に出て前方を懐中電灯で照してみると、部屋のガラス戸を開けて入つた阿藤と稲田と思うが、炊事場と母家との間にある柱と板戸の間に紙切れを差込んで上下し、錠のある処を探していたが、見つからないので、今度は板戸を小刀様のもので突いて「落し錠」を探していた。それで私は戸詰の釘を抜いたところ敷居へ阿藤等が水を撒いて音がしないようにしたのか水が流れて来た。それで私は板戸を開けた」(一冊三二丁)と指示説明し、阿藤、稲田等が刃物で板戸を突き刺す等の行為をした旨新供述をなし、その後略同趣旨の供述を重ねている(原審第八回公判供述四冊七六五丁・差戻前の二審へ提出した答弁書六冊一一〇六丁・同上申書六冊一一二一丁・当審三回公判証言、一三冊三七五七丁以下)。

そこで原審は吉岡の右指示説明に基いて検証したところ、台所と炊事場との境にある板戸のうち一枚の上部に刃物で突いたと認められる傷跡のあることが確認された。更に当審検証の結果(一五冊五〇九〇丁以下)によれば、右傷跡は上部に九個散在し、何れも刃物の先を僅かに突き刺したことによつて生じたもののようであること、及び炊事場と台所との間は二枚の板戸によつて区切られ、その一枚(傷跡のないもの)に「落し錠」の設備があり、又二枚の板戸の重り合う中央部の母家台所側に小さな穴があつてこれに釘を差し込んで内側より戸締りをするよう設備されていること、これら板戸の敷居に水を流してみると板戸を開閉する音を防ぐに役立つものであること、をそれぞれ明らかにすることができる。又同検証に立会した中山ツマの指示説明(一五冊五〇九五丁)によれば、本件発生当時は(現在においても同様)前記「落し錠」を用いず、右穴に釘を差し込んで母家台所の側より戸締りをしていたことが認められる。そして前記検証の結果によつて認められる板戸傷跡の形状、高度数、分布状況等から考察すれば、これらの傷跡は犯人が板戸に「落し錠」があるものと考え、その所在を探すため炊事場の側より刃物の先を僅かに突き刺したことによつて生じたものと推測される。従つて以上述べた各事情を綜合すると、炊事場に侵入した犯人が右板戸に手をかけてみたが開かなかつたので、「落し錠」があるものと考え、「落し錠」の所在を探ぐるため、有りあわせの刃物で板戸を突き刺したものと推測するのが相当であり、この推測に合致する点に関する限り吉岡の前記供述は信用してよいものと思われる。なお施錠個所を探がすため柱と板戸との間に紙を差し込んで上下し、或は板戸を開ける音を防ぐため敷居に水を流した旨の供述部分は、他に何等の裏付け証拠がないから、果して真実かどうか俄かに判断し難いところであるが、右のような事実は経験者でなければ容易に思いも及ばないような事柄であり、しかも前に述べたように敷居に水を流すと板戸を開閉する音を防ぐに役立つことが明らかであるから、吉岡の虚言的性格を考慮に容れても、なにびとかが前記の行為をなしたとの点も一応真実らしく思われるのである。しかしながら、吉岡の前記供述中、阿藤、稲田等が叙上の行為をなし自分が台所側で板戸の釘を抜いた旨の部分はたやすく信用し難い。何故ならば、吉岡のこれら供述は、自らが母家裏手の床下口から台所に侵入したことを前提とするものであるところ、この前提たる供述が容易に信用し難いものであることは前項六で詳細論証したとおりであるからである。却つて以下述べるところを綜合すれば、阿藤、稲田がなしたとする前記の行為は、むしろ吉岡自身がなしたことを疑わせるに十分なものがある。即ち

1 吉岡が原審検証でなした指示説明を検討してみると、自分が床下をもぐり台所に出て懐中電灯で照してみたところ、阿藤、稲田等が柱と板戸との間に紙を差し込んで上下に動かし、板戸を小刀様のもので突き刺して錠を探し、或は音がしないようにするため敷居に水を流していたというのであるが、懐中電灯の薄明りの中で僅かに突き出された刃物の切先や炊事場側から流したと云う敷居の水が、突嗟のうちに確認できたとする供述の真実性に疑いなきを得ないのであり、しかも常人では容易に判断がつきかねる事柄であると思われるに拘らず、それが「落し錠」を探すため、或は音を防ぐためであると即座に判断していることは右が自己の行為であることを語るに落ちた感がある。

2 吉岡は警察一回(三冊五四九丁)同四回(三冊五六九丁以下)の各調書において、最初に炊事場へ侵入し、そこから台所を経て座敷に上つたと供述しており、同五回(三冊五八四丁五八六丁)同六回(三冊六一一―二丁)検事一回(三冊六二六丁)同四回(三冊六四〇丁)の各調書において、炊事場にあつた食卓の引出の中から庖丁を取り出したことを認め、これを使用したことを窺わせるかのような供述をしていること。

3 警察検証調書(二冊二八三丁、二八五丁)によると、早川方炊事場中央に二個の飯台(食卓)があり、その右側引出一個が引出されていて、その中に庖丁二本と新聞紙に包まれた刺身庖丁一本があつたこと、及びヒサの首吊り死体の足許に庖丁一本があつたことがそれぞれ明らかで、又警察捜索差押調書(一四冊四五〇〇丁以下)によると、前記庖丁中刺身庖丁を除く三本の庖丁が押収されていることが認められ、更に原審と当審で押収した右庖丁三本(証第五、三三、三四号)を検してみるに、その切先が共に鋭利で何れの庖丁を使用しても容易に板戸を突き刺すことが可能であると認められること。

4 吉岡は原審第八回公判で「釘が抜けかけていたので、それを抜いて音がしないように戸を開けました」(四冊七六五―六丁)、差戻前の二審へ提出した答弁書(前出、六冊一一〇六丁)で「母家と部屋との間の戸を私が開けたようでありますが、その戸は阿藤、稲田が先に開けようとしておつたので戸に差してあつた釘は戸が動く関係で私が抜かなくとも落ちかかつて馬鹿になつていた。それで戸は私が床下から入らなくても炊事場の方から入つて行かれたのです」と各供述し、同審へ提出した上申書(前出、六冊一一二一丁)及び当公廷の証言(一三冊三七九七丁)でも右と同趣旨の供述をなしており、何れも板戸に差してあつた釘が抜けかけていて炊事場側より板戸を開き得る状況であつたことを認めていること。

5 当審検証の結果(一五冊五一〇〇丁五一四一丁)によると、長さ七、八糎の釘を右板戸の穴に十分差し込んでも、炊事場の側より二枚の板戸の重り合つた部分を両手で拡げることにより、右釘を外すことが可能であることが認められるから、ましてや吉岡の供述するように釘が抜けかかつていたとすれば、それを外すことは容易な業であると解せられること。

6 吉岡は金山上申書(前出、一三冊四三〇二丁以下)で「金山は便所中連を機具をもつてこじあけ、私は彼と共に便所より入り座敷を通つて庭に出た。庭より玄関に通ずる戸の中央に五寸釘を差し込んでいたが、なかば抜けかかつていたところをないふでこじあけた」旨記載し、前記板戸をこじあけたことを窺わせる供述をしていること。(金山が虚無人であることは既に述べたとおりである)

7 被告人等は警察官に対しそれぞれ数回自白し、その都度自白を内容とする供述調書が作成されているのであるから、若し阿藤、稲田等が吉岡の供述するような行為をしているのであれば、当然この点に触れる筈であるのに拘らず、同人等の各自白調書を精査してみても、被告人稲田が僅かに警察三回調書で「私が一番先にそこから(部屋と母家の境の入口)中に入つて行つた。入つた処は私が子供の頃からよく知つております。土間の炊事場や台所があります。炊事場に入つたところが真暗であつた。そして三人(吉岡、阿藤、稲田)は家の台所の方へ行きますと、台所の戸は開いて奥の部屋の電気の光らしいものがボヤツト見えていた」(四冊八七四丁)と前掲板戸が既に開いていた旨供述している外、板戸が存在していたことについてさえ何等の供述をしていないのである。これは、早川方の近所に住む被告人稲田は兎も角、他の被告人三名が炊事場と台所との間に板戸による戸締りがあつたことを知らなかつたためではないかとも思われること。

以上の状況と前項六で記述したところとを綜合すると、吉岡は中連窓より部室を通つて炊事場に侵入し、前記板戸に一応触つてみたが開かないので、炊事場中央にあつた食卓の引出を開けて庖丁を取り出し、「落し錠」を探すため板戸を點々突き刺したが、そのうち「落し錠」でなく釘を差し込んで戸締りがしてあることに気づき、両手或は庖丁の柄等で板戸を拡げたところ偶然にも釘が半ば抜けかかつていたので容易に板戸を開けることに成功し、台所へ侵入したのとも考えられる。この想定は1ないし7で記述するように相当な根拠を有するものであるから、これと相容れず、しかも何等裏付けのない吉岡の前記供述部分が信用し難いのはもとより当然である。

八、凶行に関する供述について

凶行に関する供述についても吉岡の供述は変転又変転し、その総てを検討することは到底煩に堪えないので主要な点のみを挙示してみるに

1 早川惣兵衛殴打の点について

(一) 警察一回調書において「私はいきなり惣兵衛の首から上を最初に三回位斧で殴打した。最後に一撃するとゴツンと音がした」(三冊五五〇丁)と述べ

(二) 同四回調書において「私は持つていた薪割で二回位顔の方を殴りつけた。そこに来た阿藤に薪割を渡したら、阿藤は薪割で惣兵衛を一、二回殴つた」(三冊五七一丁)と自己及び阿藤の二人で殴打した如く供述し

(三) 同五回調書において「私は寝間に起き上りかけていた人で、その時はぢいさんかばあさんか解らなかつたが持つていた薪割で殴りつけた、回数は覚えぬが殴つたらその人は後に倒れた」(三冊五八六丁)と自己一人で殴打した旨を述べ

(四) 同六回調書において「阿藤が私の持つていた薪割を取つて惣兵衛を一回殴つた、それから稲田が薪割で一回程殴りつけているのを見た。次に私が惣兵衛の処へ行き薪割で一回程顔の辺を殴つた、それから松崎が薪割で惣兵衛を一回位殴りつけた。」(三冊六一三丁以下)と阿藤、稲田、吉岡、松崎の順序で四人が殴打した旨述べ

その後検察官に対し(三冊六二七丁六四〇丁、二冊三三一丁)或は原審検証の指示説明において(一冊三四丁以下)前記(四)と同旨の供述をなしていたところ

(五) 右検証に引続いてなされた証人中山宇一に対する尋問の中途において裁判官の質問に対し「爺さんの頭部顔部に五個の傷跡があるのは五人が一回宛殴つたためである、私が殴つたのは三番目位だつたと思う。」(一冊八二丁)

と久永も殴打した如く述べて従前の供述を変え、その後原審第五回公判において前記(四)の供述に復帰し(二冊四七三丁)、差戻前の二審においてもこの供述を維持し(六冊一一〇七丁一一二二丁一三五一丁)、当審第三回公判でも同様の証言をなし(一三冊三七五七丁以下)ていたところ、この点について同第五六回公判で弁護人の追及を受けるや

(六) 「稲田が殴つたのは見ていない、殴つたかどうか知らぬ、松崎が長斧を振り上げるところは見たが殴つたところは見ない。」(四一冊一六一七丁以下)

と曖昧な証言をなした。

そして原判決はこのように端倪すべからざる変化を示す吉岡の供述中、前掲(四)及びこれと同旨の原審第五回公判における各供述を採用し、阿藤、稲田、吉岡、松崎がかわるがわる長斧で惣兵衛を殴打した旨認定しているのであるが、右引用供述のみが正鵠であることを保証するに足る何等の資料も見当らないのである。しかもこれらの供述は前掲第四の五に挙示した八海橋付近における謀議に関する供述と密接に結びつくものであつて、この謀議を実行に移したものが即ち(四)及びこれと同旨の供述であることは、これら供述の全体を検討することにより明白である。しかるに右謀議に関する供述が信憑力の薄弱なもので採るに値しないことは既に論証したとおりであるから、これと不即不離の関係に立つ(四)及びこれと同旨の供述も亦同様の理由によつてその信憑力を否定せざるを得ない。

2 早川ヒサの首吊り工作の点について

(一) 警察一回調書において「私は附近に綱はないか見て居りますと、台所の上りかけの階段附近にかかつていた黒い紐と小さいロープを取りに行き、起き上る婆さんに、前側から、あごの下から首にロープを二重に廻して居りますと婆さんが立上つて来たので、ロープの端を黒い紐と共に一緒に鴨居に取りつけまして先に黒い紐を鴨居に一とくくりして置き、ロープを締めつけようとしたが切れたので、その後ロープの一片を鴨居を越さし、両端のロープを鴨居の下側で何回か廻し最後に留のくくりは二回締めておいた。」(三冊五五四丁)

(二) 同四回調書において「阿藤はばあさんが死なんから首をしめてやろうと云うて台所の庭の方に降りて行き自転車にあつたとロープを持つていた。阿藤と私の二人でばあさんを鴨居の下に持つて行きロープで首をしめていると、久永と上田が来て手伝つた。私と久永の二人でばあさんを差上げ、阿藤と上田が鴨居にロープをかけていると稲田が来て手伝い三人でくくつた。私は台所で黒い紐をみつけ上田に渡したがその紐をどのように使つたか知らぬ。」(三冊五七二―三丁)

(三) 同五回調書において「阿藤が自転車にあつたと云つて細いロープを持つていた。私が婆さんの腰のあたりを持つていると、阿藤が婆さんの首にロープを廻して後側で締めた。久永と私の二人で腰の辺を持つて差し上げると、阿藤、松崎、稲田の三人はロープで鴨居にくくつていた。私は階段付近で黒い紐が見当つたので首を吊る足しにしようと思いロープの側の鴨居に一と廻ししてくくつたがその紐は結局役に立たず切れた。」(三冊五八九丁)

(四) 同六回調書において「私がタンスの引出等を元のようにしめて振り向いた時、松崎が次の間で鴨居に黒い紐を取りつけていた。私と阿藤が婆さんの片手宛持つて次の間に引ずり出した。松崎が黒い紐にぶらさげーと云うので、稲田と四人で婆さんを差し上げて首をくくつたが紐が切れた。その内久永がロープを台所の方から持つて来てロープで婆さんの首をしめ、私と久永が婆さんを差し上げ、阿藤、松崎、稲田が鴨居にくくりつけた。」(三冊六一四―五丁)

(五) 検事一回調書において「松崎が黒い紐切れを鴨居にくくり、私、阿藤、松崎の三人が婆さんを抱き上げ、阿藤が紐を婆さんの首に結んでぶらさげたらその紐が切れた。それで久永が持つて来た細引で前側から後に廻して結び鴨居に細引を通したが、私、阿藤、松崎が婆さんの体を支えていた。少し遅れて稲田が来て久永が細引を鴨居に通すのを手伝つた。」(三冊六二八丁)

とそれぞれ供述し、その後検察官に対し(一冊三三二―三丁、三五九丁以下)、原審検証の指示説明において(一冊三六丁)右(五)と同旨の供述をなしていたところ

(六) 原審第八回公判で「阿藤と二人で次の間に婆さんを引張つて行きますと、松崎が鴨居へ黒い紐をかけ私と阿藤の二人が抱え上げて吊しますと紐が切れて落ちた。すると久永が細いロープを持つて来たので久永と三人でくくつて吊るしましたところ又下りました。そこえ稲田が来て私に灰を撒けと云つたので稲田と代つた。」(四冊七七一丁)

(七) 差戻前の二審に提出した上申書において「久永がロープを持つて来て直ぐ首にしばり、そして私、阿藤、松崎の三人で抱えてその鴨居に上げたものの重くて手がだつたものか二三辺下りました、その時稲田が来て私に灰を撒いておけと云うので稲田と代つた。」(六冊一一二三丁)と稲田が死体を抱えたことを明白に述べ

(八) 当審三回公判では「婆さんを最初に持ち上げたのは私と阿藤である。稲田が私に灰を撒けと云つたので交代して稲田が抱えてくれた。」(一三冊三七五七丁以下)

と証言したのである。

即ち(二)(三)においてはロープは阿藤、紐は吉岡が持つて来たことになつているのに、(四)以下においては、ロープは久永、紐は松崎が持つて来たことに変り、又(二)においては、吉岡と久永がヒサを差し上げ阿藤、稲田、上田等がロープで鴨居にくくつたことになつているのに、(三)(四)においては、松崎が上田の立場に置き換えられ、更に(五)及びこれと同旨の供述においては、吉岡、阿藤松崎の三人がヒサを抱き上げ、久永が細引を鴨居に通し稲田と共に結びつけたことに変化し、(七)においては、稲田が途中から吉岡と交代しヒサを抱えた旨を述べ、最後にに(八)おいては、阿藤と吉岡二人が死体を抱え途中から吉岡と稲田が交代したように改められたのである。又紐の使用方法についても、(一)においては、ロープと紐とを同時に鴨居に取りつけ紐でロープを締めようとしたが切れたように述べているのに、(二)においては、紐をどのように使つたか知らぬと述べ(三)においては、最初にロープでヒサを鴨居に吊り下げ、首を吊る足しにしようと思つてロープ横の鴨居に紐を結びつけてくくつたが切れたと述べ、(四)以下においては、最初に黒い紐を鴨居に通し、これにヒサをぶらさげたが切れたのでロープを使用したと従来の供述を変えたのである。吉岡自らが経験した印象の最も深い一連の事実を供述するにあたつて、かくも供述内容が変転するのは頗る不可解で、このこと自体からしても何れの供述も軽々に信用できないことを知り得るのである。

なお原判決は前記(四)、(五)の各供述を証拠に引用しているのであるが、これらの供述中紐の使用に関する部分の措信し難い所以の詳細は便宜上後段(第三章、第二の四参照)に譲る。

3、斧(証第四号)の点について

吉岡は早川惣兵衛を殴打するのに使用したと云う斧についても各種の供述をなしているのである。

即ち

(一) 警察一回調書においては

「私は台所の土間の四斗桶の側に置いてあつた斧が見当つたので夢中になつて斧を取り上げて再び惣兵衛さん夫婦の間に駈込んで行つた。」(三冊五五〇丁)

(二) 同四回調書においては

「稲田はその時薪割を持つて来て、私に薪割を持つて行けというので、それを受取つて惣兵衛さん夫婦のところへ行つた。」(三冊五七〇丁)

(三) 同五回調書において

「私が炊事場から台所に行つた頃、阿藤が何処から家の中に入つたか知りませんが薪割を持つて来てこれを持つて行けと云つて呉れた。」(三冊五八六丁)

(四) 検事一回調書において

「私が夫婦の寝間から炊事場に引返すと阿藤に会つた。阿藤がこれを持つて行けと云つて何処から持つて来たか知りませんが阿藤が持つていた長斧を私に渡してくれた。」(三冊六二六丁)

とそれぞれ供述し、その後数多くの機会に右(四)と同旨の供述を繰り返し(二冊三三一丁、三冊六四〇丁、六冊一一〇七丁、一一二一丁)、当審三回公判でも同様の証言をなした(一三冊三七五七丁以下)。以上のように当初は自己が四斗桶の傍にあつたのを取上げて使用したと述べ、次いで稲田から渡されたと変更し、更に阿藤から渡されたと再転したのであるが、前掲(三)以降の供述においては、阿藤が斧を何処から持つて来たか知らないと述べているのに拘らず、原審が当初になした証拠調べ即ち検証に引続く証人中山宇一の尋問途中において被告人等の弁護人丸茂忍の質問を受け「斧は此処の家の物で裏の炊事場の近くに薪を置いてある処があるが、そこに置いてあつた。」(一冊八二丁)旨供述したのである。

右各事情に照すと(二)以降の供述はたやすく信用し難い。

九、八海橋の上より手袋その他を八海川に捨てたとの点について

吉岡は犯行後八海橋の上から手袋その他の物を八海川に投棄した旨数多くの機会に述べているので、先ずこの点に関する関係供述を摘記した上その信憑性を検討してみるに、吉岡はこの点について

1、警察六回調書(昭和二六、二、二付)において

「阿藤等が出てから私は濡れた手をズボンや首に巻いていたタオルでふいた。それから八海橋の上に行つたとき誰が云つたか覚えぬが、持つていた手袋や足袋を海中に落したので私も血の着いた新聞紙の屑をポケツトから出して海中に落した。」(三冊六一八丁、六一九丁)

2、検事五回調書において

「阿藤と稲田はタオルか手拭で頬冠りをしていた。私以外の者は皆手袋をはめていた。そして八海橋の所で手袋や草履、タオル、手拭等を捨てている者がいた。」(三冊六四五丁、六四六丁)

3、原審検証の指示説明において

「八海橋の上で阿藤等は手袋、足袋、手拭等を河の中に投げ捨てた。」(一冊三八丁)

4、原審第六回公判で

「西洋手拭(証第二六号)雑巾(証第二七号)請求書(証二八号)を誰かが投げたことは間違いない。そんなものだつたかどうか判らぬ。雑巾で足跡をふいたと思う。」(三冊四九〇丁)

5、原審第八回公判で

「阿藤、松崎、稲田の三名は手拭で覆面をしていた。雑巾で血をふいた。」(四冊七七五丁)

6、差戻前の二審公判で

「八海橋の上から私は何も投げていない。阿藤が手拭のようなものを投げたのを見たが何を投げたか知らぬ。」(六冊一三五七丁)

7、昭和二九年八月三〇日広島刑務所で正木及び原田香留夫に対し

「八海橋の上から捨てたように述べたのは嘘である。八海橋に行くずつと前、林は着ている物を川へ捨てた。八海橋と云うたのは警察でそうだろうと云われたからである。」(吉岡接見表該当欄参照・正木、原田メモ一三冊四三一八丁以下)

8、最高裁判所に提出した上申書(昭和三〇、九、二二付)において

「橋の上から捨てたのは阿藤、稲田、松崎の三人である。」(上告審一冊二一〇二以下)

9、当審第二回公判で

「私は正木弁護士に対し、早川方を出て新庄方から八海橋へ行く途中、血のついたものを川の中へ投げ込んだように述べたがそれは嘘である。私は八海橋の上から何も捨てない。阿藤が八海橋の上でここから投げようと云つたら皆んなが出したので阿藤がそれをまるめて投げた。阿藤、稲田、松崎の三人が手拭で頬冠りをしていたので、その手拭を投げたものと思う。阿藤と稲田は手袋を捨てたと思う。」(一二冊三五五〇丁以下)

10、同第一五回公判で

「稲田が雑巾で板の間の足跡をふいた。阿藤も雑巾で長斧の柄をふいた。」(一八冊六四〇三丁ないし六四〇八丁)

11、同第四二回公判で

「私は血のついた紙を捨てた。」(三三冊一二七四四丁以下)

とそれぞれ供述し、変化を示しているのであるが、前記1の供述に基きその三日後である二月五日、警察官が八海橋下流を検証捜索したところ、清力用蔵方東方の八海川の中で、岩石にかかつていた日本手拭(証第二六号の一)で結ばれた包を発見し、その中に西洋手拭二枚(証第二六号の二)雑巾二枚(証第二七号)三木食料品店から早川宛金銭請求書一枚(証第二八号)があり、更にその少し下流の異つた場所で手袋片手分二枚(証第一一、一二号)を発見し、すべて差し押えた(警察検証調書三冊五三一丁・捜索差押調書三冊五〇九丁・原審証人三好等証言、一冊一〇八丁・当審証人・松本正寅証言、三七冊一四四八四丁以下)ところ、右手拭計三枚雑巾二枚は早川宅のものであることが確認された(中山ツマ上申書三冊五三六丁)。以上の経過から右請求書も早川方にあつたものと推測されるのである。しかし、前記検証調書によると、手袋は一対でなく、それぞれ指先の破れた片手分二枚で、しかも他の品が一包みになつていたのに反し、手袋二枚はそれぞれ別異の場所で既に木屑の中に埋没していたことが明らかであり、更に証第一一、一二号の現物について観察してみると、それは使い古されて糸目も荒く破損の度がひどく到底普通人の使用に堪えないものと認められるから、これ等の事情を綜合すれば、右手袋はなにびとかが本件の犯行時より前に使用に堪えないものとして河中に投棄したものと推測するのが相当であるのみならず、全証拠を調査してみても、これが被告人等のものと推測できるような資料は毫末もないのであるから、手袋の存在は吉岡の供述を裏づける資料とは解し難く、原判決がこれを証拠に引用していないのも右と同様の見解に立脚したためと思料される。ここで被告人等のこの点に関する供述を摘記してみると

1、被告人阿藤は警察四回調書(昭和二六、二、三付)において「八海橋で松崎、久永は靴下、私は黒木綿製一〇文半の足袋をそれぞれ投げ捨てた。」(四冊八一二丁)

2、被告人稲田は同三回調書(昭和二六、二、二付)において「阿藤が八海橋の欄干から手を下して手袋のようなものを捨てた。その外何かわからないようなものを捨てていた。久永、松崎、吉岡も同じようなものを捨てた。私は何も捨てぬ。」(四冊八七六丁)

3、被告人松崎は同三回調書(昭和二六、二、二付)において「八海橋の上から私は靴下を捨てた。稲田、久永も手袋、足袋を捨てた。」(四冊八四三丁)

とそれぞれ供述したことになつているが、雑巾、手袋等については何等の記述がない。尤も被告人稲田の警察一回調書によれば「私が早川方へ行つた時顔にタオルを巻いて白い鳥打帽を冠り黒のオーバーに国防色のズボンに素足の下駄履であつた。」(四冊八五一丁)旨の供述を僅かに発見するのであり、稲田の自白を内容とする供述の措信できないことは後に述べるとおりであるが、この点を措いて供述自体を検討してみても右は早川方へ行つた時における自己の着衣等について述べたに止り早川方のタオルを奪取して使用したものと解すべき根拠は些かも見当らない。なお被告人等が当時手袋、靴下、足袋等を紛失したことを証すような証拠資料は遂に発見できない。又被告人久永はこの点について供述をした形跡がない。そして被告人稲田、同松崎及び吉岡の三名は何れも昭和二六年二月二日付調書において前記のような供述をなしたことになつているのであるが、吉岡はこの点について当公廷で「昭和二六年二月二日頃平生署の刑事室で調べを受けていたら、二階で調べを受けている松崎が八海橋の上から手袋等を捨てたと自白しているのが聞えて来たから私もそのことを自白したのである。」と証言(二五冊九〇九四丁以下、三三冊一二七四四丁以下)したのであるが、この証言が虚構なものであることは既に(第一章第三の二・2参照)論証したとおりである。却つて原審証人三好等の「吉岡晃が手袋を八海橋の上から川中に捨てたと言う供述をしたのでこの供述に基き松本部長刑事に検証をさせ川中より手袋を発見した」旨の証言(一冊一〇八丁)及び被告人等の原審並びに当審における各供述、同被告人等の各上告趣意書を綜合考察すれば、八海橋の上より手袋等を投げ捨てた旨の供述は先ず吉岡がこれをなし、ついで松崎、稲田、阿藤等が右に追随したものと推測するのが相当である。

次に吉岡が一月下旬の寒さの折柄に拘らず犯行当時素足であつたこと(吉岡警五回三冊五九〇丁・同検五回三冊六四六丁)犯行後早川方炊事場で両手を洗つたこと(同警一回三冊五五五丁・同五回三冊五九〇丁)逮捕後においてもなおその手足の爪、右眉部、右耳翼、ズボン両膝部、ジヤンバーの各所に早川惣兵衛の血痕と認められるものが付着していたこと(藤田千里物品検査回答書二冊四〇三丁)等を綜合すれば、犯行直後吉岡の手足、着衣等に相当の血痕が付着していたものと認められる。そして当審鑑定人上野正吉の鑑定書(三三冊一二六〇丁)によれば、前掲日本手拭(証第二六号の一)は血痕予備検査の結果陰性、従つて血痕の付着を認めず、西洋手拭二枚(同号の二)及び雑巾二枚(証第二七号)にはルミノール血痕予備検査の結果陽性を呈する部分が多数存し、血痕とは判定できないが血痕らしい班点が存在する旨の記載がある。以上の事実に吉岡の前掲4・5の供述の一部及び西洋手拭、雑巾等が日本手拭によつて結ばれていた事情を綜合すれば、西洋手拭と雑巾は、吉岡が犯行直後自己の手足その他に付着していた血痕を拭ぐうのに使い、従つて右手拭、雑巾に血痕が付着し、又日本手拭はこれらの汚物を包んで結ぶために使用したものと推定される。

このように観察して来ると、八海川で発見押収された前掲各物件中雑巾、西洋手拭等は吉岡が犯行直後血痕を払拭するのに使用し、これらに紛れ込んだ請求書と共に一括してまるめ、日本手拭で結んで八海川に投げ捨てたものとの疑いが濃厚であり、しかも差戻前の二審第一次検証の結果(六冊一二二〇丁以下)によれば、被害者である早川方より略東方約六〇米の位置に八海川があること及び早川方より八海橋までの距離は約五五〇米であることが認められるところ、強盗殺人の犯人が至近距離に適当な捨て場所があるのにも拘らず、犯跡も生生しい前記のような証拠物件を、わざわざ遙かに遠い八海橋上まで携行して同じ八海川に投棄するということは人間の心理ないし自己防衛本能に反し到底納得し難いところであつて、結局八海橋の上で阿藤の発意により手袋、足袋、手拭等を河中に投げ捨てた旨の諸供述は被告人阿藤、稲田、松崎等のそれを含め何れも容易に信用し難く、むしろ吉岡が早川方に近い位置で前記物件を八海川に投げ込んだものと推測するのがより自然である。

一〇、一月一九日橋柳旅館における謀議について

吉岡は警察五回調書においてはじめて、本件犯行の数日前である一月一九日平生町橋柳旅館で被告人等と共に右犯行の予備的謀議をなした趣旨の供述をなし、爾来一、二の例外を除き同趣旨の供述を繰返しているのであるが、その内容は例によつて幾多の変遷を示しているのである。即ち

1、警察五回調書において

「一月一九日橋柳旅館の二階に五人が集つて、阿藤が焼酎一升を買つて飲ました時、皆んなが金がのうてやれぬのー金がある処へ盗みに行くとよいという話を出した。阿藤が私によい処があれば決めて置けと云うた。」(三冊五八〇丁)

2、同六回調書において

「一月一九日私、松崎、稲田、久永の四人で阿藤がいる橋柳旅館の二階の表側から三室目に行つた。その時が午後五時半頃であつた。集つたのは右五人の外木下ムツ子、柳井三重子の七人であつた。三〇分位して阿藤が今日はおごると云つたので、私が阿藤に頼まれて天ぷら、焼酎・煙草・飴等を買つて帰り、午後六時頃からその間で七人が飲みはじめ七時頃まで飲んだら焼酎はなくなつた。焼酎を飲み終つた後皆の者がその間から前の間に出て行き、出たり入つたり女の処にして居る時、阿藤が『金がないからよい処があつたらやるか』、と云い出すと外の者も『ほんならやるか』、と返事をした。阿藤が『八海の清力はどうか』、と聞くので、私は『あれは駄目だ』、と云うと、阿藤は『岡本瓦屋はどうか』、と尋ねた。それで私が『あれは人数が多いからそれより早川瓦屋はどうか』、と口を出した。すると外の者も『それならそれにするか』、と一応話が決まつたが、日取は決めなかつた。」(三冊六〇四丁以下)

3、検事一四回調書において

「一月一九日橋柳旅館で一杯飲んだ時、『瓦工場の岡本方はどうか、清力方はどうか』と云う話をした。私と稲田が『岡本も清力もよくないから早川方はどうだろうか』と云つた。しかし話が決まらない内に私は帰つた。」(三冊六二四丁六三七丁)

4、原審証人弘埜正世の尋問中途において検察官の問に対し「橋柳旅館で一杯飲んだ後阿藤が、『金がないからよいところをぎんみにやいけんのう』と云い出し『清力や岡本はどうか』と云うたので、私と稲田が『清力や岡本は駄目だ、早川方はどうか』と云うと、皆がそれに賛成した。しかし物盗りに行く日は決めなかつた。その話の時女には用事を拵えて外出させたり、隣の部屋に行かした時に話した。」(一冊一七五丁以下)

5、原審第五回公判で

「私が橋柳旅館へ行くと柳井ミヱ子が一〇〇円くれたので、その金でミカンとリンゴを買い旅館に帰り、奥の間に居る女二人の処へ持つて行くと、阿藤は隣の部屋にいると云うので隣の部屋へ行くと、稲田が洋服と時計を持つて金の工面に出るところであつた。その時阿藤が『せつぱ詰つたけー何んとかせにやならんのう』と申した、それで私は『清力か岡本はどうか』と申したところ、『清力は力が強いし、岡本は子供が多いので騒がれるとうるさいから』と云うので、私は『早川方は此の間金を送つて来たからよかろう』と云うと、松崎が『山の下にある家だからよかろう』と申した。その時意見が一致した。その時女は次の間で話をしていたので小さい声で話をした。それから焼酎を買つて来て飲み乍ら話をした。その中阿藤が私を廊下へ呼び出し『早川方に決めて置く』と云うので、私は稲田を呼び出しその事を伝えたら稲田は承知して部屋に入つた。次に久永を呼んで『清力より早川がよい』と申したところ、久永はフーンと云つてすぐ部屋に入つた。それから私は木下ムツ子を呼び出し二人で女関係の話をした。その後樋口豊が女二人を連れて来たので私は阿藤に『帰るからのう』と云うと、阿藤は『判つておるのう』と云つた。」(二冊四六六丁ないし四六八丁)(次項以下は右と異る趣旨の部分のみを挙示する)

6、原審一〇回公判で

「早川方へ行くことは一月一九日橋柳旅館で相談したのが最初である。その時阿藤が話を出したので私は返事をしなかつた。返事がないので稲田が『広チヤン方(早川方)はどうか』と云つたので皆がよかろうと申した。私が廊下へ一人一人呼び出した訳は阿藤が私に『お前金廻りがよくなるのだから云え』と申したのでいつたのである。」(五冊九九八丁)

7、差戻前の二審に提出した上申書において

「私達四人が橋柳旅館へ行くと阿藤達が待つていた。女を奥の間に置いて私達だけになつて女に解らない様に話した。阿藤が『いよいよやらなければ切羽詰つたぞ、清力や岡本はどうか』と云うので、私と稲田が『岡本も清力も駄目だ』と云うた。私と稲田が『早川方はどうか』と云うと、松崎が『あの家は山のへりぢやけえよいぞ』と云うた。だけどまだ決つてはいませんでした。そして飲む時廊下の方へ出たり、次の間へ行つたりしてそんな話もした事がある。」(六冊一一一五丁以下)

8、差戻前の二審公判で

「橋柳旅館で皆が集つた時稲田が『早川方はどうぢやろうか、あれにはこの間金を送つて来たし、山の傍だからよかろう』と云うた。」(六冊一三四七丁以下)

9、林上申書において

「一月一九日橋柳旅館で阿藤のふくと久永のトケイを質に入れ二〇〇〇円程借りてその金であそびました。私はいつも酒をのんでいるので兄にしられたらいけないので稲田君にここでのんだ事を兄にいわないでくれとたのんだのです。この時皆の話では別に変つた事は話しませんでした。」(上告審一冊一九一六丁)

10、最高裁判所に提出した上申書において「焼酎を大部飲んだ頃阿藤が私を呼んだので廊下へ出ると、阿藤は『早川にするから皆に云うておけ、その金で馬車の金も出すから』と云うたので、私は稲田、松崎、久永を一人づつ廊下に呼んで話した。」(上告審一冊二一〇三丁)

11、当公廷(第一六回公判)で証人として「私達が橋柳旅館へ行つてから、私は柳井三枝子に一〇〇円貰つて菓子を買いに行き、帰つてみたら、阿藤、稲田等が三畳間で話していたので、私もそこへ行くと久永、松崎も来た。襖をしめて相談していたら女が来たので話が全部終らない中に皆立つた。そして飲んでいる時阿藤が私を廊下へ呼出し、『早川へきめるから皆にそう云つておけ、馬車の件はあれから出す』と云うた。私が帰る時阿藤は『あさつて来い』と云うた。」(一九冊六六七一丁以下)

とそれぞれ供述し、当審第一三回公判(一七冊五七五四丁以下)でも右11と略同旨の証言をなしているのである。

以上の記述自体で判るように、1においては侵入先である清力、岡本又は早川について会話がなく、よい処があれば決めて置けと云う供述であつたのに、9を除く2以降においては清力、岡本及び早川方が会話の中に登場し、結局早川方に白羽の矢が立つた旨変化を示し、1ないし4においては概ね焼酎を飲み終つてから謀議をなした旨供述しているのに反し、9を除く5以降においては飲酒前先ず別室で相談し、ついで飲酒の途中、吉岡が阿藤の意を受けて稲田、松崎、久永等を順次廊下に呼び出し謀議した旨供述を変え、しかも右のような内容の異る4、5の供述が共に原審でなされている事実は看過し得ないところである。又吉岡が当日橋柳旅館に赴いてから帰るまでの間に木下六子、柳井三枝子等が外出した形跡は全然ないのに拘らず、謀議の際用事を拵えて同女等を外出させた旨(4の末尾参照)虚偽の供述を敢てしており、更に奇怪なことは本件犯行より満七年余を経過した後において突如として「私が橋柳旅館から帰る時阿藤があさつて来いと云うた」(11の末尾参照)と従来全然述べたことのない(一九冊六七八九丁以下の吉岡証言参照)新供述を付加し、しかもそれは阿藤が当初一月二一日に犯行をなす意図であつたかの如く証言する(一九冊六六九〇丁以下、四六冊一八〇三二丁以下)のであるが、七年以前の会話中の片言隻語を何等拠るべき記録なくして想起することは到底常人では考え及ばないところである。更に1011においては、阿藤が「その金で馬車の金を出す」或は「馬車の件はあれから出す」と云つた旨供述し、右1011の外にも当審第一三回第一六回公判で同旨の証言をなしている(一七冊五七五六丁、一九冊六六九〇丁)のであるが、かような証言をなした同じ公判廷(第一六回)の別異の機会においてはこれを否定し(一九冊六七〇一丁)、次の第一七回公判で検察官より、阿藤が右のような発言をなす理由がない(次項一〇参照)と追及されるや、答弁に窮し意味を捕捉し難い曖昧極まる証言をなし(一九冊六七五六丁以下)て、吉岡自ら自己の証言の信憑性を減殺ないし否定しているのである。次に5においては、清力或は岡本の話は当初自己が持出し、且つ早川方へ送金云々のことも自ら発言した旨述べているのに、9及び5を除く以降2においては、清力、岡本のことは先ず阿藤が持ち出した如く供述を変える一方、早川方へ送金云々のことを稲田が発言した旨変転(8参照)しているのである。

ここで被告人等の各自白供述を摘記してみると

1、被告人阿藤の警察四回調書によると

「焼酎を飲み終つてから、女もいたので女の居らん間に行つたり来たり、女に隠れて誰が口を出したか覚えぬが『小遣もなくなつたのでよい所があればやろうではないか』と云うと、吉岡が『吉本もよいが家族も多いし、清力もよいがあの家には犬も居るので入りにくいがどうするか』と云うて、最後に、早川方なら年寄り夫婦で都合がよいという事で皆で決めました。」(四冊八〇七丁以下)

2、被告人稲田の同三回調書によると

「皆んなが飲み始めましたが、女二人は布団の中に入つて寝てしまいました。その時女の話や何かが出ましたが、阿藤が私達に『早川を一回やろうじやないか』と云う話をしたので皆の者は前に吉岡から金があるという話を聞いていたので『それはやろう』というて賛成した。」(四冊八七〇丁)

3、被告人松崎の同三回調書によると

「一月一九日橋柳旅館の二階から三番目の部屋で一寸焼酎を飲み、その南の部屋に五人が集り、阿藤が主になつて吉岡に『金のありそうな所を云え』と云うと、吉岡が『八海を渡つてすぐ左手の大きな家はどうか』と云うたところ、阿藤が『あすこはお前勝手が分つて居るか』と聞くと、吉岡が『勝手が分らん』と云うた。こんどは稲田が『清力はどうか』と云いましたが、阿藤が『矢張り勝手を知つた方がよかろう。早川にしよう、まあ詳しいことは後できめよう』と云う事を相談した。二人の女は次の部屋に居た。」(四冊八三七丁)

4、被告人久永の同五回調書によると

「その時阿藤の女が焼酎一升買いましたので橋柳でテンプラを肴にして皆で飲んだのであります。その時でありました。吉岡が『自分の知つたところにええ所があるからやろうじやないか』と盗みの話をした。その時四、五時間話したのでありますが、酒を飲んでぐだぐだ話したが、私は酒に酔うて一時そこに寝たのでその時の話の内容についてはつきり覚えません。娘や仕事の話はやつたと思います。」(五冊九一七丁以下)

とそれぞれ供述した旨の記載がある。

被告人等の自白を内容とする供述の信憑性は後に詳論するとおりであるが、右供述記載自体についてみても、既に被告人等の供述相互間に甚しいくい違いがあり、吉岡の供述特に同人が当公廷で真実であると強調する前掲9を除く5以降の供述中当初に飲酒前別室で謀議し、次いで飲酒途中廊下で謀議を遂げたとの部分とは、到底調和し得ないことが明瞭である。

そこで被告人阿藤等が一月一九日橋柳旅館に会合するようになつた経緯、会合当時の状況及び当時の橋柳旅館の模様等を証拠によつて検討してみるに、吉岡の警察六回調書(三冊六〇四丁以下)吉岡が差戻前の二審に提出した上申書(六冊一一一四丁ないし一一一七丁)吉岡の当公廷における証言(一九冊六七五六丁以下)、被告人阿藤の警察一回調書(四冊七八二丁ないし七八四丁)同人の原審における供述(一冊一七七丁、五冊九五八丁)阿藤が差戻前の二審に提出した上申書(六冊一二五九丁)同人の上告趣意書(上告審一冊一七八三丁ないし一七八六丁)、被告人稲田の警察三回調書(四冊八七〇丁)同人の原審における供述(一冊一七八丁、二冊四七九丁、五冊九五八丁)稲田が差戻前の二審に提出した上申書(六冊一二八四丁)同人の上告趣意書(上告審一冊一五九二―三丁)、被告人松崎の原審における供述(一冊一七八丁、五冊九五七丁)同人が差戻前の二審に提出した上申書(六冊一二九六丁以下)同人の上告趣意書(上告審一冊一八三五丁ないし一八三七丁)被告人松崎の当公廷における供述(三四冊一三四八二丁以下)、被告人久永の警察五回調書(五冊九一七丁)同人の原審における供述(一冊一七八丁、五冊九五八丁)同人の上告趣意書(上告審一冊一八二五―六丁)、原審並びに当審証人木下六子(二冊三八六丁以下、二八冊一〇三五二丁以下、四六冊一八一六五丁以下)、同阿藤サカエ(二冊四一九丁以下、三四冊一三三三八丁以下)、同樋口豊(二冊三七二丁、二六冊九四四八丁以下)、当審証人竹林竹松(二四冊八四六五丁以下)の各証言、当裁判所が昭和三三年二月一二日施行した検証の結果(一五冊五一四五丁以下特に添付第一四図面参照)を綜合すれば、被告人阿藤は一月一九日朝予て情交関係のあつた木下六子が曽て面識のない同女の友人柳井三枝子を伴つて三田尻から平生町大字堅ヶ浜人島の当時の居宅に突然来訪したので、自己と六子との関係を好んでいない母小房の心中を慮り、同女等を橋柳旅舘に連れて行こうとしたが、偶々所持金がなかつたため、自己の洋服を質入して金銭を調達しようと考え、居合せた吉岡に洋服を手交して入質方を依頼して置いて、六子、三枝子等を伴い近所の加藤照子方へ赴いて時を過し、同日午後四時頃同女等と共に橋柳旅舘に赴いた。そして間もなく被告人松崎、同稲田、同久永及び吉岡等が同旅舘に来たが、吉岡より洋服の質入れが不首尾に終つたことを聞いたので、久永、稲田等を西側三畳の別室に招き、久永より腕時計一個を借り受け、これと前記洋服とを稲田に渡して金銭の調達方を依頼した。程なく稲田が右の品を同町吉本質店に質入れして一二〇〇円位を借り受けて来たので、自己と六子との関係を披露する意味で焼酎一升及びてんぷら等を買い求めた上、以上七人で痴話雑談を交しながら飲酒したものであるが、稲田、松崎、久永、吉岡等は六子、三枝子等とそれまで面識がなかつた(吉岡と六子とは予て面識があつた)こと。

そして吉岡は飲酒の途中順序は不明であるが稲田、松崎、阿藤、木下、柳井等(久永については後に説明する)を順次廊下へ呼び出し、稲田、松崎を除く三名には痴話に類する話をした上、同日午後七時過頃樋口豊、阿藤サカエ等が被告人阿藤を訪ねて同旅舘に来るや、殆んど同人等と入れ違いに一人で先に帰つたこと。

被告人等が飲酒した部屋は同旅舘二階表側(西側)より三番目の六畳の間であるが、その西側には襖を隔てて順次三畳、六畳の二室があり、又東側には襖を隔てて八畳の客間があつて、同室には当時竹林竹松外四名が宿泊しておつたこと。

又吉岡が稲田等を呼び出したという廊下は幅二尺六寸、長さ一〇尺九寸で、二階客室中央の南側を東西に走り、その東端は前記八畳の間に通じ、被告人等が飲酒した部屋との間は襖によつて隔てられているものであること。

をそれぞれ認定することができる。

そして右認定にかかる事実に吉岡の供述を照合すると、同人の前掲5以降(9を除く)の供述は概ね被告人阿藤が久永、稲田を三畳の別室に招き、久永より時計を借り受け、これと自己の洋服とを稲田に渡して金銭の調達方を依頼した際引続いて窃盗の謀議をなしたというに帰するものと思料されるのであり、被告人阿藤が当時金銭に窮していた事情及び被告人松崎を除くその余の四名の非行歴等を考察すれば、吉岡が供述するような謀議がなされる可能性は十分考えられるところである。

しかしながら、被告人阿藤が橋柳旅舘へ赴いた動機は木下六子が突然来訪したという全く偶然の事情に由来するものであつて、又久永、稲田等を隣室三畳の間に招き入れたのも窃盗の謀議をするためでなく、久し振りに再会した六子及び初対面の三枝子等に対する体面上、同女等の面前で久永より時計を借り受け、或は時計、洋服等の質入れに関する会話を憚かつたためであると推測される(前掲吉岡供述5冒頭、被告人稲田警三回四冊八七〇丁参照)のである。このような機会に隣室とは云いながら襖一枚隔てた東側六畳の間に六子及び三枝子等が居合せる場所で、しかもささやかながらこれから披露のをはじめようとする雰囲気のもとで、実行の日時をも定めないような不確定な窃盗の謀議を重ねるということは頗る不自然といわなければならない。

次に被告人阿藤が吉岡を廊下へ呼び出したことの点については、吉岡を除いて何人の供述中にもこれに符合する部分を発見し難く、進んで吉岡が被告人稲田、同松崎等を廊下へ呼び出した事実は同被告人等もこれを認めて争わないところであるが、吉岡は右両名のみでなく被告人阿藤、木下六子、柳井三枝子等をも廊下へ呼び出し、たわいのない痴話を取交しているのであるから、被告人稲田、同松崎等との間に果して吉岡が供述するような会話をなしたか否か疑問なきを得ないところであり、更に六子、三枝子及び竹林竹松外四名との距離的関係及び当時の雰囲気等を考慮に容れれば益々その感を深めるのである。現に同被告人等は一貫して吉岡のこの点に関する供述内容を否定し、被告人稲田は原審第五回公判で「橋柳旅館で吉岡が一人宛呼び出して話したことは間違ありませんが、それは吉岡が俺が酒を飲んだという事を云つてくれるなと云つた丈である。」(二冊四七九丁)旨供述し、終始この供述を維持し(五冊九五八丁、六冊一二八五丁、上告審一冊一五九二丁以下)、又被告人松崎は原審第一〇回公判で「吉岡は私を廊下へ呼び出して荷馬車に悪戯をし、その時謝り酒を買つてその代価を二〇日に支払うと申しましたが、私は関係がないので無理をせんでもよいと申した。」(五冊九五七丁)と供述し、その後同旨の供述をなし(六冊一二九六丁、上告審一冊一八三五丁以下、三四冊一三四八二丁以下)ているのである。

なお被告人久永は吉岡に呼び出された事実を否定し(五冊九五八丁、九八五丁)ており、犯行を自白した警察五回調書においても「私は酒に酔うて一時そこに寝たのでその時の話の内容についてははつきり覚えません。」(五冊九一八丁)と供述し、被告人松崎は当審第四四回公判で「吉岡は久永も呼んだと思うが、久永は酔うて寝転んでいたように思う。」(三四冊一三五〇三丁)旨供述し、吉岡自身も原審第五回公判で「私は次に久永を呼びましたが久永は文句を云つて出て来ませんでした云々」(二冊四六八丁)と述べ、全体としては信用し難い供述の中に注目すべき発言をなしているのである。これらの供述を綜合すれば、久永は吉岡に呼ばれたが焼酎に酔つて寝転んでいたため廊下へ出なかつたものではないかと思われる。

以上論述した各般の事情を綜合考察すれば、吉岡の前掲各供述(9を除く)中窃盗の謀議に関する部分は軽々に信用し難いものと認めざるを得ない。

一一、一月二二日三木停留所における謀議の点について

原判決は「一月二二日午後一時頃被告人阿藤、同稲田、同久永三名は平生町横土手で乗合自動車に乗ろうとしていた被告人吉岡を見付けて、それとなく早川方へ押入る計画の実行を強く促した」旨認定しており、その挙示に係る証拠を通覧すれば、右認定の根拠が原審第五回公判における吉岡の供述であることが明らかであるから、先づ吉岡のこの点に関する供述を摘記し、しかる後その信憑性を検討してみるに

1、吉岡は検事七回調書において突如として、

「今迄申しあげることを忘れていたが、岩井に尋ねればわかるように次のような事実もあつたのです。一月二二日昼頃私は柳井町の兄の家へ用事があつて遊び旁々行くため平生町三木のバス停留所へ行つたところ、阿藤、久永、松崎、稲田、岩井等が仕事に行く途中か籠やスコツプを持つてくるのに出会つた。その時、阿藤が私に『わりや一寸来い。』と云つて久永、松崎、稲田、岩井等と一緒に私を停留所付近の時計屋の側の道路に連れて行き『わりや男じやないか、お前が道路のまん中に馬車を引張り出して馬車屋に見つかり謝るのに一杯買つて飲ましてやつたが、その金はお前が盗みをして払えと再三云うのに嘘ばかりいつてまだやらん、それでも男か、お前のために昨日麻郷の馬車挽の者から殴られたぞ、お前を溝の中へ叩き込んでやる、今日は許してやる。その代り今晩必ずやれよ、やらんとばらしてやるぞ。』と云い、引続いて側にいた久永と松崎が私に『橋柳で話した事があろうが、あれをやれば少々の金も出ようが。』と念を押すように云つたので橋柳で話した事は早川方へ入つて悪いことをする意味だと思つた。阿藤が私にやれよやれよというのは盗みをやれという意味です。」(三冊六五四丁以下)

2、岩井武雄の検事二回調書中において吉岡は検察官の問に対し

「一月二二日三木停留所で阿藤、久永、松崎、稲田等に出会つた時、阿藤が『馬車の件で金を早く払え。』と云うたが、その際久永、松崎、稲田等は傍にいたのでよく知つている筈である。久永と松崎が『橋柳で話した事があろうが、あれをやれば少し金が入るぞ。』と云つた時には岩井は久永や松崎等と五米位離れていたので多分聞いて知つていると思う。」(四九冊一九二一二丁以下)

3、原審証人岩井武雄に対する尋問中途において検察官の問に対し

「一月二二日正午頃三木停留所で阿藤、久永、稲田、岩井等に会つた時阿藤が『この間の馬車の件で一杯飲むように約束しておるのにまだ飲ません、お前の云う事はあてにならん、この間からやるやる云うばかりで一そうやらん、お前の云う事は本当にあてにならん、橋柳で話した事をやりや金が入るじやないか』と云つた。私は馬車の件で阿藤等に一杯飲ませる約束をしていたのである。やるやると云うのは盗人の意味です。」(一冊一四五丁以下)

4、原審第五回公判で

「一月二二日三木停留所で阿藤、久永、稲田、岩井等に出会つた。その時阿藤が私を引張つて行き、『この間の金はどうするんか、俺はそのためやられたぞ、お前が金を呉れんのならバラしてやる、やろうやろうと云つて一つもやらん、金があると云うのなら行つてもよい、俺は金の方がいい、早川でやれば飲み代は出る』と云うたが、私は『兄貴が八釜しいので出られん』と云うと、阿藤、久永は『お前には胡魔化されん』と云うた。そこえ柳井行の自動車が来たので私が乗ると、阿藤が走つてきて『あれをやれやらんと溝の中に突込んでやる』と大声で怒鳴つた。」(二冊四六九丁)

5、差戻前の二審に提出した答弁書において

「一月二二日柳井へ行く時阿藤達に出会うと、阿藤は『金を返さないからやられた、その代りお前をばらしてやる』と云つて怒り、『この間云つた事をやろうそれをやればその位の金は出来る、これだけ守れよ、もしもお前がやらなかつたら俺はお前にどんな事をするか解らんぞ』と共犯に云われどうしたらよいかと迷つた。」(六冊一一〇八丁)

6、同じく上申書において

「一月二二日柳井へ行つていると、向うから阿藤、稲田、久永、ヒグチ、岩井達が来た。阿藤が一寸来いと云うて時計屋の辺に行つた。阿藤は私に『馬車の件で飲んだ酒代はどうするつもりか、明日の晩やるとか今晩やるとか云つてやつた事があるか、お前が持つて来たのはどこに八〇〇円あるか、おふくろに八〇〇円あると云つたじやないか、俺はあんなものよりもつと良いものをやれと云つたのに、われがするのはろくな物がない、だからこの間橋柳で話した事を守れよ』と云うた。すると、傍にいた久永が私に、『橋柳旅館で話したろうけ、あれをやれば、その位の金も出る』と云うた。そこへバスが来たので私が乗ると、阿藤が、『もしやらなかつたら溝の中につつこんでやるぞ』と云うた。」(六冊一一一七丁以下)

7、同じく上申書において

「一月二二日三木停留所で阿藤は私に、『おまえは明日やろうとか、今晩やらうとか云つてやつたことがあるか。』『このまえ橋柳旅館で話したのをやればその位の金は出来る』と云つた。その位の金というのは、私達が馬車に悪いことをしたので酒を飲んだ金であります。又色々と借金もあるからです。」(六冊一三七二丁)

8、林上申書において

「一月二二日三木停留所にいたら阿藤、久永、松崎、稲田、樋口、岩井が来た。阿藤が『此の前馬車の箱をかえしたその酒代を返せ』と云うので、私は『兄のサナダを持ち出すからそれをお前に売つて支払う』と云うたら、『いつ持つて来るか』と話しているところえ自動車が来たのでそれに乗つて柳井に行つた。その時も悪い話はしない。これが阿藤達と会つた最後である。」(上告審一冊一九一六丁)

9、最高裁判所に提出した上申書において「一月二二日私が三木停留所で待つていると、阿藤が私を見つけ、それとなく、『お前やるやると云つてやつた事があるか、今夜やるとか云つて出て来んではないか、この前の金の事で俺はやられた、橋柳旅館で話したろうが、あれをやればその位の金は出来るからそれを守れよ判つたのう』と云い、私が自動車に乗ると、阿藤は『よいかもしやらなかつたらどんな事になるか覚えておけよ』と大声で怒鳴つた。」(上告審一冊二一〇三丁)

10、当審証人として

(一) 第一三回公判で「三木停留所で阿藤が私を時計屋の前に連れて行つた時樋口や岩井は一米位離れたところにいたから二人は大体の話を聞いていると思う。その時久永も稲田も私に『あれをやればそれ位の金は出来るからあれをやれ』と云うた。」(一七冊五七三〇丁以下)

(二) 第一七回公判で「三木停留所で松崎にも出会つたように述べた事があるが、それは樋口を松崎と間違えていたためである。阿藤が私を時計屋の所へ連れて行つた時久永、稲田もいた。阿藤はその時『お前はやろうやろうと云うて一つもやりやせんではないか、今晩やろう明日の晩やろういうて嘘ばかり云う……この間持つて来たやつが八〇〇円あるとおふくろに云うたらしいが、あれがどこに八〇〇円あるか、橋柳で話したことを今晩やろう』と云うた。その時久永も『橋柳で話した事をやろう』と云うた。」(一九冊六八〇四丁以下)

(三) 第一六回及び第六三回公判で「三木停留所で阿藤が今晩戻れと云うたのでその晩私が戻つていれば悪い事をしているものと想像した。」(一九冊六六九〇丁以下、四六冊一八〇三三丁以下)

とそれぞれ供述しているのである。

以上の供述中8を除くその余のものは総て一月一九日橋柳旅館において窃盗の謀議があつたことを前提とするものであるところ、同旅館で窃盗の謀議をなした旨の吉岡供述の信憑力について疑問があることは既に前項で論証したとおりであるから、この供述を前提とする前記各供述についても同様の疑いをいだかざるを得ない。

しかし、この点を一応不問に付し、これらの供述自体についてその信憑性を検討してみても、先ず例によつてその供述内容の実質的変転に喫驚するのである。

即ち12においては久永の外松崎もその場に居合せて「橋柳旅館で話したことをやれ」と勧めたように供述しているのであるが、松崎が当日下松市へ就職試験に赴いたこと、従つて三木停留所で吉岡に出会うことがあり得ないことは先に(第四の一参照)論証したとおりである。吉岡もその後この事実に気がついたのか、原審公判以後(3以降)においては、三木停留所で出会つた者の中から松崎を除き、6において、松崎の代りに樋口豊を追加し、当審第一七回公判において「三木停留所で松崎に出会つたように述べたのは、樋口を松崎と間違えたためである」(10(二)参照)と苦しい弁解をなす一方「稲田も、あれをやればその位の金は出来るからあれをやれと云うた」(10(一)参照)旨供述を変えるに至つたのである。若し右弁解のとおりだとすれば、吉岡が松崎だと誤認した樋口が「橋柳旅館で話したことをやれ」と勧めたことになるのであるが、そのようなことを窺わせる証拠資料の片鱗も見当らない。この点からしても吉岡供述の信憑性の一端を知ることができる。

更に3においては、阿藤が「この間からやるやると云うばかりで一そうやらん」と云つたと述べ、6において「明日の晩やるとか今晩やるとか云つてやつたことがあるか」と云つた旨を述べ、7、9、10(二)においても略これと同旨の供述をなしており、これらの供述と前掲橋柳旅館における謀議に関する吉岡の供述とを統一して解釈すれば、右367910(二)の各供述は、一月一九日橋柳旅館での会合以後において、同旅館で謀議したと称する窃盗の実行について、吉岡が阿藤に対し「今晩やる、明日の晩やる」と約束しながら違約したため、阿藤に難詰されたことを意味するものと思料されるのである。しかし、吉岡の全供述を精査してみても、一月一九日橋柳旅館において犯罪実行の日時を取決めた趣旨の供述部分を発見し難いのみでなく、吉岡が同日夕方同旅館を立去つてから一月二二日三木停留所で被告人阿藤等に出会うまでの間に阿藤に出会つた形跡がなく、却つて証拠に徴すればそのような事実がなかつたことを認めるに十分である。してみれば、吉岡がその自供するように阿藤に対し「今晩やる、明日の晩やる」と云う趣旨の約束をなす機会があり得ない筈であり、従つて又阿藤が吉岡に対し、このようにあり得ない約束の違背を難詰するいわれもないから、吉岡の前記各供述部分は信を措けないのである。

次に1においては、馬車屋に提供した酒肴の代金を捻出するため吉岡自身が窃盗を働くことを橋柳旅館で約束し、この約束の実行方を阿藤に迫られた趣旨の供述をなしていたところ、3においては、その趣旨必ずしも明瞭ではないが、吉岡が馬車の件で阿藤の世話になつていた関係上、窃盗を働いて金員を調達し阿藤等に一杯飲ませることを同旅館で約束していたため、阿藤に違約を責められると同時に犯行を促がされたかのように供述を変え、6において、阿藤の発言内容として新供述を付加した外1と類似の供述をなし、457910においては、阿藤が共同で犯行をなすことを迫つたように述べているのである。

以上のように変転常ならぬ供述の中で、表現の方法程度に差はあるにしても、被告人阿藤が馬車の件で金銭の支払を請求したという一点については概ね変るところがなく、この範囲に関する限り被告人阿藤、同稲田、同久永等の供述とも一致するのである。そこで一貫する右供述部分と当審証人地家英夫(二二冊、七八七六丁以下)同阿藤小房(三二冊、一二一九五丁ないし一二二〇〇丁)同阿藤サカエ(三四冊一三四〇九丁)同吉岡晃(一九冊六六四五丁ないし六六五一丁)原審並びに当審証人岩井武雄(一冊一三六丁以下、一五冊五一八五丁以下、二二冊七八六六―七丁)同樋口豊(二冊三七四丁ないし三七六丁、二四冊八六三〇丁ないし八六三七丁、三九冊一五三三七丁ないし一五三五一丁)の各証言、原審第一〇回公判調書中被告人阿藤(五冊九七七―八丁)同久永(五冊九八五丁)の各供述記載、被告人阿藤、同稲田の前掲各上申書(六冊一二六一丁以下、一二八五丁以下)、被告人阿藤、同稲田、同久永の各上告趣意書(上告審一冊一七八六丁以下、一五九三丁以下、一八二六丁以下)、被告人阿藤の当公廷での供述(三二冊一二五〇二丁ないし一二五一〇丁)を綜合すれば、次のような事実を認めることができる。

即ち吉岡は、昭和二六年一月一五日夕方被告人等四名と共に麻郷村助政部落の中殿アイ子方へ遊びに行く途中、酔余道端に置いてあつた荷馬車の枠を取外し、積んであつた土を道路上に散乱させたため、その持主である磯部某の激怒を買い、翌日頃被告人阿藤、同稲田両名に依頼して同行を求め磯部方へ謝罪に行つたが、同人が容易に許容しないので、被告人阿藤及び地家英夫が両者の間を斡旋し、酒肴を提供して謝罪することとなり、吉岡が金銭を所持していなかつたため、地家及び阿藤に依頼し同人等の責任で、同月二〇日頃支払う約束のもとに付近の商店で、酒二升とてんぷらその他を代金約八〇〇円で買い求め、関係者一同で飲酒して一応の解決をなした。そして吉岡は右酒肴代金を捻出するため同月一八日頃自宅付近の吉井太一方で経木約五〇束を窃取し、これを阿藤方へ持参して酒肴代金に充てることを依頼した。そこで被告人阿藤は妹サカエを介しその頃右経木を柳井町の斎藤商店に五〇〇円位で売却したが、同金員を橋柳旅館の宿泊代その他に充当費消した。その後同月二二日昼頃稲田、久永、樋口、岩井等と共に平生町横土手の朝鮮人秋山某方で焼酎を飲み、佐賀村田名海岸へ砂利取りに行く途中、三木停留所でバスを待合せていた吉岡を発見し、焼酎の酔も手伝つて吉岡に対し、同人が持参した経木が八〇〇円に満たなかつたことを口やかましく難詰して酒肴代金を請求する等の発言をなし、最後に怒声を発し、傍にいた被告人久永も阿藤に加勢したものであること。

従つて、問題は被告人阿藤等が吉岡に対し酒肴代金を請求した際、吉岡の供述するように犯行を促す発言をなしたか否かにあるのであるが、被告人等は終始右のような発言をなした事実を否定し、関係者の供述中にもこれを肯定するに足るものはない。尤も原審第三回公判調書(二冊三八〇丁)によると、同公判で証人樋口豊が吉岡晃の「三木停留所で出会つた時人殺しの話をしたが怎うか」との間に対し「馬車の箱をひつくり返したので何んとかせにやならんが、十九日の晩に決めたのをやろうと云つたのは聞きました」と証言した旨の記載があり、同調書の作成者である前岡益治は当審で証人として、前記公判調書の記載は正確である旨の証言をなすのであるが(四四冊一七二二八丁以下)吉岡のあらゆる供述を調査してみても、三木停留所で阿藤等と人殺しの話をした旨の供述はないのであるから、吉岡が前記のように「人殺しの話をしたが怎うか」と、唐突奇抜な質問を発するのはまことに不可解であり、又この質問に対する樋口豊の前掲答弁も同人の証言全体(特に三七四丁以下)の趣旨に矛盾を感ずるのである。現に被告人等の弁護人として同公判に立会した丸茂忍はこの点について、当審証人として「吉岡が『この間のをやろうぢやないかと云つたのを聞かなかつたか』と質問したのに対し、樋口が『この前のを片をつけにやいけんのうと云つたのは聞いた』と答えたと思うが、正確な記憶はない。何れにしても、樋口は阿藤が、吉岡に早く酒代を清算するよう要求していたのを聞知した趣旨の証言をしたように記憶していたが、後日公判調書の記載を見たところ、自分の記憶と相違していた。かようなことが度重なつたので遂に裁判長の許可を受けた上、民間の速記士を雇い、公判廷における質問応答を速記させ、その一部を係書記官に提供するようになつたところ、その後公判調書の記載内容が改善されたように思う」(四〇冊一五五七〇丁以下)とまことに注目すべき証言をなし、右の外にも看過することのできない重要な証言(一五五八四丁ないし一五五八七丁)をなしている。なお、証第一五八号の一ないし四の速記録によれば、原審第八回以降の公判について、右証言に照応する速記録が作成されている事実を確認することができる。そして同証人及び前記前岡証人の各証言に徴すると、山口地方裁判所岩国支部において、右のような事例は曽てないことが認められるから、原審弁護人であつた丸茂忍が原審公判調書の正確性に関しいだいていた不信の程度が凡そ推測できるのである。更に又吉岡と樋口との間に前記のような質問応答がなされたものであれば、弁護人が当然証人に対し反対尋問をなすであろうことが予想されるのに拘らず、その旨の記載がないことも不可解といわなければならない。かように種々の角度から観察すると、前記質問応答の記載部分の正確性について疑念を持たざるを得ない。

なお、樋口豊は当審第二九回公判で「岩国の裁判所で吉岡に質問を受けて答えたことはないと思う。一月二二日三木停留所で、一九日の晩に決めたことをやろう、と云うようなことは聞いたことがないので、法廷でそのようなことを答えていない」(二六冊九五七六丁ないし九五八四丁)と証言し、更に第五三回公判では一転して「三木停留所で阿藤が吉岡に対し、『この前廊下で話したことをやれよ、お前一人ではないからおれらもおるのだからやれよ』と云うているのを聞いた」(三九冊一五三五〇丁以下)と極めて重要な証言をなし、第五八回(四二冊一六二六八丁以下)第六〇回(四三冊一六七八六丁以下)公判でも、この証言を維持したのである。しかし、第二九回公判における前記証言中吉岡との問答そのものを否定する部分は到底採り得ないところであり、同時に又第五三回公判の上記証言部分及びこれを維持する第五八回第六〇回公判における証言は、前段に掲げた岩井武雄、丸茂忍の各証言、被告人阿藤、同稲田、同久永の原審供述、上申書、上告趣意書、被告人阿藤の当公廷での供述に照したやすく信用し難いところであるが、同人の第五三回公判以後の証言に関する信憑性の詳細は後段(第四章)に譲る。

以上を要するに、三木停留所の謀議に関する前掲吉岡の供述(8を除く)は、それ自体が既に変転しているのみでなく、関係証拠とも牴触し、しかも、その前提である橋柳旅館における謀議の存在に疑問が持たれるのであるから、何れの供述も軽々に信用することができない。

一二、犯行の動機について

本件犯行の動機は、既に述べた一月二三日(前掲第四の一)、橋柳旅館(同一〇)三木停留所(同一一)の各謀議と密接に関連しているので、いわば、しめくくりの意味で一括してここに取り上げることにした。この点について吉岡は

1、警察一回調書において

「一月一六日午後七時頃阿藤、稲田、松崎、久永と共に麻郷の中殿部落へ遊びに行く途中私は県道の右側に置いてあつた馬車の土箱を道の真中に置いて悪い事をした。それが馬車の持主に知れ、酒を買つて飲ませなければ済まないというので、被害者磯部某方で酒を飲んで、私は夜中の二時頃まで飲み続けたので、酒代や肴代がいくら要つたか解らなかつた。一月二二日午後五時頃地家正夫が自宅に酒肴代金を請求に来たが私は金がなかつたので明日まで待つてくれと頼んだ。地家は遅れたら皆んなの者を連れて来ると怖ろかした。私は金策に大変困り、宅に居れば地家や皆んなの者に見つかるとひどい目にあわされると思つて、二三日朝早くから柳井町に逃げていた。その日の夕方帰り、翌二四日も下八海の西という友人の宅に逃げいてた。その日の正午頃帰り金策を考えた揚句、自宅の真鍮屑を売却して地家の請求金を支払つてやろうと、平生町横土手の金本某方へ持つて行つたが、三〇〇円しかないので、地家の酒代にも他の人の借金にも足らなかつた。それでやけ気味になつて同日午後二時頃新庄鮮魚店へ行き、焼酎二合を五〇円で買い求めて飲み約三〇分で帰つた。同日午後五時頃再び新庄方へ出向いたが、途中近所の早川惣兵衛が現金を持つているに違いないと思つたが、悪い事はすまいと思いかえした。午後五時半頃から新庄方で主人と二人で焼酎を飲んだが、飲みながら早川方で一〇〇〇円でも二〇〇〇円でもよいから盗みに行つてやろうと考えた。そして帰る時早川方へ盗みに行くのでもう少し焼酎を飲んで置かなければならないと気づいて、新庄の伯母さんに焼酎二合を借用して午後八時頃新庄方を出た。帰る途中早川方へ盗みに行くことをやめて地家に払う借金は阿藤に頼んで一ヶ月間延期して貰う気持になり、平生町に向けていたが、阿藤の処へ行くことは男が立たないと云う気になつて引き返し、自宅の方向に帰り計画していた早川方で金を盗んでやろうと思い自宅の処まで来たが、気が進まないので、再び阿藤方へ行こうと考え直した。そして吉井太一方まで来た時そこにあつた石地蔵の側の石の上に腰を降して計画していた早川の処に行き金を盗んでやろうと腹を決めて早川方へ行つた。」(三冊五四二丁ないし五四八丁)

と供述していたところ

2、次に六人共犯を自供した同四回調書において

「私は金がないから自分の内にあつた真鍮屑を朝鮮人に売つて借金を仕払う考えで二回に亘つて持つて行き全部を三〇〇円で売つた。私は真鍮は値段が高いので七、八百円の品物と思つて借金を払う事が出来ると安心していたが、思つたより少いので借金の支払にも不足するからやけになつて新庄方へ行つた。瓶に入つた焼酎を上着のポケツトに入れて帰りかけたが、阿藤方へ遊びに行こうと思い八海橋に出て行くと、橋を渡つて平生の境に取りついた頃、平生町の人島部落の方向から阿藤、稲田の二人が橋のたもとに来ており、平生町の方から久永と松崎、二人が来て橋を渡ろうとしていた。四人一緒になつたら、稲田が一寸来いと云うて麻郷村の方向に橋の上を連れて行つたので私は馬車の事故の酒代の請求と思つていたところ、稲田は、今晩八海の方に遊びに行こうと細い声で話しかけた。皆んな揃つて橋を渡り、下八海の橋のたもとの処で上田節夫が上八海の方から歩いて来るのに出会つた。六人で下八海に向けて行き吉本方と川口方との中間位の所で、稲田が私に早川へ行こうと云い出した。」(三冊五六一丁ないし五六七丁)

と述べ、新庄方を出て被告人阿藤方へ遊びに行く途中、八海橋の平生町寄りの所で偶然被告人等に出会い、そして被告人稲田に早川方へ行こうと誘われて犯行をなすに至つた旨供述を変え、

3、初めて五人共犯を自供した同五回調書において

「この事件をやる前、私と外の四人の者は金がないので事件をやろうと、一月一五日午後七時過頃にも私が麻郷村の中殿部落の中殿の処に遊びに行く途中八海橋を渡つた処附近の道路で歩きながら話した事があります。その後一月一九日橋柳旅館で五人が集つた時皆んなの者が『金がのうてやれぬのう、金がある処へ盗みに行くとよいのう』と話した。その時阿藤が私に『よい処があれば決めて置け』と云つた。一月二三日午後七時頃阿藤方で五人集つた時、私が『この間のは早川瓦屋ならよかろう』と云うと外の者は『それならそうしよう』と云い出し、明日の晩九時頃か九時半頃八海橋の処へ集ろうと話が決つた。」(三冊五七九丁ないし五八一丁)

と構想新たなる供述をなし、そしてその後、橋柳旅館の謀議については前掲第四の一〇の1ないし11、一月二三日の謀議については同一の1ないし9に各記述したように、それぞれ修正変更を加えながら概ね右3の供述を維持し、ついで検事七回調書において前項一一、1に摘示するように、三木停留所で被告人阿藤等から犯行を督促された旨新たなる供述を追加し、その後同項2ないし10に挙示するとおりの変化を示しながらも大体右一一、1の供述を維持しているのである。そしてこれらの一群の供述は要するに、被告人等特に被告人阿藤が金銭に窮して窃盗の犯行を吉岡及び他の被告人等に勧誘したことが本件犯行の発端であると云うのである。

4、ところが、差戻前の二審に提出した答弁書においては

「私はこの事件を犯したのも私が一五日に麻郷の中殿へ遊びに行く時に馬車にいたずらをしたので一六日に行つて謝りをいつたのですが、どうも許して呉れないので、そして今にも私を殴ろうと態度を見せたので、阿藤が酒を買わないと治らないと云うので、私は金がないではないかというとそれは困つたのうと云つて一寸考えていたが阿藤が貸してやるというので借りて酒を買う事にした。その酒代は一月二〇日に返す事になつておりました。そして二〇日が来たので私は金の心配をしましたが出来ませんでした。それで兄にこうした金がいるといえば度々の事で兄が怒るので云う事は出来ませんでした。金はなし金をかえさなければどんなことになるかおぼえておけと怒つて来るのです。そして相手は危険人物性のある人で私はそれが恐ろしかつたのです。いよいよその日が来たのでそれで私の家にあつた銅を売つて払おうと思つて、その銅を持つて行きましたが思う程ありませんので、その金で恐しい酒代を忘れようと思つて酒を買つてのみました。そして二四日の晩阿藤の家に行く時出会つてこんな事になつたのであります。私は人を殺してまで金を盗ろうとは夢にも思つていませんでした。」(六冊一一〇八―九丁)

と述べ、恰も地家に支払うべき酒肴代金が本件の原因であるかのように変化し

5、更に差戻前の二審公判で、裁判長より「如何なる動機から早川方へ金を取りに行くようになつたのか」と質問を受けて「飲み代やら旅館代が溜つているのでその金の慾しさに行つたのであります」(六冊一三四八丁)

と答え、新たに旅館代を追加し、そしてこの点について当審第八回公判で弁護人の追及を受け、答弁に窮して支離滅裂の証言をなし(一四冊四七五四丁ないし四七九一丁参照)たのである。

以上のように、本件犯行の動機についても互に相容れない各種の供述をなしているのであるが、「橋柳旅館」、「三木停留所」、「一月二三日」の各謀議に関する吉岡の供述が容易に信用出来ないものであることは既に(前掲第四の一、一〇、一一参照)論証したところであり、又2の供述中後段即ち六人共犯を内容とする部分が信用に値しないことは今更説明の要もなく、更に5の供述はその趣旨必ずしも明瞭でないが、「旅館代が溜つている云々」なる部分は橋柳旅館の宿泊代を意味するものと推測されるところ、原審証人弘埜正世の証言(一冊一七二丁)に徴すれば、被告人阿藤等の宿泊料金(一泊一〇〇円)は同被告人が支払つている事実を認めることができるから、吉岡の右供述は信用することができない。そこで、吉岡自身が本件犯行当時金銭の必要に迫られていたかどうかを検討してみるに、吉岡が一月一五日磯部某の荷馬車の枠を取外し積んでいた土を散乱させたため、謝罪の意味で酒肴を提供し、その酒肴代金約八〇〇円を調達するため同月一八日頃吉井太一方で経木約五〇束を窃取し、これを同代金に充てるべく被告人阿藤に提供したこと、阿藤がこの経木を約五〇〇円で売却しながら着服費消し、一月二二日三木停留所で吉岡に対し右経木が八〇〇円に満たなかつたことを難詰して酒肴代金を口やかましく請求したこと、は何れも前項で認定したとおりであり、次に当審証人地家英夫の証言(二二冊七八七六丁以下)によれば、同人が一月二三日頃吉岡方を訪問して前記酒肴代金を請求した事実を認めることができる。

右事実に、前掲1の前半2の冒頭、4の一部の各供述記載と

原審第五回公判調書中「一月二四日馬車屋が金を取りに来ると云つたのでウルサイから西という家に行つて居りましたが、昼食を食べに帰つて金をつくろうと思つて赤金を売りましたが三〇〇円にしか売れませんので云々」との旨の吉岡の供述記載(二冊四七〇丁)

吉岡が差戻前の二審に提出した上申書中「一月二四日私は昼まで西という家に行つて居りました。それは私が悪い事をした時に買わされた酒代を取りに来ると思い、取りに来ても金はなし、金がなければやられるのでそれがおそろしいので昼頃まで家には居りませんでした。だがどうせ払わなければいけないのですから、私は銅を売つて支払おうと思い、それを持つて行きましたが、思う程ないので、そこでこのおそろしい酒代を忘れようと思つて新庄方へ行つて酒を飲んで居りました」旨の記載(六冊一一一八丁以下)当審第二回公判における吉岡の「一月二四日の朝から西武雄方へ行つていたが、それは馬車屋が請求に来るので逃げたりかくれたりしたわけではないが、今日位来るかも知れないと思つて外していたわけであります」旨の証言(一二冊三六〇六丁ないし三六〇八丁)

とを参照して綜合考察すれば、吉岡は一月二二日三木停留所で被告人阿藤から口やかましく酒肴代金の請求を受け、更に翌日頃地家英夫からも相当きびしい態度で同様の請求を受けたが、所持金がなく支払の見透しも立たなかつたので、翌二四日朝から近所の西某方へのがれており、同日午後右代金等を捻出するため自宅の真鍮屑を二回にわたり売却したが、予期する金員を得られなかつたため、半ば自暴自棄となつて新庄方で飲酒し、焦燥する気分をまぎらしたものと推測するに十分である。吉岡はこの点について当公廷で「新庄方へ酒を飲みに行くため銅を売つたのである」(一二冊三六〇九丁ないし三六一一丁)と証言するのであるが、この証言は吉岡の従来の全供述(吉岡の最高裁判所宛上申書二、(二)冒頭をも参照、上告審一冊二一〇四丁裏)に照し信用できない。

更に、八木初江(一冊二一〇丁)山崎陽子(一冊二一二丁)各検事調書、吉岡の警察五回調書(三冊五九四丁)同検事七回調書(三冊六五七丁)吉岡の当審第二回公判における証言(一二冊三六一三丁)を綜合すれば、吉岡が一月二二日夕方柳井町の寿楼に登楼し接客婦山崎陽子を相手に遊興宿泊し、その遊興費約九〇〇円の担保として腕時計、ズボン、帽子等を提供し、翌二三日帰る際一両日中に支払いに来ることを約したこと及び吉岡が本件犯行後間もなく同楼に赴いて右負債を支払つた事実を認めることができる。吉岡は前掲1の供述中で「自宅の真鍮屑を売却して地家の請求金を支払つてやろうと、金本某方へ持つて行つたが、三〇〇円しかないので、地家の酒代にも他の人の借金にも足らなかつた」と述べているが「他の人の借金」とは寿楼に対する前記遊興費を指したものと解すれば恰もよく客観的事実に合致するのである。

このように観察して来ると、吉岡が本件犯行当日頃金銭の必要に迫られていたことは明瞭であり、従つて犯行の動機に関する1の供述中叙上の認定ないし推定に牴触する部分は信を措けないにしても、その根幹となる部分は概ね前段で説明した事実にも符合し、相当の信頼を寄せてよいものと思料される。

以上犯行の動機経過に関する各供述を批判検討した結果によれば、単独犯を前提とする1の供述が他の諸供述に比較し、証拠によつて認められる客観的事実に最もよく一致するものと解される。してみれば本件が共同犯行であると否とに拘らずその凶行の動機は吉岡に関する限り、地家に支払うべき酒代及び寿楼に対する遊興費を捻出するためと推測するのが相当である。この観点からしても前掲3の五人共犯を前提とする供述及びこれに関連する諸供述は容易に信用し難い。

一三、その他

以上の外吉岡供述の変転又は供述内容の不自然ないし不合理、或は関係証拠との矛盾は仔細な点を枚挙すれば数限りなく存するのであるが、最後に一、二の点を例示すれば、

(1) 早川方で奪取した金員を分配した場所について、検察官の第一回検証においては、八海橋東詰附近の八海川堤防下の草むらであると現地(犯行後吉岡自身が寝転んでいたと称する場所と同一の地点)につき指示しておる(同検証調書二冊三三五丁及び三三七丁の図面参照)のに拘らず、原審検証においては、八海橋東側より約三〇米南方の同堤防上であると指示供述し(一冊三八丁及び四八丁の図面参照)

(2) 更に、八海橋より早川方へ行くまでの経過について、当初は被害者宅近くの新庄好夫方附近から二組に別れ、久永、松崎、上田の三人は蜜柑の木の通りを行き、吉岡、阿藤、稲田の三人は早川方への通路右側畑の溝を通つて同家北側へ赴いた旨を述べ(吉岡警四回三冊五六八丁、原審検証調書第一図面一冊四八丁)ていたところ、次の取り調べにおいては、右新庄方より約二〇〇米手前(北方)にある新旧両道の分岐点附近で二組に別れ、稲田、松崎、久永の三人は新道を行き、吉岡と阿藤は旧道を通り早川方近くの蜜柑の木の通りの畠の中を通つて早川方北側に出たと供述を変え(吉岡警五回五八二丁、前記四八丁の図面)その後検察官施行の二回にわたる検証に立会して右道順等に関する供述を再度変更し(検事一回検証調書二冊、三二九丁及び三三七丁の見取図・同二回調書二冊三五四丁及び三六二丁の見取図)ているのである。

以上一ないし一三の記述によつて知り得るように、吉岡の供述はそれ自身変転又変転して止るところを知らない実情であつて、何れの供述も軽々に信用し難いのであるが、特に共同犯行を前提とする諸供述は概ね不合理不自然さが目立ち、その多くは関係証拠とも矛盾牴触するから、これを以つて直ちに被告人等の断罪の資料に供する訳にはいかない。

第二章  被告人等の警察自白の検討

原判決は被告人等四名の各警察自白調書を証拠に引用しているので、その任意性及び信憑力を検討することにする。記録によると、被告人阿藤は一月二九日省線三田尻駅で逮捕された後平生署に引致され直ちに取り調べを受け、又その余の被告人三名は一月二八日平生署に任意出頭して同署で逮捕され直ちに取り調べを受けたことが明らかである。そして被告人等の各警察調書によつてみると、被告人阿藤は第一回で否認し、第二回ないし第四回でそれぞれ自白し、被告人松崎、同稲田はそれぞれ第一回ないし第三回で各自白し、被告人久永は第一回で否認し、第二回ないし第五回でそれぞれ自白したことになつている。説明の便宜上任意性の問題に先立つて信憑力の点を検討する。

第一、被告人等の警察自白の信憑力について

一、一月二四日夜八海橋への集合経過等について

被告人等四名が一月二四日午後岩井武雄、樋口豊等と共に佐賀村の田名海岸で砂利採取をなしたこと、被告人稲田が同日夕方上八海の福屋ユキ方へ遊びに出かけ、他の被告人三名が岩井武雄と共に午後七時頃久永方に集つた上田布路木の中野末広方へ賃金請求に出かけたこと、同人が不在であつたため同家に上り末広の帰りを待つたが、同人が帰らないので被告人松崎は午後九時頃同家を立去つて自転車で帰途につき(途中久永方へ一寸立寄つたものと推測される)、福屋ユキ方へ稲田を尋ねて行つたが同人が既に立帰つていたので通行人に稲田方を尋ねながら同人方へ赴き、翌早朝徳山へ仕事に出向くよう伝え且つ自己の徳本組に対する賃金受領方をも依頼して印鑑を渡し、引続いて中野方を立ち去る際、被告人阿藤より依頼されていた伝言を同人の家族に伝えるべく平生町人島の阿藤方を訪れ、阿藤が中野末広の帰宅を待つておるため遅くなるから風呂を沸かして待つていてくれるよう、阿藤の母小房に伝え、同家で阿藤サカヱ、木下六子等と雑談を交した上、翌朝徳山へ仕事に出かける阿藤に自己の国鉄定期乗車券を貸与すべく、サカヱ、六子を伴つて帰宅し、サカヱに右乗車券を手渡したこと、一方中野方に居残つていた被告人阿藤、同久永の両名は末広が帰宅しないため午後一〇時頃岩井一人を残して同家を立ち去り、被告人阿藤の自転車に久永を同乗させて帰途についたが、「天池」付近で自転車のチエーンが切れたため、同所より二人で歩いて帰り久永方前で別れ、久永は帰宅し、阿藤は自転車を押しながら帰つていたところ、平生町新市岩井商店の手前付近に差蒐つた際曽村民三に出会い、更に間もなく同商店西角付近道路上で松崎方から帰つていたサカヱ、六子の両名に出会つたこと、及びそれが午後一〇時半過であつたこと、松崎がサカヱに定期乗車券を手渡したのはそれより一分余前であること、は総て第一章第四の二で認定したとおりである。そして被告人阿藤が岩井商店前でサカヱ、六子等と出会つたことは、当審証拠調べの結果疑いのない事実となつたのであり、従つて亦、被告人松崎がサカヱ、六子と共に帰宅しサカヱに定期乗車券を手渡した事実も明白になつたのである。

更にここで右認定に引用した証拠特に原審証人上田節夫、同福屋ユキ、原審並びに当審証人阿藤サカヱ、同木下六子(但し木下六子は第三三、三七回公判証言)、当審証人阿藤小房の各証言、木下ムツ子こと木下六子の警察調書、差戻前の二審がなした第一次第二次検証の結果、当審施行の第二、三回検証の結果(昭和三三、二、一二・同三三、一〇、三一各施行)、被告人松崎、同稲田両名の警察調書、原審並びに当審における供述)差戻前の二審に提出陳述した各上申書をも含む)、上告趣意書を綜合して、被告人稲田が福屋ユキ方より帰宅した時間及び被告人松崎が稲田方へ行き、更に阿藤方へ行き、同家を立去り、サカヱ、六子と共に帰宅した各時刻について一応の考察を加えてみるに、被告人稲田は検挙以来終始一貫して午後九時一〇分頃福屋方を出て午後九時二〇分頃帰宅し、寝床に入つて暫くして午後九時半頃松崎が来たと供述しており、しかもユキ方を立去つた時間については、よるべき根拠を示している(警二、四冊八五七丁参照)。そしてユキ方より稲田方までの歩行所要時間が約八分であることは当審施行の第二回検証の結果により明らかであるのみならず、松崎が来た時間に関する供述は、後に記述する松崎の行動所要時間より算出される時間関係とも略一致するから被告人稲田の前記供述は一応信用してよいものと考えられる。次に当審施行の第二、三回検証の結果によれば、中野方から久永方までの自転車による走行所要時間は一九分余であることが推認せられ(中野方から吉木表具店までは坂道で且つ夜間であるため歩いたものと推測される)、久永方より福屋ユキ方を経て稲田方までの同所要時間は約一四分であると推認される(この間の自転車による走行所要時間は計測していないが、右両検証の結果によると、この区間の歩行所要時間は通計約二八分であることが推認され、且つ自転車による走行時間は歩行時間の約二分の一であることがわかる)。従つて中野方を出発して稲田方に到着するまでに以上通計約三三分を要することを知り得るのであるが、更に久永方及び福屋方に立寄つた際に空費したであろうと想像される数分の時間を加算すると約四〇分に達するものと思料される。そして被告人松崎が午後九時頃中野方を出発したことは先にも述べたとおりであるから、同被告人は午後九時四〇分前後に稲田方に到着したものと推認するのが相当である。次に被告人松崎と稲田が稲田方前で数分間話し合つたことは記録上疑いを容れないところであり、又稲田方より阿藤方までの自転車による走行所要時間は約六分(歩行所要時間一二分余)であることが前記当審第二回検証の結果により明らかであるから、被告人松崎が阿藤方へ到着したのは午後九時五〇分前後と推認される。前掲証人木下六子、阿藤サカヱ、等が松崎が来た時間について「一〇時一〇分前か、一五分前に来た」「一〇時一寸前に来た」と証言しているのはまことによく前記推定時刻に一致するのである。そして松崎が阿藤方に上りサカヱ、六子等と暫く雑談をなして時を過した上サカヱ、六子を伴つて立帰つたことは証拠上動かすことのできない事実であり、この間の正確な時間はこれを知る資料がないが、右証人両名及び当審証人阿藤小房の証言によると、「一〇時のサイレンが鳴つてから家を出た」と云うのである(尤も木下六子は当審第六四、六五回公判で平生町裏町近くの畔道で一〇時のサイレンを聞いた旨証言するのであるが、この証言は以上記述した時間関係及び後記阿藤から松崎方までの歩行所要時間に照し到底信用できない)から一〇時過に阿藤方を出発したものと認めるのが相当であり、又阿藤方から松崎方までの歩行所要時間が約一五分であることは当審第二回検証の結果に照し明白であつて、当時夜間で、しかも松崎が自転車を押し且つサカヱ、六子等と談笑しながら歩行したことを考慮に容れると、同人等の実際の歩行所要時間は右一五分よりも多くかかつているものと想像される。なお阿藤サカヱは原審証人として「松崎方へ着いたのは一〇時二〇分か二五分頃で三分位待つて松崎からパスを借り受け、六子と二人で帰つていたら裏町へ上る角の岩井商店の前で兄周平に出会つた」旨証言しており、右到着時間は一〇時のサイレンを聞いた事実に、歩行所要時間等を綜合判断して供述したものと推測されるのであるが、前掲曽村民三の証言(同人は午後一〇時三五分か四〇分頃阿藤と出会つた旨証言している)及び被告人阿藤が中野方を午後一〇頃出発してから曽村と出会うまでの行動所要時間約三六分(当審第二、三回検証の結果参照)に照すと、両者との間に多少のずれはあるにしても、サカヱの証言に真実味を見出し得る。右の各事情を綜合すると、被告人松崎は午後一〇時半頃帰宅したものと推認することができる。従つて被告人等が本件の凶行に参加しているものとすれば、以上認定ないし推定した時刻以後でなければならないのは理の当然である。ここで被告人等が各警察自白調書で、一月二四日夜八海橋に集合する経過等について供述しているところを摘記してみるに、

1、被告人阿藤は

(一) 警察二回調書(一、三〇付)で「私は一月二四日の夜人を殺し金を盗りましたことについて申上げます。実は私と友人の稲田、松崎、久永、吉岡等の五人が一月二四日午後一一時頃八海橋の処に相前後して集合し、予て私と稲田、松崎、久永の四名が今晩は何処かに金を盗みに行こうと云うことを当日久永宅で話し合い集合したのでありますが、そこに集合した吉岡が今から八海の早川の所には金はあるしヂーサンバーサンの二人きりだからそこへ行こうと云いましたので、私等五人の者も今晩は何処かへ入つて金を盗む決心でありましたので、それはよかろうと云うことになり……早川方へ行つた。」(四冊七九一―二丁)

(二) 同三回調書(同日付)で「一月二四日午後岩井、稲田、松崎、久永、私の五人で田名の仕事場へ行つた。樋口は後から仕事場へ来た。午後四時過仕事を終つて私と稲田、久永、松崎、岩井の五人が帰り、岩井は直ちに自宅に帰り、残つた私達が遊んでいると何かの話から『今夜は何処かへ行つて一儲けしようではないか』という話が出て結局午後一一時に八海橋の上に集る事にして……(中略)私と久永は一〇時一〇分前頃岩井一人を中野方へ残して帰つたが、途中「天池」のところまで来たら自転車が故障して、そこから二人が歩いて久永の家まで来たが、私は今夜一一時の集合の事もあるし、腹もへつていたので早く家に帰ろうと思い、久永の家には寄らず自転車を押して自分の家に帰る途中岩井方近くの三角のところで妹とムツ子に出会い、三人が歩いて午後一〇時頃家に帰つた。そして風呂に入り夕食をすますと丁度打合せの時間頃になつたので家を出て八海橋のところに行きました。私が家を出た事は妹や母は寝ていたので知らないと思うがムツ子は知つていると思う。橋のところへ行つてみると、中央に吉岡、稲田、松崎、久永の四人が集つていた。」(四冊七九七―八〇〇丁)

(三) 同四回調書(二、三付)で「二四日バラス揚げの仕事をすませての帰りに私、稲田、松崎、久永が久永方へ寄つた時私が『今晩一〇時頃八海橋に集ろう』と申しました。その晩何時頃であつたかはつきりしないが夕食をすませてすぐ独りで歩いて八海橋に行つたら吉岡、久永、松崎の三人が居た。そしてすぐ稲田も来たので……」(四冊八〇九丁)

2、被告人松崎は

(一) 警察一回調書(一、二九付)で「阿藤の女と妹の三人で歩きながら私方へ帰つた。そして家の外でパスを妹に渡したら、二人はすぐ帰つた。申し落しましたが、当日仕事に行く前久永方へよつた時阿藤が私と久永、稲田に向い『今晩よい儲けがあるから、一〇時頃八海橋の処へ来てくれ』と云つて居りましたので私は阿藤の女達が帰るとすぐ歩いて八海橋の処へ行つた。その時が午後一〇時一〇分か二〇分頃と思う。行つてみると、すでに稲田、吉岡が来ており、間もなく阿藤が来て次に久永が来て五人が集つた。橋の麻郷側に大きな家があるが、その後ろの畑に五人がしやがんで相談した。」(四冊八二〇―八二二丁)

(二) 同二回調書(二、一付)で「私は二四日の夜九時半過ぎ稲田を訪ねて行き『一〇時頃になつたら直ぐ八海橋の処へ出てくれ』と伝へました。八海橋の処に集合して相談した後早川に行く可く五人で歩いて……」(四冊八二九―八三〇丁)

(三) 同三回調書(二、二付)で「二四日の昼バラス揚げの仕事に行くため久永方に阿藤、稲田、久永、私が集つた際阿藤が『今晩一〇時頃八海橋のところ(平生側)へ集れ』と云つた。(中略)中野方へ行つて家に入る前阿藤が私に『お前今晩行かにやいけんぞ、稲田にはお前云うて置け、帰りに俺の家に寄つて風呂をええかんにして置くように云うてくれ』と云つた。(中略)稲田方へ行つて外に呼び出し『今からすぐ一〇時頃八海橋の所へ集るように阿藤が云うたから必ず来い』と云うて阿藤方へ引返し……阿藤の女と妹を連れて私方へ帰りすぐ八海橋東寄りに行つてみると、吉岡と稲田が待つていた。一〇分位して阿藤と久永が来たので旧橋との中間位の川土手で五人が集り阿藤が段取りをきめると言つて色々詳しい指図をした」(四冊八三八―八四一丁)

3、被告人の稲田は

(一) 警察一回調書(一、二八付)で「午後九時三〇分頃松崎が来て『明日は徳山の仕事があるから朝六時の汽車で徳山に来てくれ、今から八海の処まで出てくれ』と云つた。私は何をするのか解りませんでしたが、松崎の後を追つて八海橋へ行くと知り合いの阿藤、松崎、久永、吉岡が待つていた。」(四冊八四九―八五〇丁)

(二) 同二回調書(一、三一付)で「松崎が自転車で帰つてから私はすぐ家に入つて服を着て一〇分位かかつて八海橋に歩いて行つた。私が行つたところ、八海橋の取りつきの橋の上(平生寄り)に阿藤、吉岡、松崎、久永の四人が立つていた。私が八海橋に行つた時間は午後九時四〇分か四五分頃であつたように思う。」と一部供述を変えた外前項と同旨(四冊八五七―九丁)

(三) 同三回調書(二、二付)で「松崎は『今から一本松の処に来い』と私に伝えた。九時四五分頃八海橋近くの一本松の所へ行くと四人が集つて私を待つていた。そこで役割等を定め集合してから三〇分位して一〇時過八海の方へ橋を渡り……」と一部供述を変えた外前々項と同旨(四冊八七二―三丁)

4、被告人久永は

(一) 警察二回調書(一、三〇付)で「阿藤が自転車を押して私の家まで帰り、阿藤を外の道路で待たして、私は一寸家の中へ入つてみたら、小さい電灯はついていたが母等は起きている様な気配はなかつた。それで一、二分して直ぐ出て、阿藤と歩いて八海橋の向う側(麻郷寄り)まで行つて暫くすると、下八海の方から吉岡が歩いて来た。それから四、五分も待つていると、鳥越部落の方から松崎、稲田の二人が一緒に歩いて来た。」(四冊八八七―八丁)

(二) 同三回調書(一、三一付)で「中野方から帰る途中自転車のチエーンが切れそれから押したまま歩いて私の家に立寄らずに阿藤方に行つた。私は家の外で待つていると阿藤は自転車を家の中に置いて五分位して出て来たので連れ立つて八海橋に行つた。行つてみると橋の麻郷寄りのたもとに吉岡、松崎、稲田が待つていた。」(五冊八九七―八丁)

(三) 同四回調書(二、二付)で「二四日の晩田布路木からの帰りは大きい道路を私方の前を通り、西浜の停留所の十字路から左にとり八海橋の袂から右に入つて阿藤方に行きました。」(五冊九一五丁)

(四) 同五回調書(二、三付)で「二四日の夜八海橋の処へ集まるまでの話は前回申上げたとおりです。八海橋の麻郷側の端に中野方から帰つてから行きますと、まだ誰も来て居らず、間もなく阿藤、松崎、稲田、吉岡が来まして橋の平生側に後戻りして旧橋の方へ少し行つた処の土堤で五人が今夜の事について話し合つた。」(五冊九一八丁)

とそれぞれ供述したことになつている。なお念のため被告人阿藤、同久永の否認供述を摘記してみると、阿藤の警察一回調書(一、二九付)によれば「中野方からの帰途久永方の前で同人と別れ、土手町泉商店でパン二個と天ぷら一枚佃煮五〇匁を買つて帰る途中岩井商店の先で妹と妻六子に出会い、そこから三人連れで一〇時四〇分頃帰宅し、風呂に入り一一時半頃寝た」(四冊七八八―九丁)というのであり、又被告人久永の警察一回調書(一、二九付)によれば「中野方からの帰途横土手の新道の十字路の所で阿藤と別れ家に帰つて寝たが、それが一一時一〇分位前で翌朝まで出ていない」(四冊八八三丁)というのである。

被告人等の前記自白供述を通覧するだけでも、各被告人の供述の変転と相互の不統一ないしくいちがいを数多く発見するのであるが、本項では主として時間関係の観点から問題を取り上げ検討することにする。

被告人阿藤が中野方から帰途午後一〇時半過頃に岩井商店付近で妹サカエ及び内妻木下六子に出会つたことは先に述べたとおりであり、被告人阿藤の前記警察三回調書の自白供述においてはこの点を明瞭に供述し、同所からサカエ、六子と共に帰宅し、風呂に入り夕食をすませて八海橋に行つたと述べており、同四回調書においても夕食をすませて八海橋に歩いて行つたと供述しているのであるから、六子、サカエ等と共に一旦帰宅し夕食してから出かけた趣旨と解される。ところで前出当審第二、三回検証の結果によつて歩行所要時間をみれば、被告人阿藤が六子、サカエ等に出会つた地点から阿藤宅までは一三分余、同人方から八海橋東詰(平生側)までは約五分、同所より八海橋を経由して被害者早川方まで約一〇分を要することが明らかである。従つて被告人阿藤が午後一〇時半過岩井商店付近で六子、サカエ等に出会つた後同女等と共に帰宅し、直ちに八海橋に出向いたとしても前記歩行所要時間計一八分余を加算すると、午後一〇時五〇分頃になることは算数上明白であり、更に同所より早川方へ直行したとしても既に午後一一時頃になるのである。被告人阿藤が自供するように、帰宅後風呂に入り且つ夕食をすませた上自宅を出かけたものであれば、八海橋到着時刻が既に午後一一時を過ぎるであろうことは明白である。況んや前掲松崎の警察一、二、三回、稲田の同三回、久永の同五回各調書にあるように、八海橋又はその付近で犯行について相談した(稲田は相談に三〇分間位費したと述べている)ものであれば、早川家到着時刻が午後一一時を相当過ぎるであろうことも明らかである。しかるに、原審鑑定人藤田千里、当審鑑定人上野正吉、同香川卓二の各鑑定の結果によれば、早川惣兵衛夫婦は、最終食事後二時間ないし四時間経過した頃死亡したものと推定され、右三鑑定の結果を綜合すれば、食事後三時間位を経過した頃死亡した公算が最も多いと認められること、当審証人新庄智恵子、同加藤スミ子、同新庄好夫の各証言によれば、右夫婦は一月二四日午後六時ないし七時頃までの間に食事をとつたものと推認され、むしろ六時に近い頃食事をとつた公算が多いと解されること、従つて同夫婦は同日午後八時頃から一一頃までの間に死亡したものと推認され、午後九時頃ないし一〇時頃までの間に殺害された公算が最も多いこと、右九時ないし一〇時頃の死亡推定時間は吉岡が当日夕方新庄藤一方を立出でてから早川家に到着するまでの行動所要時間とも概ね符合すること、は総て先に(第一章第四の二参照)論証したとおりである。

更に又、吉岡が早川家へ到着後同家を一周して侵入口を物色した上、同家部屋南側空地で脱糞したこと、何人かが(吉岡と推測される第一章第四の六、八、参照)部屋中連の硝子窓をバールでこじあけ部屋を通つて炊事場に侵入し、炊事場と台所との間に戸締りされていた板戸の「落し錠」を探ぐるため刄物の先で板戸を九回位突き刺したこと、吉岡が右炊事場で棒電池を口にくわえて明りをとりながら、自己が携えていた瓶の焼酎を同所東側棚に置いてあつたサイダー瓶に入れ換えて自己の瓶を棚に置き、炊事場の北出入口の板戸を開け入口付近にサイダー瓶を置いたこと、は既に第一章で説明したとおり証拠上動かし難い事実である。このような行為をなした後惣兵衛等夫婦が就寝していた母家に侵入し凶行をなしたことも明らかなところであるから、早川家に到着してから凶行を演ずるまでには少く見積つても二〇分位の時間を要したものと推測される。吉岡が警察六回調書以降の五人共犯自供で供述しているところをとれば右の時間は更に増加するのである。何故ならば、吉岡は脱糞後同家母家裏手へ廻る途中携えていたバールを推肥の中に深く差込んで隠し、更に惣兵衛夫婦の寝室に近い裏手床下口に打ちつけられていた板を取り外し、そこから四つ這いの窮屈な姿勢で床下をもぐつて台所に出て、台所と炊事場との間の板戸を開けた上炊事場に侵入したと供述しているからである。してみれば、前記死亡推定時刻中蓋然性の少い最も遅いもの即ち午後一一時をとつてみても、それより少くも二〇分位前即ち午後一〇時四〇分頃以前に早川家へ到着していなければならないことになるのである。これが被告人阿藤にとつて時間的に不可能であることは重ねて説明するまでもない。従つて被告人阿藤の自白供述がそのまま採り得ないことは余りにも明白である。そこで考えられることは被告人阿藤がサカエ、六子等に出会つた後自宅へ帰らずに八海橋へ直行したのではないかと云うことである(木下六子は当審第六四、六五回公判でこれに類する証言をなしたのであるが、この証言の信憑力については後に詳論する)。この仮定に立つて検討してみると、前掲差戻前二審の第一次検証の結果(特に添付図面参照)及び当審第三回検証の結果(三三、一〇、三施行)によると、中本自動車店及び平生座から八海橋東詰までの歩行所要時間はそれぞれ九分余であることが認められ、且つ被告人阿藤がサカエ、六子等に出会つた場所から八海橋東詰に至るまでの距離は、中本自動車店及び平生座から八海橋に至る距離と略相匹敵するものであることが推認されるから、被告人阿藤がサカエ等と出会つた岩井商店付近より八海橋東詰までの歩行所要時間も約九分と推測すべきである。従つて阿藤が六子、サカエ等に出会つた時間即ち午後一〇時半過ぎに、右九分の外八海橋東詰より早川方までの歩行所要時間約一〇分を加算すると、被告人阿藤が岩井商店付近から早川方へ直行したとしても同家へ到着するのは午後一〇時五〇分になるものと考えざるを得ない(被告人稲田、松崎、久永等が供述しているように、八海橋付近で犯行について協議をなしたものであれば、更に一層遅くなることは云うをまたないが、ここではこの点を不問に付する)。しかるに、凶行前の準備工作等に少くも二〇分位の時間を費したものと推測されることは前段で述べたとおりであるから、午後一〇時五〇分頃早川方へ到着したのでは、死亡推定時刻中最も蓋然性の少い午後一一時をとつてもなお且つ本件凶行の間に合わないことになるのである。

そして自宅前で阿藤と別れ一且帰宅した被告人久永及び阿藤方からサカエ、六子等と共に帰宅し、サカエに定期乗車券を手渡した被告人松崎が、それぞれ自宅で時間を空費せず直ちに八海橋を経由して早川方へ歩いて行つたとしても、両名の早川方到着時刻は被告人阿藤の右想定時刻と略同じ頃と推測される(前記両検証の結果参照)。のみならず、同被告人等は何れも八海橋で被告人阿藤、同稲田及び吉岡等と集合した上早川方へ赴いた旨供述しているのであるから、被告人阿藤の自白供述が前に説示した理由によつて信用できない以上、同被告人等の自白供述も亦同様の理由によつて信憑力が一応否定されるのは当然の帰結である。なお歩行所要時間に関する当裁判所の検証は時間の計測のみを目的とし、しかも昼間通常人の歩行速度に比較して決して遅くない速度で歩行し、且つその時間を計測したものであるところ、吉岡及び各被告人のあらゆる供述を精査してみても、同人等が八海橋へ集結する直前及び同所から早川方へ赴くまでの間に自転車を利用し、或は走つた旨の供述は些かも見当らないのであるから、被告人等がその供述どおりの行動をとつたものとすれば、その所要時間が当裁判所の検証の結果に現われた歩行所要時間より短い時間であるとは到底考えられない。もとより早川夫婦の死亡時刻は推定であり、犯人が早川家に到着してから凶行を演ずるまでの行動所要時間約二〇分も推測を出でないのであるから、これらの時刻ないし時間に多少の誤差がないとは保障できないが、たといこのような誤差を考慮に入れたとしても、被告人等が本件の犯罪に加担することは時間的に頗る困難で稍誇張した表現をもつてすれば不可能に近いとも云えるのである。

次に被告人等の前掲供述中明らかに関係証拠に牴触するもの或は不自然ないし不合理なものを二、三指摘してみると、

被告人松崎は前記のように、警察二回調書ではじめて「夜九時半過ぎ稲田方へ行き、一〇時頃になつたらすぐ八海橋の処へ出てくれ、と伝えた」と述べ、同三回調書で「稲田を外へ呼び出し、今からすぐ一〇時頃八海橋の所へ集るように阿藤が云うたから必ず来い、と云うて……」と供述しているのであるが、若し右の各供述が真実であるならば、自己も亦午後一〇時頃八海橋に集る態勢を整えて待機すべきであるのに拘らず、現実には稲田方から阿藤方へ赴き、同家に上つて前記集合時間を無視するかのように悠然としてサカエ、六子等と雑談を交し、午後一〇時過両女を伴つて帰宅しているのである。このように、被告人松崎が稲田に告げたという前掲の言葉と、松崎の現実の右行動とが明らかに矛盾しているところからすれば、稲田に告げたという供述そのものに疑問を抱かざるを得ない。

更に被告人稲田の各警察自白によれば、同被告人は被告人松崎が午後九時半頃自宅に訪ねて来て「今から八海の処まで出てくれ、と云つたので松崎の後を追つて八海橋に行くと、阿藤、松崎、久永、吉岡が待つていた」(警察一回)「松崎が帰つてからすぐ家に入つて服を着て一〇分位かかつて八海橋の平生寄りに行くと四人が待つていた。それが午後九時四〇分か四五分頃と思う」(同二回)「松崎が今から一本松の処に来いと云つたので九時四五分頃八海橋近くの一本松の処に行くと四人が集つて私を待つていた」(同三回)と各供述しているのである。

若し稲田が右に供述するとおり行動をとつたものであるならば、稲田方から八海橋東詰までの歩行所要時間約八分を加算した午後九時四五分前後に八海橋に到着するものと考えられる。従つて時間関係に関する限り稲田の供述に誤りはないものと思われるが、右時間頃被告人阿藤、同久永の両名は田布路木の中野末広方で同人の帰りを待つていたものであり、又一方被告人松崎は稲田方を立去つてから自転車で阿藤方へ赴き、引き続き同家でサカエ、六子等と雑談し午後一〇時過六子、サカエを伴つて帰途につき、午後一〇時半頃帰宅したものであることは何れも先に論証したとおりであるから、同被告人等三名が吉岡と共に午後九時四五分頃八海橋又はその付近で被告人稲田を待つていることは条理上あり得ない事柄である。従つてこのように条理上あり得ない供述から出発構成されている被告人稲田の警察自白は既にこの一点からしてもその信憑力が極めて乏しいものといわなければならない。

進んで被告人久永の前出警察二、三、四回調書によると、同人は中野方からの帰途阿藤と共に同人方へ行き、それから二人で八海橋へ赴いたと供述しているのであるが、被告人阿藤が久永方前で同人と別れ、一人で歩いて帰る途中岩井商店付近で曽村民三に出会い、次いで間もなく、同所付近でサカエ、六子等に出会つたものであることは先に述べたとおりであるから、久永の右供述も虚偽と断ぜざるを得ない。

以上のように観察して来ると、被告人等の前掲供述は被害者夫婦の死亡推定時刻に牴触し、しかも限られた部分的供述においても、不合理なもの或は信用に値する関係証拠に矛盾するものが幾多発見されるのである。

二、その他

被告人等の各警察自白は前項で述べたような理由によつて殆んど信用に値しないものと推測される。従つて前項で論じた以外の自白供述部分の信憑性を論証するに当つて多大な記述をなす必要がないと思われるので主要な点についてのみ考察をなすことにする。

1、奪取金員及びその分配と使途等について

この点については、先に吉岡の立場から一応の論証をなした(第一章第四の三参照)のであるが、右は本件にとつて極めて重大な意味を有するので被告人等の供述の要旨を再録し、被告人等の立場から改めて検討を加えることにする。

(一) 被告人阿藤は

警察二回調書で「私は何も取らない。久永から一〇〇〇円札二枚貰つた」、同三回調書で「吉岡と稲田が取つた金を出したので、私が各人に一〇〇〇円札一枚、一〇〇円札二枚、一〇円札四、五枚宛配り残金二六〇〇円は私が取つた」。同四回調書で「私は何も取らぬ、旧八海橋の所で私が金を集めて四人に一六〇〇円か一七〇〇円宛渡し、私は二五〇〇円位とつた」

(二) 被告人、松崎は

同一回調書で「阿藤から一〇〇〇円札二枚、吉岡から一〇〇円札五枚貰つた」、同二回調書で「阿藤から一〇〇〇円札一枚貰つただけで前回二五〇〇円貰つたと述べたのは嘘である」、同三回調書で「阿藤から一〇〇〇円札一枚、吉岡から一〇〇円札五枚、一〇円札六、七枚貰つた」

(三) 被告人稲田は

同一、二、三回調書で「阿藤と吉岡から一〇〇〇円宛計二〇〇〇円貰つた」

(四) 被告人久永は

同二、五回調書で「吉岡から五〇〇円、阿藤から一〇〇〇円受取つた。」

とそれぞれ供述したことになつている。以上の供述を通読しただけでもその変転とくい違いに一驚するのである。即ち阿藤の右二回によれば、久永から二〇〇〇円貰つたことなり、三回によれば、吉岡と稲田が奪取したものを醵出し、阿藤が他の四人に一二五〇円位宛を分配し、自らは残金二六〇〇円位を取つたというのであるから、奪取総額は一応以上合計七六〇〇円位になり、同四回によれば、阿藤が奪取金を集め、右四人に一六〇〇円か一七〇〇円宛分配し、自らは二五〇〇円位取つたと云うのであるから奪取総額は以上合計八九〇〇円位ないし九三〇〇円位となるのである。そして右三回を通じ自らは金銭を奪取していないと供述している。しかるに、他の被告人三名の供述(松崎の二回を除く)によれば、阿藤の外吉岡から貰つたことになり、しかも阿藤から貰つたと云う額は阿藤が分配したと供述する額と悉くくい違うのである。又奪取総額の点についても、阿藤の供述によれば、七六〇〇円位(三回)、或は八九〇〇円ないし九三〇〇円位(四回)となるのに、他の被告人三名の供述によつては、奪取総額を想像することができないのみでなく、自己以外の他人の分配額も不明なのである。更に被告人稲田が吉岡から一〇〇〇円貰つたと供述している部分を除くと、被告人等の右供述が、吉岡のこの点に関するあらゆる供述と一致しないことは既に説明したとおりである。(この点に関する吉岡の供述は種々変転し、自己の奪取金を約七五〇〇円と云い、或は一〇六〇〇円位とも述べ、検事八回調書以降においては阿藤と自己との奪取総額を四―五万円又はそれ以上と供述し、しかも四―五万円又はそれ以上の金員の大半を阿藤が取得し、他の被告人三名には吉岡から一〇〇〇円宛、阿藤から二〇〇〇円宛位を分配したと述べているのである。(第一章第四の三参照)。被告人等が若し本件の凶行に参加して金員を奪取し、その分配を受けたものであれば、この点に関する同人等の自白供述は自然に統一し、且つ吉岡の供述(吉岡が単独で七五〇〇円位奪取領得していることは証拠上明白である)とも符合するのが当然であるのに拘らず、右のように、相互に甚だしいくい違いを露呈しているのは如何なる原因に基くものであろうか、まことに不可解といわざるを得ない。殊に各被告人共それぞれ三、四回にわたり、惣兵衛夫婦を殺害した旨刑責の重大な事柄について自白しているのであるから、人命に比較すれば軽微な事柄である金員の奪取額ないしその分配取得額等について殊更虚構の事実を申述べる必要があるとは解せられない。これは独り当裁判所のみが抱く疑問ではなく、良識ある者であれば何人にも共通する不審感であると考えられるから、捜査当局者がこの点について同様の疑問を抱いたであろうことは容易に想像されるところである。特に本件においては、次章で詳論するように吉岡についてはあり余る程の物証その他の証拠が完備しているのに反し、被告人等については、変転する吉岡の供述を除くと罪証に値する程の証拠が殆んどないのであるから、捜査官が自白の裏付けとして、被告人等に対し、同人等が分配を受けたと自供する金員の使途、その他の処分先を厳重詳細に追及し、且つこれに対する被告人等の答弁の真偽を明らかにするため、その供述に現われた関係者についてことの真否を問いただしたであろうことも捜査の常識としてたやすく推測されるのである。現に吉岡については、同人の自供に基いて中本イチ及び寿楼の関係者を取り調べ、同人等が吉岡より受領した金額を確認し、且つその一部の金員を押収しているのである。そこで被告人等が分配を受けたと称する前示金員の使途について供述しているところを挙示してみると、

(一) 被告人阿藤は警察三回調書で「私が取つた二六〇〇円は徳山のマーケツトで私、久永、稲田の三人で飲み一五〇〇円位使い、残りは一月二六、七の両日徳山で皆の者と使つた」

(二) 被告人松崎は同一回調書で「阿藤と吉岡の二人から計二五〇〇円貰つたが、この金は一月二六、七、八の三日間に飲食費映画代等に全部使つた」同二回調書で「阿藤から一〇〇〇円貰つただけでこの金は菓子代映画代等に使つた」

(三) 被告人稲田は警察一回調書で「貰つた二〇〇〇円は全部遊興費に費つた」同二、三回調書で「二〇〇〇円は映画、買食い、煙草銭に使つた」

(四) 被告人久永は同二回調書で「貰つた一五〇〇円の中一〇〇〇円は母に渡し、五〇〇円は徳山駅前のローズ喫茶店で飲食費に使つた」同四回調書で「一月二五日徳山駅前の喫茶店で一二五円位支払い、その隣りのゲーム屋でチケツト三〇〇円位買つて遊び、五七五円はすられたのか落したのかなくなつた。ローズ喫茶店で五〇〇円支払つたことは間違いない」

とそれぞれ供述した旨の記載がある。以上のとおり、被告人等の供述は各数行程度に録取されているが、前段で記述したように、使途等に関する供述の重要さに思いを致すならば、この点に関する質問応答については種々の迂余曲折あつたものと推測するに難くない。被告人等が分配を受けた額及びその使途等について供述を変更しているのは、この間の消息を物語るものと解することができる。例えば、被告人久永は二回調書で一〇〇〇円を母に渡したと供述しているのに、四回調書ではこれを変え、しかも五七五円位をすられたとか落したとか、曖昧に供述をしているのであるが、これは捜査官が久永の母について一〇〇〇円受領の有無を確かめた結果そのような事実がなかつた(前出証人久永サイ子の証言参照)ので変更を余儀なくされたものと推測される。なお久永を除く被告人等三名が使途について一様に飲食費、遊興費、映画代、菓子代或は煙草銭等と頗る抽象的な供述をなし、しかもその使い先の店名等を具体的に特定明示していないことは吉岡の場合に比較し奇怪な感を否定し得ない。前段で説明した本件の特異性に照すと、被告人阿藤、稲田、松崎等を取り調べた警察官が同被告人等の右のような供述を得ただけで能事終れりとしてそのまま承服したとは到底考えられない。同被告人等三名が前示のようにつかみどころのない抽象的な供述をなした原因を敢て忖度してみると、殊更に金銭の使途を誤魔化すためか、或は実際に消費していないため答弁の仕方に窮して右のような供述をなしたか、両者のうち何れかの一つであろうと想像されるところ、同被告人等が金銭に関する事柄のみを隠す必要のないことは前段で説明したとおりである。何れにしても、被告人等四名の奪取金員の使途に関する前掲各供述については、当該被告人の供述以外に何等の裏付け証拠がなく、同人等が奪取金員に相当するような金員を別途費消し、或は隠匿したと推測せしめるような資料もないことは既に説明した(第一章第四の三参照)ところであり、却つて被告人阿藤、稲田、久永等が本件発生の翌日である一月二五日徳山の仕事先から映画館に赴いた際、入場料に窮し、同映画館の映写技師をしていた阿藤の友人三宅某に依頼して無料入場をしたこと、被告人阿藤が一月二五日以降も金銭に窮し、内妻木下六子の如きは同日夕方より一月二八日朝三田尻の実家へ出発するまでの間漸く数回の食事を取つたに過ぎないこと、阿藤が六子と共に三田尻へ赴く際所持金不足のため田布施駅より徳山駅まで無賃乗車をしたこと、阿藤が一月二九日三田尻駅で逮捕された当時所持金なく、同行していた六子も実家の母より貰つた一〇〇〇円で買物をなし、その釣銭約六〇〇円を所持していたに過ぎなかつたことも総て先に論証した(前同参照)とおりである。以上種々論述したところを綜合すれば、被告人等の前掲各供述の信用し難い所以が明瞭であり、従つて又これと密接不可分の関係に立つ本件凶行に関する自白部分についても重大な疑問を抱くのである。

2、黒紐の用途に関する供述について

(一) 被告人阿藤は警察二回調書(四冊七九四丁)で「私、稲田、松崎、久永の四人がバーサンを倒してその部屋にあつた紐で首をしめてバーサンを殺し……」同三、四回調書(四冊八〇二丁、八一一丁)で「松崎が紐を探して来て吉岡に渡し、吉岡がそれで首をしめ殺した」

(二) 被告人稲田は警察三回調書(四冊八七五丁)で「阿藤は婆さんの腰紐をほどいて、上の鴨居に結びつけ、そして皆んなが婆さんをつりさげて離そうと思つて手をゆるめたら、紐がびりびりといつて切れた」

(三) 被告人久永は警察二回調書(四冊八九二丁)で「最初吉岡が腕でおばさんの首をしめ、更に寝室の南側の壁に着物と一緒にかけてあつた黒い紐でしめました。それで吊上げる際にもその紐がついていました」

とそれぞれ供述した旨記載されている。

しかるに、藤田千里の早川ヒサに関する鑑定書(二冊二六九丁以下)によれば「(1)本屍は窒息死にして索溝の出来る以前に第三者により頸部を索状以外の何物かによつて搾扼されて死に至らしめたものと推定する。(2)頸部には荷造り用の細紐様のもので出来たと推測される索溝があつて、舌骨部及び左右側頸部に深くくい込んでいて、斜め上後の方向に向い外後頭結節部に消えている。索溝に溢血はない。(3)右側頸部頭髪の生え際に沿つて、巾一、二糎見当の紐様の物にて出来たと推測される「」の字型の長さ五糎巾一糎の表皮剥離がある」と記載されている。この鑑定書記載と吉岡のヒサを殺害した点に関する全供述とを綜合すれば、ヒサは首吊り前、何人かの手により搾扼されて死亡したことが明白であるから、紐によつてヒサの首をしめ殺した旨の前掲阿藤の供述及びこれに類する久永の供述は到底信用し難く、更に又、次章で詳しく論証するように、前記の紐はヒサの首をしめ、或は同女を鴨居に吊り下げるために使用したものではなく、麻縄で吊り下げたヒサの死体が下がり過ぎたため、これを吊り上げる支柱として使用したものと推認され、同時に亦ヒサの右側頸部の「」字型表皮剥離は、その際生じたものと推測されるのであるから、この推測に反する右被告人等三名の供述は、この観点からも信用し難い。

3、凶行当時の吉岡の着衣に関する供述について

(一) 被告人松崎は、警察二回調書(四冊八三四丁)で「早川へ入る時吉岡は空色のオーバーを着て……」

(二) 被告人久永は、同二回調書(四冊八九四丁)で「その晩吉岡はシヤツの上に草色がかつたオーバーを着て……」同三回調書(五冊九〇一丁)で「吉岡が襖の間から頭を出して静かにせ―と云つて襖を少し開けて出たが、出る瞬間吉岡のオーバーの左ポケツト一杯の巾で厚みの薄い草色がかつたような紙らしいものを入れ、その端が五分位上に出ていた。又右胸のポケツトが相当ふくらんでいるのを見たが、吉岡は入る前にはそんな物は無かつたので盗つたなと思いました」

旨それぞれ供述した旨の記載がある。

しかし、吉岡の検事三回調書(三冊六三五丁)証人吉岡晃の当審証言(一二冊三五八九丁以下、一三冊三九四四丁、一五冊五〇一八丁、四一冊一六一〇九丁)藤田千里の鑑定書中ジヤンバーに血痕及び蜘蛛の巣が付着している旨の記載部分(二冊二七五丁以下)を綜合すれば、吉岡は早川方へ行く前自宅に立寄つてオーバーを脱ぎ、これを自宅へ置いた上早川方へ侵入して凶行をなしたことを認めるに十分であるから、被告人松崎、久永の前掲供述は信用し難く、特に被告人久永の供述は架空な作り話であることが明白であつて、これらの供述は、厳寒の時期であつたため、吉岡がオーバーを着用していたものと想像してなした疑いが濃厚である。

4、被告人等の自白内容の変転と吉岡をも含め五名の供述相互間のくい違い

一月二三日夕方阿藤方屋内外における謀議、早川方への侵入口、早川方よりの帰途八海橋の上から八海川に物を投棄したとの点、奪取金額とその分配、一月一九日橋柳旅館での謀議等については、これらの点に関する吉岡の供述を検討する際、被告人等の関係供述をも併せて挙示し、同時に批判した(第一章第四の一、六、九、一〇参照)ので、ここでは記述を省略する。その他犯行及びその前後に関する被告人等の供述は各自変転し、吉岡の供述をも含め五名の供述は相互に数多くくい違つているのであるが、その全部を記述すれば煩瑣冗長になるばかりでなく、その必要もないと考えられるので、惣兵衛夫婦殺害の状況に関する吉岡及び被告人等の供述を摘記するに止め度いと思う。惣兵衛及びヒサの殺害状況について

(一) 被告人阿藤は

(1) 警察二回調書(四冊七九四丁)で「先頭にいた吉岡がいきなり出口にいた人を持つていた斧でなぐつたので、なぐられた人はうーんとうなつた。続いて吉岡はなぐつていたところ、バーサンが起きて来て、吉岡に飛びついて来たので、そこのへりに居た私等四人がバーサンを倒してその部屋にあつた紐で首をしめてバーサンを殺し……」

(2) 同三回調書(四冊八〇一丁)で「吉岡と稲田が襖を開けて次の間に入つて行つたら、誰か……と云う様な男の声がすると、吉岡がいきなり持つていた斧でその人らしいものを盛んに殴り始めた。私達三人(阿藤、松崎、久永)も中に入つていくと、男か女か解らないが、吉岡と稲田がねじふせていたので、私達も手伝い、私は右手で押え稲田が口を押え、吉岡が首をしめ、足の方を久永、松崎が押えていた。その内松崎が紐を探して来て吉岡に渡し、吉岡がそれで首をしめ殺した」

(3) 同四回調書(四冊八一〇丁)で「吉岡が爺さんを斧で一回殴り、私が次に吉岡から斧を貰つて顔面を一回、次に稲田、久永、松崎の順に殴りつけた。婆さんが立ち上ろうとしたところを吉岡が倒し、皆で首やら口、手足を押え、松崎が持つて来た紐を吉岡に渡し、吉岡がそれで婆さんの首をしめ……」

とそれぞれ供述したことになつている。右供述記載によると、二、三回においては、斧で惣兵衛を殴打したのは、吉岡一人になつているのに、四回においては、吉岡、阿藤、稲田、久永、松崎の順に各一回殴打したことに変り、二回においては、吉岡を除く四人がヒサを倒して紐で首を絞め殺したことになつているのに反し、三、四回においては、吉岡が紐で絞め殺したことに変化しているのである。なおヒサの死因が紐による絞殺でないこと、従つて阿藤のこの点に関する供述が信用できないことは先にのべたとおりである。

(二) 被告人稲田は

(1) 同一回調書(四冊八五二丁)で「阿藤は松崎から受取つた薪割を持つて惣兵衛の寝間に行き、惣兵衛を殴り出したので、私は大変なことになつた惣兵衛は死んだと思つて表に出て行き……私は早川方の中に入つたが殺すことは一切手伝つておらぬ、惣兵衛を阿藤と吉岡が薪割で殴り殺したことは知つているが、婆さんはどうして殺したか知らぬ」

(2) 同二回調書(四冊八六二丁)で「私は入つた時奥の方からヤーと云う声が一回だけ聞こえたので、何かやつたなと直感し……母家の庭に入つた瞬間吉岡が何か振り下したと思つたと同時にポカンと云う音が聞えた。そして三人(稲田、松崎、久永)が板の間に上つた時、吉岡が婆さんの後から馬乗りの中腰になつて右腕で首をしめ……」

(3) 同三回調書(四冊八七四丁)で「私が炊事場に入つた時主家の方から『やあつ』といううめき声が聞えた。私が奥の間の見える処まで入口から曲つた時吉岡だつと思うが、斧か何かを振り下すのを見た。今度は阿藤が打ち下したが……、それは斧であることが分つた。阿藤が私に斧をくれたので……その斧で爺さんの頭をめがけて打ち下した。……吉岡が婆さんの後から馬乗りになつて首を締めていたので、阿藤が交替して首をしめ……」

とそれぞれ供述した旨の記載がある。以上の記載によると、一回においては、阿藤が惣兵衛を殴り出したので自分は表へ出たと述べ、且つヒサをいかようにして殺したか知らぬと述べているのに、二回においては、吉岡が殴打するのを見た外、同人がヒサの首をしめている状況をも目撃したと変り、更に三回においては、吉岡及び阿藤が殴打する状況及び両名がヒサの首をしめているありさまをも見た旨述べ、且つ稲田自らも惣兵衛を殴打したと変転している。

(三) 被告人松崎は

(1) 同一回調書(四冊八二四丁)で「吉岡、阿藤、稲田の三人は家の正面から南側を通つて裏の方へ廻つて行つたが、何処からか家の中に入つた様であつた。私と久永は風呂場のたき口の前で見張りをしながら様子を見ておると、屋内で……喧嘩をして叩きあう様な音がしたので怖ろしくなり久永と二人で……地蔵さんの処まで走つて家の陰に隠れていた」

(2) 同二回調書(四冊八三一丁)で「私は奥の間に入つて行つた。爺さんは顔から頭の方血もぐれになつて横たわつていた。私は恐ろしかつたので次の間に出ると、阿藤が来いと呼んだので又その部屋に入り、死んだ様になつている婆さんを私、久永、吉岡の三人で下の間に出した」

(3) 同三回調書(四冊八四二丁)で「私が入つてみると、ばあさんはその間の出口に近い所へ、伏せて伸びて居り、爺さんは奥側に上向きになつて布団を少し着て倒れていた。頭の方に傷がありました。以下前同」

とそれぞれ供述した旨の記載があり、以上の記載によると、一回によれば、自己及び久永は早川方屋内に入らなかつたことになるのに、二、三回によれば屋内に入りヒサの首吊り工作を手伝つたことになるのである。

(四) 被告人久永は

(1) 同二回調書(四冊八九〇丁)で「吉岡は何かがさがさ探している模様であつたが、暫くして『アツ起きた』とどなり、炊事場の方へ行き薪割を持つて納戸に走り、上向きに寝ている爺さんの頭に打込んだ。その時稲田は驚いて外に飛び出した。阿藤は私の側で見ていた。寝ていた婆さんが中腰になつたので、吉岡が後から両腕で喉をしめたら間もなくぐにやつとなつた」

(2) 同三回調書(五冊九〇二丁以下)で「吉岡は台所の方へ行きすぐ寝室の方へ引返した。私達三人(久永、稲田、松崎)は外に出ようかと話していると、身が震えるような変な声がしたので元居た座敷に飛び上つた。吉岡は寝室の中に入つて居り、阿藤は見えなかつた。座敷で女の声で晃と呼ぶのが聞えた。その時中から変な声がしたので私、松崎、稲田の三人が中に入ると、吉岡は右腕でばあさんの首を巻き付け締め後に仰向けになつていた。ぢいさんは入口の方で頭を少し山手の方にしていたが詳しいことは分らぬ、しかし動く気配はなかつた」

(3) 同五回調書(五冊九一九丁以下)で「吉岡が部屋に入つてからぢいさんを切るか叩くかしたらしく、中でぢいさんの悲鳴が聞こえて来た。私はその後その奥の部屋近くまで行つたが、その時ばあさんが、晃の名前を呼んだようであつた。その時ばあさんが起きて来るのを吉岡がとびかかつて行つて後ろ側からばあさんを倒して首をしめた。阿藤もその時すぐばあさんの傍へ行つた。その時阿藤や他の者が何をしたか怖しかつたのではつきり覚えていない。奥の部屋からばあさんの苦しむ様な変な声がした。のぞいて見ると婆さんは頭を北に向けて顔を伏せていた」

とそれぞれ供述した旨の記載があり、以上の記載によると、二回においては、吉岡が斧で上向きに寝ている惣兵衛の頭部を殴打しているところを目撃したことになつているのに、三、五回においては、それを目撃しないことに変つている。なお右供述部分に摘記しなかつたが、久永の三回調書(五冊九〇〇丁以下参照)によると、吉岡が金員を奪取したのは、惣兵衛夫婦に対する凶行より前である旨記載されているが、吉岡のあらゆる供述ないし供述記載を検討してみても、これに照応するものはない。

(五) 吉岡晃は

(1) 警察四回調書(三冊五七〇丁以下)で「私は薪割を持つて六畳の間の入口の襖を開けると惣兵衛が、誰れかと声を出したので薪割で二回位殴りつけた。そこに阿藤と稲田が来て阿藤に薪割を渡してやる時、ばあさんが、強盗ぢやーと一回たけつたので、私はすぐばあさんの処へ行つたら布団の中にもぐつた。布団をはぐつて口を両手で押えると東側にあがいて行つた。阿藤は薪割で惣兵衛を一、二回殴つて居たが、薪割をそこに置いてばあさんの処に来て首を両手で絞めつけますので、私は口の上を両手で物を云わない様力一杯押えていたら、ばあさんは死んでしまつた」

(2) 同五回調書(三冊五八六丁以下)で「私は薪割をもつて奥の間の襖を開けて居りますと、中から、誰かと云つた様な声がした。私は顔を見られたと思つてこれはつまらない殺してやろうと思つて起き上りかけて居た人でその時はぢいさんかばあさんか解らなかつたが、薪割で殴りつけた。回数は覚えぬが殴つたらその人は後ろに倒れた。その瞬間ばあさんが、やあつ、とたけつて布団の中に頭をつつこんだので、薪割をその場に放つてばあさんの処に行き、たけらすまいと思つてばあさんの口を両手で押えつけ、片手で喉笛の処を押えて居たら、阿藤と稲田が来て二人が首を手で締めた」

(3) 同六回調書(三冊六一二丁以下)で「私は先に話し合わせたように、たけつたら殺してやろうと思つて、阿藤から薪割を受取り、襖を開けていたら中から、誰れかと云いました。阿藤が、おらにかせ、と云つて薪割を取つて惣兵衛を殴りつけた。回数は一回であつたが、惣兵衛は、うーん、と云つていた。その時婆さんが起き上つて、やあんー、と云つて布団の中に頭を突き込んだので、私は前もつて話し合せた通り婆さんの所に行き、婆さんの口を両手で押え、すぐ片手で婆さんの喉笛の処を押えていたら、阿藤が来て首を締める手伝いをした。その時稲田が来て惣兵衛を薪割で一回殴りつけているのを見た。私は阿藤が来たので惣兵衛の処に行き薪割で一回程顔の辺を殴りつけた。私が箪笥に金を取りに行く時松崎が薪割で惣兵衛を一回位殴りつけているのを見た」

とそれぞれ供述した旨の記載がある。即ち四回によると、吉岡と阿藤が順次各二回位斧で惣兵衛を殴打して殺害し、ヒサも両名が手で絞め殺したことになり、五回によると、吉岡のみが惣兵衛を殴打し、ヒサは吉岡、阿藤、稲田の三名で絞め殺したことになり、更に六回によると、阿藤、稲田、吉岡、松崎の順に各一回殴打したことに変化しているのである。

以上のように、各人の供述内容は幾変転しているのであるが、試みに五名の最終供述を比較し、その主要な点に関するくい違いを摘記してみると惣兵衛殴打の点について、阿藤は「吉岡、阿藤、稲田、久永、松崎の順に各一回殴打した」、稲田は「吉岡、阿藤、稲田の順に殴つた」、吉岡は「阿藤、稲田、吉岡、松崎の順に各一回殴つた」とそれぞれ供述しているのに、松崎、久永両名は自己等が殴打した旨の供述をしておらないのみでなく、僅かに久永において、吉岡が殴打したらしいことを窺わせる供述をしている外他人が惣兵衛を殴打した点についても何等の供述をしていないのである。次にヒサの殺害について、阿藤は「吉岡が紐でヒサの首をしめた」、稲田は「吉岡と阿藤が交替で首をしめた」、久永は「吉岡がヒサを倒して首をしめた。阿藤もすぐヒサの傍へ行つたが何をしたか覚えぬ」、吉岡は「吉岡、阿藤、稲田が順次ヒサの首をしめた」と供述しているが、松崎はこの点について何等の供述をもしていない。

5、吉岡のみが供述し、被告人等が供述をしていない主要な事柄

吉岡は警察六回調書(三冊六一五丁)で「私は惣兵衛の処の丸い火鉢の灰を片手で四、五回座敷に撒いた。婆さんの首吊りの仕事がすんでから阿藤が夫婦喧嘩をした様に見せかけるため婆さんの手足に血を着けると云うて、惣兵衛の血を紙につけて婆さんの両手の掌に血を塗りつけ、足の腹にも塗りつけていた。ロープや首の付近にも塗りつけた。惣兵衛の枕元にあつた薪割を私が阿藤に渡してから、阿藤は薪割を婆さんの両手に握らして血の跡をつけて下にぱつたり落して、手袋で端の方を握つて襖の側に置いて、次に私が持つていた出刃庖丁が板座敷にあつたものを松崎が持つて来て、これもついでにやつておけと云つて阿藤に渡した。阿藤はその庖丁を婆さんの右手に握らせて婆さんの首の真下に落した。薪割や庖丁は婆さんが主人と喧嘩をして使つたように見せかけた。あの薪割や庖丁には婆さんの指紋が出ると思う。私は最後に婆さんを吊した台の上の新聞紙の屑を取つて惣兵衛の枕元の血をつけて私が最初庖丁を出した引出に持つて行き血を庖丁につけて置いた」と述べ、その後多少の変化を示しながら大体この供述を維持しているのである(検一回三冊六二九丁、検事検証調書二冊三三三丁三六〇丁・原審検証調書一冊三六丁以下・二審宛上申書六冊一一二三丁・最高裁宛上申書上告審一冊二一一一丁・当審証言一三冊三七五七丁以下)。右の各供述にヒサを鴨居に吊り下げた点に関する吉岡の全供述を綜合し、且つこれに警察検証調書(二冊二八二丁以下、同調書によると、吉岡が供述している前掲偽装工作に照応する痕跡が残されていた旨の記載がある)を参照すると、ヒサを鴨居に吊り下げた後、何人かが惣兵衛の死体のあつた部屋に火鉢の灰を撒き散らし、惣兵衛の血をヒサの手及び足裏、ロープ、斧並びに庖丁の柄等に着け、且つヒサの手に斧、庖丁を握らせた上庖丁は同女の足下に落し、斧は寝室寄りの襖付近に置いたことを推認することができ、同時に右のような行為をなしたのは、ヒサが惣兵衛と夫婦喧嘩をなし、斧等で惣兵衛を殺害した上、鴨居で縊死したように偽装し犯跡を隠蔽するためであることを認め得る。しかるに、被告人等の全供述を精査してみても、被告人阿藤、稲田が単にヒサを鴨居に吊り下げた旨のみを自供し、且つ被告人久永が警察二回調書(四冊八九二丁以下)で「吉岡が、ばあさんがどうも生き戻るようなから吊り下げようぢやあないか、と云つたので……鴨居に吊るした。出る時稲田が奥の寝室にあつた火鉢の灰をまいた」、被告人松崎が同三回調書(四冊八四二丁)で「ばあさんはその間の出口に近い処え伏せて伸びて居り、一寸した時ばあさんが動いたから吉岡が『こんなげどうまだ生きておりやがる、ぢやんじゆ(久永のこと)綱を持つて来い』と云つたので……ばあさんを吊した」と恰も止めを刺すためにヒサを鴨居に吊り下げたかのような見当違い(ヒサが鴨居に吊り下げられるより前手で搾扼されたため既に死亡していたことは先に説明した。藤田千里鑑定書、二冊二六四丁以下参照)の供述をなしている外、ヒサを鴨居に吊り下げた右認定の動機についてはもとより、吉岡の前掲偽装工作に関する供述に照応するような供述は些かも発見できない。更に又、早川方部屋中連窓を何人かがバールでこじあけて侵入し、硝子窓の枠にその痕跡をとどめ、且つ炊事場と台所との間に戸締りされていた板戸の「落し錠」の所在を探ぐるため何人かが刃物の先で板戸を九回位突き刺してその傷跡を残した事実が認められること、右の各痕跡は吉岡の供述によつてはじめて発見されたもので、吉岡のみが以上の認定事実に照応する供述をなしており、各被告人がこれらの事実に関し、片言の供述をもなしていないことは総て既に説明した(第一章第四の六、八参照)とおりである。

若し被告人等が真に本件の凶行に加担したものであれば、それぞれ三、四回にわたる自白供述をなした際少くとも誰かが前記偽装工作、部屋中連窓の侵入口及びバール、板戸を刃物で九回位突き刺した事実等に関し、多少でもことの真相にふれる供述をしそうなものであるのに拘らず、このことがないのは、被告人等がこれらの事実を関知しなかつたためではないかと疑わせるに十分なものがある。

以上一及び二の1ないし5で論述したところを綜合すれば、被告人等の各自白供述は殆んど信憑力がないと断言しても敢て云い過ぎではないと思われる。

第二、被告人等の警察自白の任意性について

被告人等は警察自白を除き終始一貫して本件犯行を否認し、約八ヶ年の長きにわたり自己の無実を叫び続けて来ているのである。それではなぜ警察官に対し信憑力に疑問のある自白をしたのであろうか、この点について被告人等は一審以来軌を一にして拷問を訴えているのである。

一、拷問を受けたとする被告人等の供述

1、被告人阿藤は、原審公判(三冊四八七丁六九二丁七一〇丁七一四丁、四冊七四九丁七五四―五丁、五冊九八〇丁以下)、差戻前の二審で提出陳述した上申書(六冊一二六八丁以下)、上告趣意書(上告審一冊一七九四丁以下)及び当公廷(三六冊一四二七八丁以下、三九冊一五二七九丁以下、四六冊一八〇六四丁以下)で何れも拷問の事実を訴えているが、これらを綜合要約すれば「一月二九日午後六時頃熊毛地区署へ連行され、刑事室で五、六名の刑事が『白状せい』と云い『お前が白状しないのならこの躯に聞いてやる』と云つて、古田刑事が拳で数回私の頬を殴つた。すると近間刑事が足で腰の辺を蹴つた上私が白状しないので警棒で顔や首筋、膝等を殴つたので鼻血が出て服についた。そして夜中頃刑事部長により私の云う通りの第一回調書をとられたがこれが真実である。ところが側にいた刑事達がもう少しひどい目に合わせんと白状せぬと云つて、私を裏の道場へ連れて行き板の間に手錠のまま土下座させて警棒で殴り、古田刑事は革靴で膝を蹴り、近間刑事は線香の火で鼻、耳、首筋をあぶつたりした。又近間刑事は血のついたロープを私の首筋に巻きつけ、首吊りのようにして持ち上げた。私はこのような拷問と寒さのため翌三〇日の朝真実に反する自白をした。逮捕されてから二日目の朝警察署へ判事さんや、検事さんが来て調べを受けた時、足や腕の腫れ上つているところや、手錠の傷跡を見せて、拷問のため心にもなく自白したことを訴えた。判・検事さんが帰つてから二階の司法主任室で三好主任は、何故嘘を云つたと怒り、軍靴を改造したスリツパで私の顔を数回殴つた。その時も鼻血が出た。夜遅くまでかかつて調書を作成された。留置場には一晩寝たきりで、二月二日午後から夜明けにかけて河野部長にひどく怒られながら取り調べを受け四回調書が出来上り、三日朝岩国へ廻された」というのである。

2、被告人稲田は、原審公判(三冊四八七丁六八九丁、四冊七五五丁、五冊九九一丁)、前同上申書(六冊一二九〇丁以下)、上告趣意書(上告審一冊一五九八丁以下)、及び当公廷(三二冊一二五五四丁以下、三九冊一五二九〇丁以下)で各拷問の事実を訴えているが、これらを綜合要約すれば「私は一月二八日午後八時頃松崎と二人で警察へ行つた。二階の取調室に入れられ近間刑事が、お前は此処へ何で来たか、と聞くので、判らんと、答えると、同刑事が『とぼけるなお前は吉岡と一緒に早川へ行つたんだろう』、と云うので、呼び出された理由がはじめて判つた。私は覚えがないと云うと、腰から足にかけて殴つたり蹴つたりした。此の様な暴行が二八日夜から二九日朝にかけて一寸間を置いては何度となく繰り返された。その夜は一睡もしていない。そして二九日朝近間刑事に事件前後の私の行動を述べたところ、同刑事は真否を確かめに出かけたが私は椅子に腰かけたまま巡査の見張を受けた。午後近くになり、近間刑事から拳で顔面を殴られ、足で腰、足等を蹴られた。或る時はロープで首をしめられたりしたので、これ以上やられたらどんな事になるかと恐怖を感じ、同時に昨夜から一睡もせず苛酷な取り調べに堪えることができず心にもない自白をした。その時は大体新聞記事の通り云つたように思う。その後日は覚えぬが警察で検事さんの調べを受けた時、全く身に覚えはないと真実を訴えた。検事さんが帰つた後、古田刑事から拳で顔面を殴りつけられたり、足で蹴られる等全く酷い暴行を受けた。私には身に覚えのない事ですから、云う事が皆違うのです。そこで古田刑事が此処ではこんな事をしたのだろうと云うので、それに同意して下書が作られ、刑事部長の所で調書をとられた。一月三一日の夜はじめて留置場へ入れられて寝た。二月一日だつたと思うが署長室で判事さんの調べを受けたので、身に覚えがないと真実を述べ、顔の腫れ上つているところを示して訴えた。判事さんが帰られてからまた嘘を云つていると云うて暴行を受けた。二月二日夜八時頃二階の司法主任室で古田刑事から拳で頭、顔等を殴られ続いて足で腰や足を蹴られた。このような取り調べが続けられ二月三日朝六時頃調書をとられた」というのである。

3、被告人松崎は、原審公判(三冊四八七丁六九〇丁、四冊七四八丁七五五丁、五冊九七〇丁以下)、前同上申書(六冊一三〇二丁以下)、上告趣意書(上告審一冊一八四四丁)、及び当公廷(三四冊一三四八二丁以下、三六冊一四一六四丁以下、三九冊一五三〇〇丁以下)で各拷問の事実を訴えているが、これらを綜合要約すれば「私は一月二八日午後八時半頃警察へ行つた。大火鉢のある部屋で五島刑事にスリツパで殴られた。三好主任は、吉岡は全部自白している、と云つてそこで数回殴られた。それから裏の道場へ連れて行かれ、『ここは石の地蔵様でもものを云うところだ』と云つて殴る蹴るの暴行を受けた。そこで三時間位調べを受け署長室で夜明まで責め通しで調べを受けた。一月二九日の朝から刑事室で調べを受けたが、腰、背を無茶苦茶に殴られたり蹴られたりした。又警棒で数回殴られ、片手錠で何度も床の上に投げられその後は私の手を後に廻し吊し上げた。更に刑事は四方八方から踏む等の拷問を加えた。そのため嘘の自白をした。一月三〇日から二月三日の夜明まで『お前は自白して居りながら何故本当の事が云えないのか』というて殴られ苛酷な取り調べを受けた。日は覚えないが検事さん判事さんの調べを受けたので、本当の事を申上げたところ、後で刑事が鬼の様な顔をして蹴つたり殴つたりした。警察に居る間に一晩寝ただけで殆んど寝ずに調べられた」というのである。

4、被告人久永は、原審公判(三冊四八七丁、四冊七六〇丁、五冊九八七丁以下)上告趣意書(上告審一冊一八一二丁以下)、及び当公廷(三六冊一四二二六丁以下、三九冊一五三〇五丁以下)で何れも拷問の事実を訴えているが、これらを綜合要約すれば「一月二八日午後八時頃から夜明まで警察の無電室で吉岡刑事の取り調べを受けた。二九日午前から午後にかけて富山刑事に調べられその際乱暴を受けた。直接調書をとつた島谷警部補は別段拷問などしなかつたが、富山、近間両刑事は私を後手にし、手錠をかけたり、背中に両手を廻して手錠をかけたり、更にその上をロープで縛つたりして、自由がきかないようにしておいて、警棒で殴つたり、足蹴にしたり、又は投げ飛ばしたり残酷な事をした。富山刑事の暴行で手首に手錠のため負傷をした。又着ていたジヤンパーも破れた。ジヤンパーが破れたのは一月三〇日か三一日である。警察にいる間は殆んど寝ていない。夜通しで一日に三、四回調べを受けた」というのである。

二、拷問に関する証拠

凡そ、警察における被疑者の取り調べは、法廷の審理と異り、第三者の立会なく密行されるものであるから、拷問に類する無理な取り調べが行われたとしても、これを見聞している第三者がいることは通常期待できない。従つて被疑者が後に刑事被告人として警察官の拷問を訴えても、これを否定する当該取調官の証言と水掛論に終る可能性が多く、拷問の立証は困難を極めるのである。

そこで原審記録を調査してみると、原審第一回公判(一冊一四丁)において、被告人等の弁護人丸茂忍は、阿藤が警官に暴行を受けて出血した事実を立証するため、阿藤の上衣に付着している血痕が同人の血痕であることの鑑定を求め、その後第七回公判(三冊七一六丁)で、被告人等が拷問を受けた事実を立証するため、佐藤一夫、吉岡隆夫、近間忠男、富山義敬、古田英雄の各証人尋問を求め、更に第八回公判(四冊七三五丁)で、被告人久永が暴行を受けてジヤンパーが破損した事実を立証するため、証拠物としてジヤンパー(証第三一号)、証人として布重一雄の各証拠申請をなし、一方検察官は拷問の事実と表裏の関係をなす各被告人の警察自白調書の任意性を立証する立場から、第六回公判(三冊四九五丁)で、証人として、三好等、松永章、嶋谷勤、松本正寅、秋本繁、河野映看、五島義重の喚問請求をなし、以上の各証拠申請は、阿藤の着衣に関する血痕鑑定を全部採用されて、それぞれ証拠調べがなされていることが明らかである。以上の経過だけをみても、拷問の有無が主要な争点となり、数多くの証拠調べがなされたことを知り得るのである。前記証人中佐藤一夫を除くその余の者は総て警察官で、しかも被告人等の看視に当つた布重一雄を除くと、何れも被告人等を直接取り調べた捜査担当者ばかりである。そして同証人等の供述記載を調査してみると、佐藤一夫、布重一雄両名を除くその余の証人は一様に、暴行の事実、或は不当な取り調べを、積極的に或は消極的に否定しているのである。

なお佐藤一夫は「昭和二六年五月頃刑事事件で熊毛地区署に留置され、犯行を否認したところ、吉岡、近間、奥田外一名の刑事に柔道の手で投げられたりしてひどい目にあつた。共犯の高野、外村も殴られた」(四冊七三九丁以下)と証言し、布重一雄は「昭和二六年一月三一日頃から二、三日間本署へ応援に出かけ、留置場の監視をしていたことがある。その間に久永が服を着替え度いから届けてほしいと言うので上司に報告し、久永の家族に連絡し着替えさしたことがある」(五冊九二九丁以下)と証言している。以上の証拠調べの上原判決は、任意性の点について、各被告人及び吉岡の供述が互にくい違つていて、このことは吉岡が法廷で「阿藤が万一警察で取り調べを受ける際には関係のない者を一人入れておいて、てれんぽれんとつじつまの合わぬ供述をしておけば裁判の際ひつくり返えせると言うた」と供述しているのと符合しており、各調書の記載内容を検討してみても任意性がないとは言えない。のみならず被告人等と同時に共犯の容疑で逮捕された上田節夫が終始犯行を否認したのに拘らず暴行や強制を受けることなく釈放された事実に照しても、任意性を失わせるような暴行があつたとは認められないと判示してこの点に関する弁護人の主張を排斥しているのである。しかしながら、上田節夫が釈放されたのは幸にも第三者である福屋ユキのアリバイ供述があつたためであるから、同人に対し苛酷な取り調べがなされなかつたことを理由にして、被告人等に対し取調上上田同様の処遇がなされたものと推論することはできない。更に、吉岡及び被告人等四名の供述が相互にくい違つていることは、後段で説明するように、基本となるべき吉岡自身の供述が変転したことと、取調官の尋問方法特に誘導の方法程度、巧拙等の個人差その他の条件がからみ合つた結果生じたものと推測されるのであるから、右事情は拷問を否定し任意性を肯定する根拠となすに足らない。

そこで原審で取り調べた証拠によつて、改めてこの点について検討をなすことにする。前記証人布重一雄の証言、当審証人丸茂忍(四〇冊一五五四三丁以下)同久永サイ子(二七冊九九三〇丁以下、三一冊一一九一〇丁以下)の各証言、昭和二六年一月二九日平生署において係官が撮影した被疑者久永の写真(三一冊一一九三二丁裏)及び証第三一号上服(これは左袖つけ根から前身頃にかけ長さ約三〇糎にわたり不自然に裂け、又右袖口付近及び右袖のつけ根腋下並びに袖裏等が不自然に破れている)を綜合すれば、被告人久永は一月二八日平生警察署に出頭し、同署に留置されている間に着用していた上衣(証第三一号)が何等かの原因により、右に記述したように破損したので、二月三日岩国の少年刑務所へ廻されるより前に、監視に当つていた布重一雄に依頼し、右上衣を宅下げした事実を認めることができる。この事実に被告人久永の前掲供述を参照すると、同人の供述するとおり拷問があつたとは認め難いにしても、少くとも刑事の取調過程において上衣が破損したと言う事実は否定し得ないように思われる。

次に前出証人丸茂忍及び当審証人金玉炫(三八冊一四八三〇丁以下)の各証言によれば、被告人阿藤は勾留されていた岩国少年刑務所で、担当弁護人丸茂忍に当初面会した時、拷問の事実を訴え、且つそのため鼻血が出て着用していた上衣に血がついたことを告げて現物を示したこと、同弁護人は阿藤より示された上衣に付着しているものが血痕であると判断し、原審第一回公判で、右上着に付着している血痕が被告人阿藤のものであることの鑑定を請求したが採用されなかつたものであること、及び被告人阿藤は、その頃同房者金玉炫にも右と略同様のことを告げた事実があることを各認め得る。以上の事実に被告人阿藤の前掲供述を綜合すると、被告人阿藤が警官より取り調べを受ける過程において鼻血を出して、それが着用していた上着に付着したものと推定せざるを得ない。

以上説示した事柄に当審証人笹木春一(四五冊一七六八四丁)同丸茂忍(前出)の各証言、原審証人佐藤一夫の前掲証言を綜合し、更に被告人等の前記各供述、及びこれらの供述と勾留関係記録(七丁以下)とによつて認められる、各被告人が一度犯行を自白しながら、一月三〇日平生署において、検事の取り調べ及び裁判官の勾留尋問を受けた際、期せずして一様に犯行を否認し冤罪を訴えている事実、並びに前項一で説明したように、各被告人が本件のような重大事犯に関して、しかも関係証拠に牴触すると推測される事柄についても敢て自己に不利益を供述なしている事実を参照して考察すれば、被告人等が強調するとおり拷問があつたとは認め難いにしても、自白調書作成前の刑事等による下調べ段階において、犯行を否認する被告人等に対し何等かの暴行をなし、或は夜間程度を越えて尋問を継続し睡眠不足に陥らしめる等、有形無形の圧力を加え、これによつて被告人等をして心にもなく犯行を自白させた疑いが濃厚である。しかしながら、前項第一で記述したように、被告人等の自白供述は共同犯行を認めてはいるものの個々の具体的事実に関しては区々まちまちで統一を欠ぎ、吉岡の供述とも牴触する部分が数多く散見されるから、自供調書を作成した担当警察官が自己の推理或は吉岡の自白内容を総て強引に押しつけたと見ることはできない。さればと言つて、被告人等が自発的に各自白調書記載のような供述をなしたものと認め難いことは既に述べたとおりである。それではなぜ右のような結果が現われたのであろうか。この点について被告人等は前掲拷問に関する供述に付加し、一様に取調官によつて強制ないし誘導尋問がなされた旨供述しているのである(阿藤について、六冊一二六九丁、上告審一冊一八〇〇丁、三六冊一四二七六丁以下・稲田について六冊一二九一丁、上告審一冊一六〇二―三丁、三二冊一二五六二丁以下・松崎について、上告審一冊一八四七―八丁、三六冊一四一六四丁以下・久永について、上告審一冊一八一一―二丁一八一六丁、三六冊一四二四八丁以下)。被告人松崎が述べているところを引用してみると、同被告人は「(前略)この強制拷問により力弱い私は気も狂わんばかりになり、この悪鬼の様な取り調べに対し残念ながら自分の真実を曲げて刑事の言う通り嘘の自白を致しました。しかしこの事件に関係のない私はいか様に申してよいか分りません。只刑事の下調べの誘導に乗り自白調書が作成されたのです。刑事は吉岡が申している供述の幾分か私にヒントを与えてくれるのです。一例をあげると、早川家に行つた際に横に何か木があつたろう、そこにお前集つたのではないかと聞くのです。私は刑事の言うままに、ハイ、と答えると、その木は何の木かと聞くのです。私は全然この事件に関係がないので何の木であつたか分りませんが、多分家の傍らには柿の木があるものだと想像してその様に言うと刑事は柿の木かと何度も聞きますので、私は違つたのかなと思い、ミカンの木であります、と言い変えるのです。このように全部誘導により自白調書を作成されたのであります。」(以上一八四七―八丁)「私は当時早川方の家の構造等を全然知らなかつた。それで刑事が家の前に何か建つてあつたろうがと聞いても答えられなかつた。玄関はどんな玄関かと聞かれたので、桟が沢山あり、ガラスの入つた玄関であつた、と想像して言うたら、刑事はにやつと笑つていた。又行く時どこでかがんだかと問うのですが、私は実際行つていないためわからなつた。すると刑事が木があつたろうが、と言うので私は、あつた、と答えると、更に何の木かと尋ねるので柿の木だと答えると、柿の木か柿の木かと何度も聞き返すので、柿の木でなかつたことがわかり、蜜柑の木と答えた。実際にあつたかどうか知らないが、そんなことで供述を合わすようにした。再々の下調べで吉岡の言うていることが大体わかつたので吉岡の供述に合わそう合わそうと思つて一生懸命であつた」(以上一四一六五―七丁)と述べており、又被告人久永の上告趣意書によれば「然しながら吉岡晃を除く他の共犯と見なされている容疑者には物的証拠もきめ手もなく、口を封じて語らず捜査取調べに難渋し容疑者の留置時間は刻々と迫り、取り調べに当つた係官は遂に疑問を持ちはじめ、事件の核心にふれず進退に窮し迷宮入りの状態と化した。そこで松永警部は吉岡晃の供述調書を基礎にその出鱈目の自供の裏付けの形式で容疑者の中、稲田には、四囲の状況、八海橋集合及び解散の模様を、松崎には、交友関係及び作業場における各人の動勢等を、阿藤には現場に侵入及び引揚げの模様を、私には、現場における各人の犯行持場及び行動等を吉岡の出鱈目な自供と捜査官の推理を中心に暗示的誘導尋問で、怒鳴り殴打し蹴り等して被告人が屈服して苦し紛れに承認する如くし、偽りの供述調書を作成した(以上一八一一―二丁)。私は馬鹿者でありました。島谷警部補の紳士的(今から思うと偽紳士)取扱いや態度に心酔して、同取調官の言葉は絶対的のものであると信じていましたので、同警部補が他の被告人は全部犯罪事実を認めて自供している。君も今自供すれば直接手をかけたのではなく、只ロープを探したと言うだけだから罪にならないから言え、言つたからと言つて悪い様にはしない、十分な考慮して調書を作成してやる、と言われ、本当に罪にもならず帰れるものと思い『ああであろう』『こうであろう』と尋ねられる事に、私は同警部補の言葉を信じて同人の言う様にして置けば間違いないと思い込んで、成り行きにまかせていました。何分にも顔のかつこうが変り起きているのか眠つているのか解らぬ程疲労しているので面倒くさく『ハイ』『左様であります』と申上げたのを、か様な供述調書に作成されて私の記名捺印を求めたのであります。」(以上一八一六丁)旨の記載があり、更に被告人阿藤、稲田の両名は、被告人松崎、久永の右供述に比較すると、より一層強力な強制ないし誘導尋問が行われた旨を訴えている。これらの供述ないしその記載を、前段で記述した事情に照し合わせると、各被告人が共同犯行を一応自白するまでの段階においては一様に強力な圧力が加えられ、その後の個々の具体的事実に関する取調方法(特に誘導の方法、程度、巧拙等)については担当係官の如何によつて個人差があつたものと推測できる。次に被告人等の各自白調書と吉岡の警察調書とを比較検討してみると、被告人等の供述は相互に矛盾し且つ吉岡の供述にも牴触するとはいえ、その根幹となる荒筋においては、吉岡の供述に追随したと推測される形跡が顕著であり、一方において吉岡が警察では秘匿し、検察官に対し或は原審ではじめて自供した事実、例えば三木停留所の謀議、バールで中連窓をこじあけた事実、炊事場と台所との間の板戸を刃物で突き刺した事実等については、被告人等四名の各自白調書に片言の供述記載をも発見できないのである。以上記述したところを綜合すれば、被告人等の自白供述が変転し且つ相互にくい違い、又一方において吉岡の警察供述とも牴触することは、基本となる吉岡の供述それ自体が変転したことと、係官の取調方法特に圧力のかけ具合及び誘導の程度、巧拙に関する個人差、被告人等のこれに対する応接の態度ないし性格の強弱等がからみあつた結果生じた現象と推測することができる。

そして被告人等の各自白調書が下調べ担当者とは別異な係官によつて調査作成されたものであることは、被告人等の供述によつてもこれを知るに十分であるが、同時に又該調書作成者による取り調べが、刑事等による前掲不当な下調べと殆んど時を接してなされたものであることも証拠上否定し得ないところであるから、このような条件下に作成された被告人等の各自白調書はその任意性について疑問なきを得ない。

第三章  物的証拠及びその他の証拠の検討

第一章において吉岡の供述、第二章において各被告人の警察自白をそれぞれ検討したので、本章においては原審で取り調べたその余の証拠及びこれらの証拠によつて認められる犯行現場の客観的状況等について考察してみることにする。

第一、物的証拠及びこれに直接関連する書証

原判決は証拠物として、(1)長斧一挺(証第四号)(2)庖丁一挺(証第五号)(3)切れ紐一本(証第六号)(4)細引一本(証第七号)(5)紙片(証第八号)(6)鍵一個(証第九号)(7)懐中電灯一個(証第三号)(8)三合瓶一個(証第一号)(9)ジヤンパー一着(証第三二号)(10)二合瓶一個(証第二号)(11)ズボン一着(証第二四号)(12)浴衣一枚(証第二五号)(13)占領軍払下下衣一着(証第一八号)(14)国防色ズボン一着(証第一九号)(15)黒色ズボン一着(証第二〇号)(16)日本手拭一枚(証第二六号の一)(17)西洋手拭二枚(証第二六号の二)(18)雑巾二枚(証第二七号)(19)請求書一枚(証第二八号)(20)バール一本(証第三〇号)(21)一〇円札五枚(証第一四号)(22)一〇円札一〇枚(証第一七号)(23)一〇円札一枚(証第二一号)(24)一〇円札五枚(証第二二号)(25)一〇円札七枚(証第二三号)(26)一〇〇〇円札一枚(証第一六号)(27)五円硬貨二七枚(証第一五号)を挙示しているが、右のうち(6)の鍵は吉岡が早川方の箪笥の引出を開けるのに使用したもの(7)の懐中電灯は吉岡が当夜早川方へ携行して犯行に際し使用したもの、(8)の三合瓶は吉岡が当日夕方新庄藤一方で焼酎約二合と共に借り受け早川方へ携行し同家炊事場の棚にあつた(10)の二合瓶に焼酎を入れ換えて棚に置いたもの、(10)の二合瓶は右のように早川家炊事場の棚にあつたもので、これに焼酎を入れ換えた後炊事場北出入口付近に遺留し、しかも自己の左手中指の指紋を残していたもの、(9)のジヤンバーは吉岡が犯行当時着用していたもので、惣兵衛の血液と認められるもの及び床下をもぐつた時ついたと認められる蜘蛛の巣がそれぞれ付着していたもの、(21)の一〇円札五枚は吉岡が早川方で奪取した一〇円札の一部で自動車賃として中本イチに支払つたもの、(22)の一〇円札一〇枚及び(27)の五円硬貨二七枚は吉岡が犯行後柳井町の寿楼に登楼し遊興費等として奪取金員中より同家女中に支払つたものの一部であり、(26)の一〇〇〇円札一枚は吉岡が奪取金員の使い残りとして逮捕当時所持していたもの、であることは本件の関係証拠に照し総て明白である。従つてこれらの証拠物は吉岡固有のもので、被告人等の共同犯行を裏付ける資料としては何等の価値を有しない。又(25)の一〇円札七枚は犯行後被害者方箪笥の中で発見されたものであることも記録上明白であるから、これも亦被告人等の罪証としての価値なく((23)の一〇円札一枚及び(24)の一〇円札五枚との関連における証拠価値については、後に前記(21)(22)の各一〇円札と共に論証する)、(5)の紙片一枚は早川方板の間上り口付近で発見され、血液の付着していたもの(警察検証調書、二冊二八四丁)、(2)の庖丁は柄に血液が付着したままヒサの足許に放置されていたもの(同調書二八五丁)で、吉岡の関係供述と右検証調書の記載とを綜合すれば、同紙片は夫婦喧嘩のように擬装するため惣兵衛の血液をヒサの手、足或は庖丁の柄等につけるのに使用したものと推定され、又庖丁は同様の目的でその柄に惣兵衛の血液をつけた上、鴨居に吊り下げたヒサの手に握らせたがその足下に落ちたものと推測されるのである。

次に(20)のバールは早川方部屋中連窓をこじあけるのに使用したものと推定される(吉岡検八回、三冊六六三丁、原審検証調書一冊三二丁、四二丁、警察実況見分書、五冊九三五丁、原審証人中山宇一証言、五冊九四三丁)のであるが、以上の紙片、庖丁、バールに関しては独り吉岡のみが、被告人等もこれらの物に関係があるかのように供述しているのである。従つて右物件の被告人等に対する罪証としての証拠価値は専ら吉岡供述の信憑力如何にかかつているものというべきところ、この点に関する同人の供述が容易に信用し難いものであることは既に詳細論証した(第一章第四の五、六、八参照)とおりであるから、右物件は被告人等の罪証として殆んど証拠価値を有しないものといわなければならない。更に(16)ないし(19)の日本手拭、西洋手拭、雑巾、請求書及び手袋片手分二枚(証第一一、一二号)は、何れも吉岡の供述に基いて捜索した結果押収されたものであること、ならびにこれらの物件が被告人等の罪証として証拠価値のないものであることは先に詳論した、(第一章、第四の九参照)とおりであるから重ねて述べない。次に(1)の長斧は惣兵衛を殴打するのに使用した凶器、(4)の細引はヒサを鴨居に吊り下げるのに使用していたものであることは証拠上疑を容れないところであり、(3)の切れ紐は後に記述するように鴨居に結びつけられていたもので、ヒサの死体を吊り上げる支柱として使用されたものと推定されるのであるが、右の各物件は何れも早川方のもので、物自体には被告人等がこれらに関係のあつたことを窺わせる毫末の痕跡もないのであるから、帰するところ、以上物件に関する吉岡及び被告人等の供述の信憑力如何がその証拠価値を決定するものと言うことができる。この意味においてこれらの物件は少くも被告人等に対する関係においては証拠物としての固有の証拠価値を見出し得ない。そして被告人等の自白供述は任意性に疑問があるのみでなく、その供述内容は信用し難いものであること及び吉岡の共同犯行を前提とする供述が容易に信用し難い所以も既に詳論したとおりであるから、前記各物件は被告人等の罪証として殆んど無価値なものといわなければならない。結局残された(11)ないし(15)のズボン(証第二四号)浴衣(証第二五号)、占領軍払下下衣(証第一八号)、国防色ズボン(証第一九号)、黒色ズボン(証第二〇号)、(23)の一〇円札一枚(証第二一号)、(24)の一〇円札五枚(証第二二号)が被告人等に固有の証拠物と解されるのであるが、右ズボン(証第二四号)及び浴衣(証第二五号)は被告人阿藤のもので、同人が一月二八日内妻木下六子と共に三田尻へ赴く際当時居住していた上田節夫方に残していたものを、同月三一日上田が警察官に任意提出して領置されたもの、占領軍払下下衣(証第一八号)及び一〇円札五枚(証第二二号)は、同月三〇日警察官が被告人久永方を捜索して上衣、靴下と共に一括して差押えたもの、又国防色ズボン(証第一九号)黒色ズボン(証第二〇号)は同日前同様の手続を経て被告人松崎方で上衣、靴下、手袋、一〇〇〇円札と共に一括差押えたもの、更に一〇円札一枚(証第二一号)は一月二九日平生警察署において木下六子がその所持金の中から任意提出して領置されたものであることは総て記録上明白である。そこでこれらの物件が原判決に証拠として引用されている理由を記録によつて検討してみると、原判決引用の上野敏典作成に係る物品検査回答書(二冊四〇〇丁以下)によれば前記の各衣類及び阿藤、稲田、松崎の手及び足の爪に血痕の付着を認めた旨の記載があるので、右衣類に付着した血痕が本件の犯罪に関係ありと判断したものと解され、又前記の各一〇円札と、吉岡が早川方で奪取し中本イチ或は寿楼に支払つた前示各一〇円札(証第一四号の五枚、証第一七号の一〇枚)及び早川方箪笥の引出に残存していた一〇円札七枚(証第二三号)とを比較対照してみれば、右の各一〇円札は総てその記号番号が一一一三二二で、しかも何れも新札に近いものであることが認められる。従つて木下の提出した一〇円札一枚、久永方で押収した一〇円札五枚は被告人阿藤、同久永等が早川方で奪取したものの一部であると推測したものと解される。そこで、以下被告人阿藤、同松崎、同久永の前記着衣、上野敏典の物品検査回答書、及び右の各一〇円札について順次検討を加えることにする。

一、被告人等の着衣

被告人阿藤、同松崎、同久永等の前示着衣(証第二四、二五、一八、一九、二〇号)を罪証に供するには、先ず本件凶行のあつた一月二四日夜同人等がこれらのズボン、浴衣等を着用していたことを確定しなければならないことは言うをまたないところである。しかるに、記録を精査してみても、同被告人等及び吉岡に対し右の事実を確かめた旨の記載が見当らない。そこで、同人等及び関係者が、被告人等の当夜の服装について供述しているところを摘記してみると、被告人阿藤は、原審第一〇回公判で「当夜国防色のジヤンパーに茶色のオーバーを着ていた」旨供述しており(五冊九八二丁)、被告人久永は、警察二回調書(四冊八九四丁)で、「その晩私は占領軍の雨合羽のような生地の上衣、黒のニツカーズボンを着ていたが、これらは現在も全部家にあります、阿藤はねずみ色のジヤンパーに茶色のオーバー、ホームスパンの古ズボン、松崎は海上保安官が着るコートのようなものを着て、毛糸のシヤツ、黄色のナツパズボンをはいていた」原審第一〇回公判で「二四日中野方へ行く時の服装は黒いズボンに此処に出て居る服を着ていた」(五冊九八七丁)と各供述しており、被告人松崎は、警察一回調書(四冊八二一丁)で「私は阿藤の女達が帰ると直ぐ歩いて八海橋の処へ行つたがその時現在着て居ります服装で只上着だけが現在のこの上衣でなく海軍士官の詰えりの服を着て居りました」、同二回調書(四冊八三五丁)で「阿藤は木綿カーキ色のジヤンパー、久永は進駐軍払下のジヤンパーを着ていた」原審第一〇回公判で「その日私はニツカーをはき、上服を着てマフラーを巻いていた、阿藤、久永等は仕事服であつたが、どんな服か判らん」(五冊九六三丁)とそれぞれ供述し、最後に被告人稲田は警察三回調書(四冊八七八丁)で「阿藤は国防色の作業ズボンにジヤンパー、久永はニツカーズボンに進駐軍上衣、松崎は船乗りの着るような黒上衣に作業ズボンを着けていた」と供述しているのである。(この供述は同日田名海岸等で目撃していた服装を想起して述べたものと考えられる)。なお原審証人木下六子は「一月二四日の晩阿藤はオーバーをひつかけて居た」(二冊三九〇丁)と証言しており、次に吉岡は原審第五回公判で「阿藤は白い鳥打帽に黒いオーバーを着ていたように思うが、他の者の服装は記憶していない」(二冊四七二丁)と述べているが、同人の警察員、検事に対する各調書を精査してみても、被告人等の着衣に関する供述部分は少しも見当らない。吉岡が五人共犯を自供し始めた頃何等の示唆をも与えないで同人に被告人等の当夜の着衣について任意な自供を求め、これと被告人等の現実の着衣が一致するか否かを確かめたならば、五人共犯自白の真偽を知る有力な資料を得たであろうと考えられるのに拘らず、このような試みがなされた形跡が些かもないことはまことに遺憾である。しかも阿藤が黒いオーバーを着用していた旨の右供述は後記のように事実に反し、又吉岡がその余の被告人等の服装を原審の公判当時全然記憶していないということも不可解なことといわねばならぬ。吉岡の供述を除く以上の各供述に警察捜索差押調書(三冊五〇一丁以下五〇五丁以下・三八冊一五一三七丁以下・三九冊一五三一五丁以下)、証第一八号のズボン(稍黒みがかつた草色の普通ズボン)証第二四号のズボン(カーキ色の汚損した作業ズボン)及び当審で押収した国防色作業衣上衣(証第一五一号)茶色オーバー(証第一五四号)を綜合して考察すれば、被告人阿藤は右の国防色作業上衣(証第一五一号)、茶色オーバー(証第一五四号)及び証第二四号の作業ズボンを着用していたもの、被告人久永は証第一八号のズボンと進駐軍の着衣に類する上衣を着用していたもの、又被告人松崎は船員様上衣を着用していたものと認めることができる。しかしながら、被告人阿藤が同日夕方中野末広方へ赴く際浴衣を着用していたと認むべき証拠は信用に値しない(その詳細は後に論証する)当審証人木下六子の第六四、六五回公判における証言を除いては何等の資料がないのであり、一月二四日の厳寒に浴衣を着用して外出することは凡そ想像されない異常の事柄であるから、そのような事実はなかつたものと推測するのが相当である。木下六子が証言するように阿藤が上衣或はオーバーの下側に浴衣を着用していたものと仮定し、更に同被告人が早川惣兵衛を斧で殴打しその返り血を浴びたものとすれば、返り血は浴衣に付着するより前に、しかもより多く前記オーバー(証第一五四号)及び上衣(証第一五一号)に付着するのが理の当然であるところ、右のオーバー及び上衣は事件直後である一月三〇日押収されているのに拘らず、これらの着衣について当時血痕付着の有無を検査したと推測されるような形跡は記録上毫も認められないのみでなく、原審においては証拠として提出されていないのである。ところが、当審の最終段階である昭和三三年一一月一五日に至り、突如として検察官より他の物件と一括して右着衣に血痕が付着しているか否かについて鑑定の申請がなされ(四〇冊一五八五四丁以下)その疎明資料として沢井正明の鑑定書(一五八五八丁)が添付提出されたのである。これはもとより適法な証拠ではないが、同書面によつても、血痕予備検査の結果、オーバーの右袖裏と上衣右袖外側面にそれぞれ粟粒大以下の弱陽性を呈する部分があつたと云うに過ぎないのであり、更に現物について右衣類を仔細に観察してみても血痕が付着しているとは到底認められない。してみれば、浴衣は以上何れの観点からしても被告人阿藤の罪証として適切でない。次に国防色ズボン(証第一九号)及び黒色ズボン(証第二〇号)は被告人松崎の逮捕後である一月三〇日同人方で一括押収されたものであることは既に述べたところであるが、当審証人松崎ツヤの証言(二八冊一〇六六一丁以下)及び被告人松崎の当公廷における供述(三六冊一四三五三丁以下)によれば、右の黒色ズボン(同第二〇号)は被告人松崎の弟弘康のもので、同人が当時常用していたものであることを認め得るから、同被告人の罪証としては何等の価値がないものといわなければならない。更に被告人松崎が警察一回調書で「当夜は現在(逮捕当時)はいているズボンを着用していた」と述べ、原審第一〇回公判で「ニツカーズボンをはいた」と供述していることは既に述べたところであり、同人が着衣について殊更虚構の事実を申述べたと見るべき根拠は些かもないから、右の供述は一応信用してよいものと思われる。しかも押収に係る前示国防色ズボン(証第一九号)がニツカーズボンでないことも明白であるからこの事実と松崎の右供述とを綜合すれば被告人松崎は事件当夜逮捕当時着用していたズボンをはいていたもの、換言すれば、証第一九号のズボンをはいていなかつたものと推測するのが相当である。

従つて、このズボンも亦同被告人の罪証としては適切でない。

二、上野敏典作成にかかる物品検査回答書

当審証人加藤(旧姓上野)敏典の証言(一四冊四五四五丁以下)、昭和二六年二月五日付熊毛地区警察署長より山口県鑑識課長宛の鑑定(検査)依頼についてと題する書面(一四冊四六二九丁以下)、上野敏典の物品検査回答書(二冊四〇〇丁以下)を綜合すれば、上野敏典は二月五日頃平生警察署において、同署長より被告人等の着衣並びに同人等の手及び足の爪に血痕が付着しているか否かについて検査の依頼を受けたので、その頃伊藤巡査と共に被告人等の手及び足の爪を切り取り、これを持ち帰つて検査をなし、同月二一日付書面で回答をなしたことを知り得るのである。次に右物品検査回答書の記載を要約すれば、一、阿藤周平のズボン及びゆかた(原審押収番号証第二四、第二五号)久永隆一の国防色ズボン(同第一八号)、松崎孝義のカーキ色ズボン(同第一九号)及び黒色ズボン(同第二〇号)に血痕の付着を認めたが、その血液型は微量のため判定できない、二、右血痕は検査物少量のため人、獣血の判定はできないが、三、被疑者四名の手及び足の瓜中被疑者稲田実、阿藤周平、松崎孝義三名の手及び足の爪に血痕の付着を認めたが、血液型は微量のため判定できない。備考、血痕検査はルミノール及びベンチヂン試験法によつたと言うのである。

しかしながら、右回答書の記載自体によつて判るように、爪及び着衣の血痕は、何時頃付着したものかその時期が不明であり、又爪についていえば、何人のどの爪についていたのか具体的記載がないのである。さればこそ最高裁判所の判決はこの欠点を指摘し、検査の方法と結果について検査者の正確な証言若くは報告等によつて右検査の結果が明確にされない限り、罪証としての証明力は甚だ乏しいものであると判示したのである。そこで当裁判所はこの点について審理をなした結果次の事実を知ることができた。

即ち右検査者である前記証人加藤敏典の証言によれば

1、前掲回答書の備考欄に血痕検査はルミアノール及びベンチヂン試験法によつたと記載しているが、それは誤りで、着衣についてはルミノール、爪についてはベンチヂンを用いて検査したに過ぎないものであること。

2、右両試薬によつて陽性反応を呈した部分を即座に血痕と判定したものであること。

3、爪及び着衣等について血痕と判定したものは、その対象が何れも極めて微量で、それが何時頃付着したものか新旧の識別ができなかつたものであること。

4、同回答書に稲田、阿藤、松崎三名の手及び足の爪に血痕の付着を認めた旨記載しているが、それは各人の手足の爪全部が陽性を呈したと云う意味ではなく、手及び足の爪の各一部が陽性反応を起したことを指称するものであり、なお右回答書の外現在記録がないため、前記三名のどの爪が陽性であつたか知る由もないこと。

5、検査者である同証人は、血液以外の物質でもルミノール、ベンチヂン試験の結果陽性反応を呈することがある事実を知りながら、後述する実性試験(本試験)の方法を知らなかつたものであること。

を認めることができ、なお当審証人藤田千里の証言(六回、一四冊四三九六丁以下)及び当審鑑定人上野正吉の鑑定書(三三冊一二六〇六丁以下)の記載を綜合すれば、血液以外の物質でもルミノール、ベンチヂン試験の結果陽性を呈することがあり、従つて適式な血痕検査においてはルミノール、ベンチヂンは予備検査に用い、この両試薬によつて陽性を呈したとしても、更に血痕実性試験をなし、その結果が陽性でない限り血痕と判定し難いものであることを首肯し得る。

以上の事実に照すと、前記回答書の記載は杜撰で到底そのまま信用し難いものであることが明らかである。そこで前示上野鑑定書中着衣の血痕検査の結果を摘記してみると、

1、証第二四号カーキ色ズボンには、右ポケツト後上方部に粟粒大及び米粒大の淡褐色の斑点があり、血痕予備試験は陽性であつたが、血痕実性試験は陰性で血痕なりや否や不明

2、証第二五号浴衣は背面肩当を中心として昆虫刺傷に由来すると見られる斑点があり、ベンチヂン反応陽性なり、左前面下部及び右後面に淡褐色粟粒大の数個の斑点があり、ルミノール、ベンチヂンの両反応又はその一方のみ陽性なるも、血痕実性反応は何れも陰性で血痕か否か決定できぬ。

3、証第一八号占領軍払下下衣及び証第一九号国防色ズボンは何れも予備試験陰性で血痕の付着を認めない。

4、証第二〇号黒色ズボンは左膝の部分に小豆大の斑点があり、ルミノール、ベンチヂンの予備試験陽性なるも、血痕実性反応は陰性で血痕か否か決定できぬ。

と記載されている。即ち、証第二四、第二五、第二〇号には何れも予備試験の結果陽性反応を呈する斑点部分があるが、実性試験の結果は陰性、従つて右陽性部分も血痕であるか否か不明であり、又証第一八、第一九号は共に予備試験の結果が既に陰性でもとより血痕の付着を認めないと結論されているのである。爪は現物が保存されていないため(前示加藤証言参照)遺憾ながら再鑑定をすることができないが、右鑑定の結果に徴すると、たとえ再鑑定をしたとしても略類似の結果が現われるのではないかと推測される。してみれば上野敏典作成の前記物品検査回答書の記載がそのまま採用できないことは明瞭であり、ルミノール、ベンチヂン試験の結果が或る程度の正確さを示すとしても、それはあくまでも可能性の問題であつて、況んや、爪、着衣等について血痕と判定した物質が何時頃付着したものか、新旧の識別すらできなかつた事情(着衣の押収後満七年余を経過した後になされた上野鑑定においても、証第二四、第二五、第二〇号についてはルミノール、ベンチヂン試験の結果が陽性であつた事実を考慮に容れなければならない)をも併せ考察すれば、同回答書の信憑力は何れの観点からするも極めて乏しいものといわなければならない。従つて同書面による裏付けがない限り証第一八ないし第二〇号、第二四、第二五号の着衣(証第二四、五号の着衣を洗濯したか否かの点については後に記述する)は殆んど証拠価値のないものであり、ましてや、証第一九、第二〇、第二五号のズボン又は浴衣は、被告人松崎、同阿藤等が当夜これを着用していたことの証明がないばかりでなく、却つてこれを着用していなかつたものと推測されること前記のとおりであるから論外である。

以上論証したように、前掲物品検査回答書及び被告人等の着衣は何れも有罪認定の資料として適切でない。

三、一〇円札

被告人久永方で押収した一〇円札五枚(証第二二号)、木下六子がその所持金の中から任意提出して領置された一〇円札一枚(証第二一号)と、被害者方箪笥の引出の中から発見された一〇円札七枚(証第二三号)、吉岡が早川方で奪取した金員中より中本イチ或は寿楼に支払つた一〇円札五枚(証第一四号)と一〇枚(証第一七号)が総て同番号でしかも新鮮度が略同様であることは先に述べたとおりである。しかしながら、当審鑑定人庭田敏道の鑑定書(四一冊一六二一四丁以下)によれば、早川方で発見された証二三号の一〇円札七枚と吉岡が使用した証第一四号の一〇円札五枚及び証第一七号の一〇円札一〇枚とは総てその最終印刷工程である印章記号印刷が同一版面で行われ、且つ同時に断截されたと見られる可能性が強いのに反し、木下提出に係る証第二一号の一〇円札一枚、久永方で押収した証第二二号の一〇円札一枚、久永方で押収した証第二二号の一〇円札五枚は右と異る版面で最終印刷がなされ、且つ別異の機会に断截されたものであり、この両者相互も別の版面で異る機会に印刷断截されたものであること、及び前三者(証第一四、一七二三号)と後二者(証第二一二二号)が同一の一〇〇枚札束として包装され流通することは通常あり得ないことを各認定できる。この事実に吉岡の各供述中金銭奪取に関する部分(第一章、第四の三参照)を綜合して考察すれば、前記証第一四号、第一七号、第二三号の各一〇円札は、早川方の箪笥の引出の中に同一札束として保管されていたものであることを知り得ると共に、証第二一号(木下)、第二二号(久永)の各一〇円札はそれぞれ別異の札束として流通していたものであることを推測できる。更に当審証人服部憲三の証言(二一冊七二六七丁、七二九一丁)によれば、右番号の一〇円札は印刷局小田原工場で印刷されたもので、昭和二五年一〇月一〇日以降同二六年一月一二日まで数回に分け合計五〇〇万枚日本銀行発券局に納入されたものであり、日銀広島支店より山口県下の取引銀行に対して送るには、一〇万枚送るのが普通であることが認められる。従つて本件の発生当時これと同番号の一〇円札が山口県下に相当多量に流通していたものと推測される。そうだとすれば、証第二一号の一〇円札一枚は木下ムツ子こと六子が警察調書(三冊五二一丁)及び当審第三三回公判(二八冊一〇三五二丁以下)で供述しているように、省線三田尻駅前で買物をして釣銭に貰つたものと推測するのが相当であり、又証第二二号の一〇円札五枚は、これが原審で問題になつた当初久永サイ子が丸茂弁護人に訴えたように、何等かの釣銭に貰つたもの(当審証人丸茂忍の証言、四〇冊一五五六二丁)と解するか、或は又同女が無尽掛金の支払をなし、その釣銭に貰つたもの(当審証人久永サイ子の証言、二七冊九九五二丁、三一冊一一八六九丁以下)と推測するのが相当である。してみれば、原判決の引用する前掲、証第二一、第二二号の各十円札は被告人等の罪証として無価値である。なお右の各一〇円札を除いては被告人等が奪取したとする金員についての物的証拠は何等存在しない。しかも被告人等が警察調書において自白している奪取金員の使途について毫も裏付けのないこと、及び被告人等がこれを別途に費消し或は隠匿したと認めるべき何等の証左もなく、むしろ被告人阿藤が本件犯罪の発生した頃より逮捕されるに至るまでの間極めて金銭に困窮していたと認められることは先に(第一章第一の三参照)述べたとおりである。

第二、原判決が共同犯行の根拠として挙示している客観的状況について

原判決にその理由の中において「被告人及び弁護人の主張に対する判断」として

一、早川方への侵入口と認められる場所が二個所あること

二、炊事場と台所との間の板戸に匁物で刺した跡があること

三、殺害が同時であると認められるのに殺害の方法が各々異ること

四、夫婦喧嘩の末ヒサが惣兵衛を殺したように擬装するため、ヒサの死体を鴨居に吊り下げ、惣兵衛の血をヒサにつける等手のこんだことをしているが、かようなことは吉岡一人では到底遂行できないと認められること

以上四つの理由を挙示して弁護人等の単独犯行の主張を排斥し共同犯行を理由づけているので、右の四点について順次検討してみるに、

一、前記一点について

本件の犯行当夜何人かが早川方部屋東側に付属する便所前(南側)の硝子戸を証第三〇号のバールでこじあけて同所より屋内に侵入したと推定されること、吉岡が犯行後同家母家階段下より床下へもぐり裏手の西側床下口より脱出したと認められることは何れも先に(第一章第四〇六参照)に記述したとおりであるが、右床下口より侵入した旨の吉岡の供述には幾多の疑問があり、むしろ関係証拠に照すと、前記床下口に脱出の際にのみ通過したものと推測するのが相当であることも既に(前同参照)詳論したとおりであるから、これが侵入口であることを前提とする原審の見解は採るを得ない。尤も吉岡が中連窓より侵入し床下口から脱出したものと解すれば、母家の床下内側より、釘の打ちつけてある板を外し、且つその外側に接して置いてある竹を押しのけて脱出することは不可能ではないかとの疑問が提起されるものと予想される。しかし、吉岡は警察四回調書(三冊五七五丁以下)及び金村上申書(一三冊四三〇六丁以下)において、吉岡自らが犯行後一旦炊事場北出入口から母家裏手に廻り、右床下口を出易いように工作し、再び屋内に入つて全部の戸締りをした上床下より脱出したことを暗示するような供述をなしているのである。これらの供述においては、床下口の板を外側より取り外したのが稲田或は金村と云うことになつているのであるが、稲田が板を取り外したと認むべき資料は毫末もなく、又金村が虚無人であることは既に述べたとおりであるから、結局吉岡自身が取り外したのに拘らず、恰も他人が取り外したかの如く虚言を弄したものと解せざるを得ない。従つて右供述からすれば、吉岡自ら外側より床下口の板を取り外して置いて屋内に引返し、そして階段下から床下をもぐり右床下口より脱出したものと推測することができる。

のみならず、床下口を塞いであつた板は厚さ五耗乃至七耗の割れ易い杉板である(証第一〇号同号の二参照)から、内側よりこれを突き外すことは必ずしも不可能ではなく、又警察検証調書(二冊二八二丁以下)添付写真によつて窺える床下口外側の状況を考察しても、杉板を突き破れば外側に脱出することが可能であると推測されるので、両者何れの場合を想定しても前記疑問に応えることができる。

二、同二点について

吉岡が原審検証に立会し、阿藤、稲田等が炊事場の側より炊事場と台所の間にある板戸を小刀様の刃物で突き刺して「落し錠」を探していた旨指示説明したこと、この指示説明に基いて検証したところ、吉岡の指示した板戸に刃物で突き刺したと認められる傷跡があつたこと、更に当審検証の結果(中山ツマの指示説明を含む)によれば、右傷跡は板戸上部に九個散在していること、この傷跡はその形状、高度、数、分布状況等から考察して、犯人が板戸に「落し錠」があるものと考え、その所在を探すため炊事場の側より刃物の先を僅かに突き刺したことによつて生じたものと推測されること、右板戸には「落し錠」の設備はあるが、本件発生当時この錠を用いず母家台所の側より板戸に釘を差し込んで戸締りをしていたことは、何れも既に(第一章第四の七参照)述べたとおりである。しかしながら右板戸の傷跡は、これが阿藤、稲田等の行為によつて生じたことを裏付ける証拠があつてはじめて同被告人等の断罪資料に供し得るものであることは云うをまたないところであるが、この点に関する吉岡の供述は信用に値せず、しかも他に何等証拠がないのみでなく、諸般の証拠資料を綜合すれば、むしろそれは吉岡自身の行為によつて生じた疑いが濃厚であることも先に(前同参照)論証したとおりであるから、前記板戸に傷跡が存在することは何等共同犯行の根拠とならない。

三、同三点について

なるほど、原審鑑定人藤田千里作成の早川惣兵衛に関する鑑定書(二冊二五三丁以下)、同早川ヒサに関する鑑定書(二冊二六四丁以下)、吉岡の各警察並びに検事調書、同人の原審並びに当審における供述ないし証言、当審鑑定人上野正吉(三三冊一二六〇六丁以下)、同香川卓二(四五冊一七四五〇丁以下)の各鑑定書(但し香川鑑定書については後に挙示する部分を除く)を綜合すれば、一月二四日夜早川惣兵衛(明治一九年生)早川ヒサ(明治一九年生)の老夫婦が、何れも自宅で略同時に惣兵衛は斧(証第四号)で頭部顔面及び胸部(胸部に対する加撃は斧の峯打ちによるものと認められるが、上野鑑定書一二六九九丁の記載によると、足蹴りによる公算が絶無とは云えない)等を殴打され、頭部割創による頭蓋骨々折、大脳挫滅及び前頭蓋底骨々折により、又ヒサは眉間部及び頭頂部を手拳等による鈍体で殴打された上、手で頸部を搾扼されて窒息し、それぞれ略同時刻に死亡したものであることを認めることができる(藤田鑑定書によると、惣兵衛の顔面頭部に七個の創傷と胸部に胸骨々折がある旨記載されているが、上野、香川両鑑定書によると、右の外右眉弓の外端を上下に走る創傷一個のあることが認められるから、藤田鑑定書はこの創傷を看過したものと考えられ、又香川鑑定書によると、前示右眉弓の外端を上下に走る創傷と右顔面部のそれは共に庖丁又はこれと同様性状の有刃鋭器による切刺創である旨記載されているが、この記載部分は前掲の各証拠に照し採用し難い)。

従つて惣兵衛及びヒサが同時に別異の方法で殺害された旨の原判決の見解そのものに異論はないが、ここに同時と云うのは科学的正確さを指称するものでなく、常識的意義に過ぎないことは、原判決の挙示する証拠を検討することによつて明らかであるばかりでなく、原判決自らも「最初に斧で惣兵衛を殴打し、これに驚いて起き上つたヒサに飛びかかり、手で同女の口を塞ぎ首を締めた」と認定し、このことを肯定しているのである。しかも惣兵衛夫婦が相当離れた場所で同時に殺害されたものであれば格別、同じ六畳の間(警察検証調書二冊二八三丁以下参照)に就寐中本件の災禍を受けたものであることは記録上疑いを容れないところであるから、前記意味における同時に且つ別異な方法で殺害されたとしても、それは共同犯行を裏付ける根拠と目し難い。何となれば、犯人は先ず斧で惣兵衛の頭部顔面を乱打し決定的致命傷を加えておいて、しかる後、この惨状を目撃し恐愕戦慄して身動き出来ない状態に陥つている老婦ヒサに原認定の攻撃を加えて死に致すことはさして難事ではないと推察できるからである。現に吉岡は警察四回調書において「惣兵衛が誰かと声を出したので、私は持つていた薪割で二回位顔の方を殴りつけた。そこに阿藤と稲田が私のところに来て私が薪割を渡してやる時ばあさんが強盗ぢやと一回たけりましたので、私はばあさんの処に行きましたら布団の中にもぐつて居た」(三冊五七一丁)、同五回調書において「私は顔を見られたから殺してやろうと思つて寝間に起き上りかけていた人で、その時にはぢいさんかばあさんか解らなかつたが、持つていた薪割で殴りつけました。回数は覚えていないが、殴つたらその人は後に倒れた。その瞬間南側にばあさんが布団から起き上つて、やあーとたけつて布団の中に頭をつつこんだので薪割をその場に放つてばあさんの処へ行き、たけらすまいとばあさんの口を両手で押えつけすぐ片手で喉笛の処を押えた」(三冊五八七―八丁)同六回調書において「阿藤が惣兵衛を薪割で一回殴りつけたら惣兵衛はうーんと云つていた。その時婆さんが南側布団から起き上つて、やあん、と云つて布団の中に頭を突込みましたので、私は婆さんの処へ行き、婆さんの口を両手で押えていた」(三冊六一三丁)とそれぞれ供述しており、又前記上野、香川両鑑定書によると、惣兵衛に対する第一撃は犯人と惣兵衛が対面し、加害者が立位、被害者が坐位ないし半坐位(坐るため上半身を起す途中)の関係で加えられた公算が非常に強く、これによつて生じた創傷が右前頭部の割傷と推測され、しかも、これは高度の脳挫傷をもたらした致命傷で、この創傷により惣兵衛は爾後意識的挙動が不可能であつたことを認め得る。右両鑑定の結果は期せずして惣兵衛の被害状況に関する吉岡供述とも略一致するから前記推察に誤りのないことを知り得るのである。そして吉岡の叙上供述を綜合すると、ヒサを殺害するのに斧を用いなかつたことは、ヒサが驚声を発したため反射的にそれを妨げようとしたことと、同女が即座に布団をかぶつたこととに原因するものと推測できる。次に右両鑑定書によれば、惣兵衛の頭部及び顔面に八個の創傷があり、その多くは位置方向を異にしていることが認められるから、この点からして犯人が複数ではないかとの疑問が提供される余地もあるが、上野鑑定書(一二七〇六丁)によると、本件においては加害者単一としてその凶行順序を考察してみて、その間何等不自然な点は見出し難く、頭部、顔面にある第一創から第八創までの全部の創傷が、加害者がすべて被害者の左側に立つて行動したものと解するのが、現場と創傷の状況から最も可能性があり、且つ最も自然であると推測される(香川鑑定書においては、右顔面部及び右眉弓の外端部の各創傷が、庖丁又はこれと同種の凶器による切刺創であることを前提とし、これらの創傷は加害者が被害者の右側に立つて加撃したことによつて生じたものである旨記載されているが、この部分は上野鑑定書の記載に照し採用できない)から、頭部、顔面の創傷の数及びその位置方向は共同犯行の論拠となすに足らない。なお香川鑑定書(一七四九五丁)及び当審証人香川卓二の証言(四四冊一七一二〇―二丁)によると、胸部の骨折は生活反応が軽度であることによつて死戦期の終えんに惹起したものであること及びこの創傷は頭部顔面の創傷より多少遅れて生成したものであることを各推測しうるところ、吉岡は金村上申書(前出一三冊四三〇八丁乃至一〇丁)において、ヒサを殺害後に重ねて惣兵衛を殴打した旨記述している(同書面では金村が殴打したことになつているが、金村は虚無人であるから、若し右記述が真実であれば、吉岡自身がなした行為を他人に転嫁したことになる)から、両者を綜合すれば、ヒサを殺害した後重ねて斧の峯で惣兵衛の胸部を殴打したものと想像される。

以上論証したように、惣兵衛及びヒサ殺害の時刻、その方法、惣兵衛の創傷の数並びにその部位方向等からして共同犯行を裏付けることはできない。

四、同四点について

本件の犯人が惣兵衛及びヒサを殺害した後、犯罪の発覚を防ぐ目的で、ヒサを寝室に北接する六畳の間へ運び、その頸部を麻縄(証第七号)で緊縛して鴨居に吊り下げ、同女の手及び足裏等に惣兵衛の血をつけ、その足下に庖丁一本(証第五号)を、同室と寝室との境付近に凶器である斧一挺(証第四号)をそれぞれ放置し、恰もヒサが惣兵衛と夫婦喧嘩の末同人を殺害して自ら縊死したかのように偽装工作をなした事実は本件記録を通じ疑いを容れないところである。そして絶命後間もないヒサの軟かい死体を鴨居に吊り下げることは厄介な業であろうと想像されるから、況んや一人でこれをなすことは極めて困難な事柄と推測される。しかしながら、吉岡一人では遂行できないとする原判決の見解は早計である。何となれば、吉岡の体力とヒサの体重身長との相互の関係及び鴨居の高さ如何によつて右困難の度合は変化するからである。ところで、吉岡の各警察並びに検事調書、同人の原審及び当審での供述ないし証言を綜合すれば、吉岡は曽て塩田人夫等の重労働に従事した経験があり、身長も平均人より相当高く、本件の犯行当時満二二才の元気盛りで屈強な青年であつたことを認めるに十分であり、一方藤田千里の早川ヒサに関する鑑定書(二冊二六四丁)によれば、ヒサは死亡当時身長一米五〇糎(四尺九寸五分)体重四五瓩位(一二貫)であつたことが明らかで、又当審検証の結果(一五冊五一〇三丁)によれば、前記鴨居の高さは一米七三糎余であることが認められる(警察検証調書「二冊二八五丁」に、この高さを一米四五糎と記載しているのは過誤と認められる)。してみると、吉岡がヒサより、身長体重共にまさり、しかも屈強であるから、ヒサの頸部を麻縄で緊結しその両端を右鴨居の上に通し、ヒサの死体を抱え上げると同時に縄の両端を引下げて結びつけることにより首吊り工作をなすことは、困難ではあつても可能であると認められる。

更に警察検証調書(二冊二八七丁二九九丁ないし三〇一丁)原審検証調書(一冊四三丁)押収の鴨居(証第一二九号)及び細引(証第七号)を各検討し且つこれらを綜合すれば、ヒサは頸部を麻縄(全長六米強)の中央部で頭が抜けないように緊縛された上、その両端を鴨居の上に通して吊り下げられていたが、膝も畳につかんばかりに垂れ下り両足を後に曲げ足首を畳につけていたこと、ヒサは襦袢と腰巻はずれ落ち襦袢は不自然にはぐれて殆んど半裸体となり極めて取り乱した状態であつたこと、鴨居には麻縄のくいこんだ跡があり、その片側は他の側に比較し擦れ傷の幅が広く且つ深く、しかもその付近に麻縄による擦れ傷があること、をそれぞれ認めることができる。右のように、死体が縊死とみるには余りにも不自然な程垂れ下がり且つ肩、胸部、腹部、臀部等を露出し極めて取り乱していたこと、鴨居の方々に麻縄の擦れ傷があり、しかもその片側は他の側に比較して傷跡の幅が広く且つ深いこと、は首吊り工作が難渋を極めたことを物語るものであり、若し数人でなしたものであれば、以上のように不手際な痕跡を残すとは思われない。従つてこのことは首吊り工作が一人によつてなされた公算の多いことを示すものである。ここで黒紐(証第六号)にまつわる疑問を解明しなければならない。この紐について吉岡が「台所付近にあつたのを自ら持つて来た」、或は「松崎が探して来た」と各種の供述をなし、又それの用途についても、「ヒサを吊つたロープを締めようとした」、「首を吊る足しにしようと思いロープの側の鴨居に一と廻ししてくくつたがその紐は結局役に立たず切れた」、「最初に紐でヒサを鴨居に吊ろうとしたが切れた」と様々な供述をなしていることは既述(第一章第四、八、二参照)のとおりである。ところで前示警察検証調書、警察捜索差押調書(一四冊四五〇〇丁以下)及び証第六号の切れ紐を綜合すると、ヒサの死体を吊り下げていた麻縄の南方即ちヒサの左側約三〇糎(警察検証調書本文には一五糎と記載されているが、三〇〇丁裏、三〇一丁表の各写真及び三〇一丁表の写真に記載されている検尺を綜合すれば、右一五糎の記載が過誤であることを知り得る。同調書検尺の不正確であることは鴨居の高さの点について既に指摘した)の鴨居に紐一本(証第六号)が鴨居の下側で結びつけられて垂れ下がり、垂れ下つた両端は重力で切断されたことを物語るように不整形な断面を残し、切断された他の一片はヒサの左足首付近に落下していたこと、及びこの紐は黒色毛糸製の婦人用腰紐で相当使い古されていたものであることを認めることができる。以上の状況からして、右腰紐は首吊り工作に利用されたものと解される。

しかしながら、切断し易い毛糸製の腰紐一本で重量四五瓩のヒサの身体を吊り下げ得ないことは小児でもよく理解し得るところと考えられる(証第六号の紐参照)から吉岡がいかに焼酎に酩酊していたとしても、右の紐でヒサの死体を吊り下げる試みをなしたとは想像し難く、況んや意識の正常な被告人等がその場に居合せたものであれば、このような三才の童児に類する愚行を敢てするとは到底思われない。

又この腰紐でヒサの死体を一旦吊り下げた後切れたものであれば、重力の最もかかり易いヒサの喉笛即ち舌骨部附近に紐に対応する索溝ないし創傷が鮮明に残存するであろうことは、何人も疑わない推理であるところ、藤田千里のヒサに関する前記鑑定書(二冊二七〇丁)によれば、「(1)頸部に索溝があつて、舌骨部及び左右側頸部に深くくい込んでいて、斜め上後の方向に向い外後頭部結節部に消えている。索溝には溢血はない。(2)右側頸部頭髪の生え際に沿つて「く」の字型の長さ五糎幅一糎の表皮剥離がある。右(1)の索溝は荷造り用の細紐様のもので出来たもので(2)の右側頸部の「く」の字型表皮剥離は幅一ないし二糎見当の紐様の物にて出来たものと推定される」と記載されているのである。右記載とその余の証拠とを綜合すれば、前記(1)の索溝は麻縄(証第七号)、(2)の表皮剥離は腰紐(証第六号)によつて、それぞれ生成したものと認めるのが相当である。即ち舌骨部には腰紐によつて生じたと認められる索溝ないし創傷の痕跡すらなく、却つて右側頸部頭髪の生え際に沿つて「く」の字型に長さ五糎幅一糎の腰紐によつて生じたと認められる表皮剥離が存在するのである。右の動かし難い事実から推論すれば、前示腰紐はヒサの首吊りそのものに使用されたものと見ることはできない。

更にこの腰紐でヒサの死体を一旦吊り下げたものであれば、鴨居より垂れ下つている部分はもとより、鴨居を廻してその下側で結ばれている輪の部分もヒサの重量のため垂直になつているのが当然である。しかるに前示検証調書添付写真(三〇〇丁、三〇一丁)によれば右紐の輪の下部即ち結び目のある部分は、その上部に比較しヒサ寄りに傾斜していることが明らかであるから、この事実も亦腰紐が首吊りそのものに使用されたことを否定する有力な根拠と解することができる。

以上論述した三つの理由により腰紐でヒサの死体を吊り下げたことは否定せざるを得ないのであり、従つてこれを肯定する趣旨の吉岡の諸供述は到底信用し難い。してみれば、腰紐の用途について依然疑問が残るのである。ここで吉岡がこの点について初期に述べていた供述内容を想起してみる必要がある。吉岡は警察一回調書において「ロープ(テープとあるのは誤記と認められる)を締めつけようとしたが切れた」(三冊五五四丁)、同五回調書において「黒い紐が見当つたので首を吊る足しにしようと思いロープの側の鴨居に一と廻ししてくくつたがその紐は結局役に立たず切れてしまつた」(三冊五八九丁)と供述しているのである。これらの供述に、前段で認定した各事実特にヒサの死体が縊死とみるには余りにも不自然な程垂れ下がつていたこと、ヒサの右側頸部に頭髪の生え際に沿つて「く」の字型の腰紐によつて生じたと認められる表皮剥離があつたこと、鴨居に結びつけられた腰紐の輪の下部即ち結び目のある部分が上部に比較しヒサ寄りに傾斜していたこと、の各状況を綜合考察すれば、本件の犯人は麻縄でヒサの首をしばり、これを鴨居に通して死体を抱え上げると同時に麻縄の両端を引き下げ難渋しながら漸く麻縄を結びつけて首吊り工作をなしたが、死体が余りにも下がり過ぎたため、これを吊り上げるべく麻縄の南方(ヒサの左側)約三〇糎の鴨居上に腰紐を結びつけ、この紐をヒサの右側頸部付近に廻し、自ら死体を押し上げると共に紐を引締めて結んだが重量に堪えかねて切断したものと推測することができる。かように解してこそはじめて、ヒサの右側頸部のみに紐によつて生じたと認められる表皮剥離があること、及び紐の輪の下部がヒサ寄りに傾斜していたことを矛盾なく解決しうるのである。従つて腰紐が鴨居に結びつけられていた事実は何等共同犯行を裏付けるものでなく、むしろ吉岡が前記推測に照応する供述をなしている(その後この供述を変えていることは第一章第四、八、(2)に記載しているとおりである)のに反し、被告人松崎が紐について何等の供述をしておらず、被告人阿藤が警察三回調書(四冊八〇二丁)で「その内松崎が紐を探して来て吉岡に渡し吉岡がそれで首をしめ殺したのであります」と供述し、被告人稲田が警察三回調書(四冊八七五丁)で「私は後から抱き上げ久永や松崎は両横から婆さんを持ち上げました。阿藤は婆さんの腰紐をほどいて上の鴨居に結びつけ、そして皆んなが婆さんを吊り下げて離そうと思つて手をゆるめたら、紐がびりびりと云つて切れました」と供述し、被告人久永が警察二回調書(四冊八九二丁)で「最初に吉岡が腕で婆さんの首をしめ更に黒い紐でしめました。それで吊り上げる際にもその紐がついていた」と供述しているのは、吉岡のみが前記のような奇抜な着想に基く行為を経験知悉し、被告人等がこのことを知らなかつたため以上の結果となつて現われたものとも解される。

なお一連の偽装工作が幼稚拙劣で吉岡の云う用意周到な被告人阿藤の主唱した行為とは認め難く、その他現場に残された数々の痕跡等から考えて右の偽装工作も吉岡が単独でなした疑いが濃厚であることは先に(第一章第四、五参照)述べたとおりである。尤も吉岡一人で首吊り工作をなしたものとすれば、数人でなした場合に比較しより長い時間を必要とすることはもとより当然であるが、惣兵衛夫婦を殺害した時刻は原判決の認定する午後一〇時五〇分頃よりも早い時刻と推定される(第一章第四、二参照)から、この点は何等の矛盾を来たさない。

以上を要するに、原判決が揚げている前記四つの理由は、単独犯を否定し共同犯行を肯定する根拠となし難い。

第三、早川家屋内外の足跡その他

一、屋内の跣足の足跡

警察検証調書(二冊二八六丁本文及び三〇四丁、三〇五丁、三〇七丁のNo.25・26・32の各写真)によれば、早川惣兵衛の死体の存在していた部屋一面に灰が撒き散らされていて、その灰上に跣足の足跡一個が顕出していた(No.32)ことが認められる。そして当審鑑定人香川卓二の鑑定書によれば、前記No.32の写真原版に現われている足跡中の足紋と吉岡及び被告人久永の該当足紋とが似ている旨の記載がある。しかし、吉岡は警察四回(三冊五七四丁)同五回(三冊五九〇丁)同六回(三冊六一七丁)各調書において、犯行現場で自分は素足であつたが、久永を含む被告人等は総て足袋をはいていた旨供述しており、更に警察以来の吉岡の全供述を検討してみても被告人久永が惣兵衛の寝室に入つたことを窺わせるような積極的供述は何一つ存在しないのである。これに反し、吉岡が惣兵衛を斧で殴打し、且つヒサの首吊り工作後火鉢の灰を惣兵衛の死体附近に撒き散らしたことは、吉岡の全供述と関係証拠に照し疑いを容れないところであるから、これらの事情と前記鑑定書とを綜合すれば、灰上の足跡は吉岡のものと認めるのが相当である。

二、屋内の足袋様の足跡らしいもの

右検証調書中No.27(三〇四丁裏)の写真を見れば、惣兵衛の死体のあつた部屋に、足袋の足跡であると指摘されれば、或はそうであるかも知れないと思われる程度の足跡らしいものが顕出されているが、前記灰上の足跡については同調書の本文及び独立の写真でこれを取り上げ記述撮影しているのに反し、右の足跡様のものについては何等ふれていないのである。しかも加藤武雄の検事調書(一冊二二四丁以下)、原審証人中山宇一(一冊七六丁以下)、同清力用蔵(一冊五〇丁以下)の各証言によれば、警察官が犯行現場にかけつけ現場保存をするまでの間に、前記部屋に少くとも加藤武雄、清力用蔵、中山宇一及び小泉医師の四名が入つたことが認められる。右の各事情を併せ考察すれば、検証を実施した担当警察官は、前記足跡様のものを、加藤武雄外三名中の誰かがつけたものと判定したか、或は又足跡でないと認めたか、両者何れかの理由により検証調書に取り上げなかつたものと認めるのが相当である。のみならず、たとえ足跡であつたとしても、これが被告人等の足跡であることを窺わせるような根拠は些かも存しないのであるから、この足跡様のものについては多く論ずる必要がない。

三、屋外の足跡

警察検証調書(二冊二八二丁以下特に二八九丁の本文、及びNo.3、4、二九三丁、No.39、40、42、三一〇丁の各写真)に、原審証人三好等(一冊九八丁以下)、同松永章(三冊六六九丁以下)、同松本正寅(三冊六九九丁以下)、当審証人松本正寅(三七冊一四四五四丁以下・三九冊一五一四八丁以下・四五冊一七八六七丁以下)、同吉岡隆夫(四五冊一七八三七丁以下)、同新庄好夫(四五冊一七七九四丁以下)の各証言及び当審検証の結果(昭和三三、一一、一実施、四五冊一七五五〇丁以下)を参照して考察すれば、本件発生の翌日である一月二五日警察官が検証をなした当時、早川方部屋北側に沿う通路上に東より西に向けたと考えられる素足の足跡が数個あり(No.4の写真参照)、その北側畑、及び早川方北東方の畑の中と同家北方山沿いにフヱルト草履の足跡と推測される足跡が点々と残存し(No.3、4、39、42の各写真参照)、更に同家の東南方にあたる道路西ベイ(当審検証調書添付第一図イ点附近、同一七五五八丁表下段の写真参照)に靴跡一個(前示No.40の写真参照)のあつたことが認められ、又同家北側畑或はその東側畑の中に下駄の足跡があつたものと推測される。なお当審証人松本正寅の証言中、早川方南側より東南方にかけて三人分の足跡があつた旨の証言部分は前掲証拠特に検証調書に照しにわかに信用し難い。しかしながら、以上の足跡が何時頃何人によつてつけられたかこれを識別するに足る的確な資料がない。前記証人新庄好夫は草履の足跡について、「その足跡は新しくて、土地が凍る前に歩いたためできたものと思う」旨証言し、一方前掲松本証人は当審第五二回公判で「草履の足跡は新らしくて、霜のおりている上を踏みつけたような状況であつた」と降霜の前後について新庄証人と相反する証言をなしている。右のように微妙な点に関し、本件が発生してから満七年余を経過した後に初めてなされたこの種証言は事柄の性質上両者何れも軽々に信用することができない。原審証人中山宇一(一冊七六丁以下)、同加藤スミ子(一冊六六丁以下)の各証言及び加藤武雄の検事調書(一冊二二四丁以下)を綜合すれば、警察官が来る前に、中山宇一、加藤武雄、早川正一の母等が早川家の裏側を廻つたり等していることを認め得るから、同家周辺の足跡は同人等のものと考える余地があり、又早川夫婦が殺害された事実を聞知した縁故者、隣人等が急いで駈けつけたであろうことは容易に想像し得るところであり、現に証第三七号の現場写真綴謄本(前掲警察検証に際し同調書添付写真と同時に撮影された写真の謄本)中No.43の写真によれば、警察官が検証をなす当時多数の人が早川家に集つていたことを知り得るから、これらの人々のうち一部の人が急ぐ余り畑の中等を通らなかつたとは断定できないのみでなく、靴跡は道路べりにあつたものであるから、通行人によつてつけられた公算も多いのである。

前記足跡が吉岡及び被告人等のうちの何人かによつてつけられたものと仮定し、且つ吉岡の警察六回調書以後の五人共犯の供述が真実であるとするならば、下駄の足跡は吉岡のもの、草履の足跡は阿藤のもの、靴の足跡は久永のものと解せざるを得ない何故ならば、吉岡は略これに照応するような供述をなしているからである。証人松本正寅は当審第五二回公判で「草履の足跡は阿藤のものと思つた」と証言しており(三九冊一五一四八丁以下)、一方警察捜索差押調書(三九冊一五三一五丁)及び当審で押収した証第一五二号の一、二の各ゴム裏草履を綜合すれば、警察官が一月三〇日被告人阿藤方を捜索し右二足の草履を押収したことが認められ、更に当審証人久永サイ子の証言(二七冊九八九三丁以下)によれば、一月三一日頃刑事が久永方から、事件当夜被告人久永が中野方へ行く時履いて行つた靴を持ち帰つたことが推測されるが、これらの捜査と証拠蒐集は吉岡の供述に即応してなされたものと見ることができる。ところで、前記松本正寅の証言(三九冊一五一四八丁以下・四五冊一七八六七丁以下)と警察検証調書添付写真No.4(二冊二九三丁裏)とを綜合すれば、同検証に際し早川家北側畑の中の草履の足跡及び同家東南方道路ベイの靴跡にそれぞれ石膏を流し込んで足跡の型を採取したことが認められる。以上の事情からすれば、阿藤方で押収した草履二足及び久永方から持ち帰つた靴と前記石膏の足型とを比較対照したであろうことは疑う余地がないのに拘らず、同証人は当審第四八回公判で「現場の足跡と被告人等の履物とが一致したと云うことは一度と聞いたことがない」(三七冊一四四五四丁以下)又第五二回公判で「石膏の足型は熊毛地区署の二階鑑識係の附近においてあつたが、庁舎移転の時廃棄したものかも知れぬ」(三九冊一五一四八丁以下)とそれぞれ曖昧な証言をなしているのである。足跡の型が廃棄されたか否かは兎も角として、これが証拠として提出されていないことは明白であるから、このことと右証言とを綜合すれば、両者が一致しなかつたものと認めて差支えないであろう。更に云えば、被告人阿藤が当夜草履を履いていたと云うこと自体に疑問が存するのである。本件の捜査を担当した松本証人が証言するように現場に残つていた草履の足跡を被告人阿藤のものと推測したのであれば、履物の点について同被告人に追及がなされ、これに対して同人の答弁があつたものと考えるのが理の当然であるところ、被告人阿藤の各警察調書を精査してみても、この点に関する供述する供述部分は何等発見できないのである。なお原審公判調書を検討してみても、履物の点に関する阿藤の供述は見当らないのであり、当審第五一回公判(三八冊一五〇三八丁以下)において同被告人が初めて供述したところによれば、当夜中野末広方へ赴く際地下足袋を履いていたと云うのである。そして当日同被告人が田名の海岸で砂利採取をなし引続いて同日夕方中野方へ出向いたことは証拠上否定し得ないところであるから、地下足袋を履いていた旨の右供述は必ずしも虚偽であるとは認められない。否むしろ当審第三七回第六四回公判における証人木下六子のこれに照応する証言(同女は阿藤が仕事に行く時は地下足袋であつた旨証言している。三〇冊一一七一七丁、四六冊一八二六七―八丁)によれば阿藤の前記供述が真相ではないかと推測される。

以上論証したような理由により草履及び靴の足跡は被告人等の罪証として何等の価値を認め難い。

四、早川家東側作業場横手便所内のマツチの軸木

警察検証調書(二冊、二八九丁)によれば「早川家東側作業場横手便所を見るに、マツチの使用された軸木若干を発見する。」旨の記載があるから、右便所内にマツチの軸木数本が落ちていたものと認められる。しかし、このマツチの軸木が押収された形跡は記録上認められないし、もとより証拠として提出されていないのであるから、捜査官がこれに罪証としての価値を認めなかつたものと推測するのが当然である。のみらず、このマツチ軸木が何時誰により、何のために使用されたものかこれを知る資料は些かもない。

第四、その他の証拠

原審は既に論述したものの外数多くの人証、書証、物証等について証拠調をなしているが、これらを仔細に検討してみても、証人山崎博の証言(一一冊一一七丁以下)及び同人の上申書(二冊四〇六丁以下)を除いては、被告人等の罪証として取り上げ批判するに足るものは何一つ発見できない。

右山崎博は証言及び上申書において「自分は一月二四日午後一一時四、五〇分頃久永方へ行つたが、その時久永は座敷の上り口に靴履きのまま腰をかけていた」と供述しているのである。そしてこの供述を、被告人稲田が警察三回の自白調書においてなしている「私が早川方で悪いことをして家に帰つたのははつきりしませんが、午後の一一時三〇分頃であつたと思います」(四冊八七七丁)との供述に被告久永の警察自白を参照すると、恰もよく被告人久永の右自白供述に符合し、該自白が一見真実であるかのような観を呈するのである。しかしながら、次章で詳論するように、山崎は差戻前の控訴審証人として、前示供述を一旦変更し、更に最終段階でこれを覆して旧に復し、その後当審第二二回、二六回各公判において当初と同様の証言をなしていたところ、昭和三三年一二月頃検察官の数回にわたる取り調べを受けるやこれを根本的に変更したのである。このように同人の供述はそれ自体が変転しているばかりでなく、その何れもが関係証人の証言とも矛盾牴触しているから容易に信用できない。

第四章  当公廷に現われた被告人等に不利益な諸供述の検討

樋口豊、山崎博、木下六子、上田節夫及び岩井武雄は当審の最終段階においてそれぞれ突然従前の供述を変更し被告人等に不利益な供述をなすに至り、張正夫、小野敏、金玉炫及び鶴崎章は新たに当公廷において被告人等に不利益な証言をなすに至つたのであるが、昭和三三年一二月一五日付柳井簡易裁判所裁判官上村実の証人岩井武雄尋問調書によれば、同証人は「今まで二―三〇回も取り調べを受けた」(四九冊一九二三一丁)と言つており、これを本件記録を通じて見れば、裁判所として同証人を取り調べたのは当審三回、原審一回に過ぎず、その他は捜査官たる警察官、検察官の取り調べとみるを相当とすべく、当審証人中野末広の証言によれば「本件差戻後において検察官警察官から呼出を受けたことが一〇回余もあり極めて迷惑をしておる。」(二一冊七五二二丁)と言つており、又当審証人曽村民三の供述(二三冊八二七五丁)、卜部検事作成の曽村民三の供述調書六通、同曽村ワキヱの供述調書四通(二六冊九六三八丁以下)によれば、同三三年一、二月にわたつて民三は六回、ワキヱは四回検察官の取り調べを受け、且つその娘まで取り調べられたことが認められ、又当審証人木下六子の証言(四七冊一八四八一丁ないし一八四八七丁)によれば、同人が昭和三三年一月以降捜査官により再々取り調べを受けた外、他家に嫁している姉、病気入院中の兄及び既に離婚していた前夫佐久間隆一も取り調べを受けた事実を推認するに十分であつて、以上から判断すれば、岩井武雄、木下六子の両名はもとより、上田節夫、樋口豊、山崎博等も、本件の差戻後捜査官の執拗な取り調べを受けたものと推認することができる。そして捜査官が同一人に対し日時を異にして度重なる取り調べをなす場合においては、供述者が従来秘匿していた真実を告白することがある反面、執拗な取り調べに屈服し真実を抂げて迎合的な供述をなす危惧がないとは言えない。この意味において、岩井、木下、山崎、樋口、上田等の新供述は十分な検討を要するものというべく、又張正夫、小野敏、金玉炫及び鶴崎章等は本件が差し戻された後、即ち事件発生後満七年を経過した頃はじめて本件について検察官の取り調べを受け、その後当公廷で証言するに至つたものであつて、人間の記憶力の限界等の観点からしてこれらの証言についても慎重な考察を加えなければならない。

第一樋口豊の供述

昭和二六年一月二二日平生町横土手の通称三木停留所で被告人阿藤と吉岡晃がなした言葉のやりとり、即ち、同停留所の共同謀議の問題に関する樋口豊の証言については、吉岡晃の供述を検討した際論証したとおりであるから、ここではこれを省略し、専ら、樋口豊が関与したと称する同町橋柳旅館等における共同謀議の点を中心として同人の供述の信憑力を検討する。

樋口豊は原審及び当審において、一月一九日橋柳旅館における共同謀議の点をそれぞれ否定し、もとより、一月二〇日以降の同旅館等における共同謀議の点については一言も言及しておらなかつたのであるが、(二冊三七二丁、二六冊九四四九丁、三一冊一一七五九丁)当審第五三回公判において「私は一月一九日午後五時か六時頃橋柳旅館に行つたが、その日どういう相談があつたか全然知らない。それは従前の証言のとおり相違ない。」(三九冊一五三六五丁)「一月二〇日橋柳旅館で阿藤、久永、稲田、松崎に会つたが、その時物を盗んで売つて金儲けをする話が出て、相談が決つた。二四日に八海とか阿藤の家とかへ集り、そこで誰が番をするとかいうような役割を決めることになつた。二一日も橋柳旅館に行つたが、その時は吉岡を除く五人全部がおり、話合つた結果、はいる家が決まり、二四日午後一〇時から一一時半頃の間に阿藤の家か近所の橋に集つて様子を見てから行くということになつた。物をそつと取つて帰るという相談であつたから持つて行く凶器の話はでなかつた。久永や松崎が見張りをする、吉岡が一番最初に入る、私や阿藤、稲田はそれについて入る、見つかつたら引括つて取つて帰る、強盗は罪が重いからなるべくやらないという約束であつた。二二日は阿藤方で一緒に飲んだが、その時は金儲けをすれば金も払えるし何もかも面白うやれるから気晴らしに一杯やろうということであつた。二三日は悪いことの相談はしなかつた。二四日田名海岸にバラスあげに行き、その帰り新光学院の辺で約束どおり今晩出て来いということになつた。その時阿藤、稲田、久永、岩井がいたが、岩井にはそんな話はしなかつた。その日は私方に法事があり、私は出たかつたが、今日は親父の法事だから絶対に出てはいかんと言われたのでよう出なかつた。」(三九冊一五五〇一丁―一五四二八丁)第五八回公判において「私は一月一九日橋柳旅館に行つたが、その際吉岡のおるところで事件を打つというような話が出て、皆はそれではやろうということになつた。吉岡が帰つてから詳しい話をした。二四日がよいということになつた。二〇日も橋柳旅館で話があり、その時は久永がドスを持つて行くことになり、阿藤が松崎に刺身庖丁を持つて行つたらどうかと言い、こぢあける道具は稲田が家に帰つて捜して持つて行くということであつた。早川に行くということは二一日までに決つた。」(四二冊一六三九四丁以下)

第六〇回公判において「一月一九日以降橋柳旅館で悪いことをする相談をした。その際木下六子や柳井三枝子にあまり聞かれないように大きな声をしないで皆集つて話をしたが、同女等は私等の相談を悟つているのではないかと思う。」(四三冊一六七八六丁以下)と言うのである。

叙上当審第五三回以降の供述を仮りに新証言と言う。

樋口豊は当審第二九回公判(昭和三三、七、四)において、検察官の尋問に対し、原田香留夫著「真実」一五二ページ以下の手紙文は自分で考え、自分で作文したものであると虚構の証言をなし、更にそれを読んでみよと言われるやこれを拒否し、第三八回公判(昭和三三、九、一六)において、右手紙文を真実読めないのに拘らず「前回読まなかつたのは、読めなかつたからではなく、検察官が自分の非行歴等を聞いたので反感を抱いたためである。」と虚構の証言をするに至つた。そこで検察官は樋口豊に対し偽証容疑で捜査を開始すると共に、昭和三三年一〇月中これを逮捕勾留し、同月一八日右証言事実その他について同人を山口地方裁判所に起訴するに至つたのである。その後の第五三回公判(昭三三、一一、一三)以降においては前叙のとおり被告人等に対し不利益な供述をするに至り、特に担当原田、正木両弁護人に対しこれを敵視するような証言をするかの感を抱かせるのである。例えば自己の生涯において稀有のことに属し相当明確に記憶しておらねばならぬと思われる東京如水会館における正木弁護士主催のその著「裁判官」出版記念会の状況について、右第三八回公判においては如水会館で自分が被告人等の冤罪を訴える話をしたことを認めながら、その後の右第五三回以降の公判においては、こと更弁護人に敵意を持つたような「覚えぬ」という証言を繰返すのである(二六冊九五八五丁以下、三一冊一一七八一丁、一一七九〇丁、三九冊一五三五七丁以下、一五四四八丁以下、四二冊一六二七四丁以下、四三冊一六九一九丁、樋口豊に対する偽証被告事件の起訴状謄本四一冊一六二一五丁、写真二二枚―東京都神田一ツ橋如水会館における著書「裁判官」の出版記念会の状況を撮影したもの四二冊一六四六五丁、原田香留夫著「真実」四二冊一六五一三丁)。

叙上説明したところによつて窺われるように、証人樋口豊は偽証容疑で起訴されるに至つた以降の段階においては、検察官にその弱点を握られており、いわば検察官の手中にある証人と言えないこともないのであつて、その新証言はあらゆる角度から十分な検討を加えた上その真否を判定せねばならぬ。

以下証言事項に従つて考察を加えることにする。

一、犯行前の集合の時間場所の点について観察するに、第五三回公判において、裁判長の間に対し前叙のとおり「橋柳旅館の話で、二四日午後一〇時から一一時半頃の間に阿藤の家か近所の橋に集つて様子を見てから行くことになつた。」と云い、第五八回公判においては弁護人の問に対し「橋柳旅館で阿藤が皆に二四日午後六時から一一時半までの間に集れと言つた。六時から一〇時までは久永の家とか阿藤の家、一〇時から一一時半までは八海橋と云うことである。」(四二冊一六三三七丁以下)と言い、更に同公判において検察官の問に対し「二四日田名海岸からの帰りに、久永の家に六時頃集つて田布路木に行けばよい時間になるから、九時か一〇時頃までに阿藤の家に帰つて、一〇時頃橋のところへ集るということであつた。一〇時頃から一一時半頃までの間吉岡なんかが来るのを都合によつて待つということであつた。」(四二冊一六四二丁裏以下)と言うのであつて、その供述は極めて曖昧であるのみならず、同人が証言する前示時間は犯行前の集合時間としてはその幅があまりにも広きに失し不自然の感を抱かざるを得ない。更に八海橋集合の時刻を午後一〇時とすれば、被告人阿藤及び久永は田布路木中野末広方より八海橋までの所要時間を見こんでそれに相当する時間だけ早く中野末広方を辞去しておらねばならぬのに拘らず前に認定したとおり(第一章第四の二参照)同被告人等は一〇時頃中野末広方を辞去して帰途についておるのである。又八海橋集合の時刻を午後一一時半とすれば、早川惣兵衛及びヒサに対する本件凶行はおおよそ午後九時頃から一〇時頃までの間に行われたものと推測され、いくら遅くとも午後一一時には完了していたものと解されること前に説明したとおり(前同参照)であつて、これらの事実に照すと、樋口の前記証言部分は容易に信用できない。

二、第五三回公判において、裁判長の間に対し「本件犯行に参加するつもりであつた」(三九冊一五四二七丁)と云い、第五八回公判において弁護人の問に対し「本件犯行に参加する気はなかつた」(四二冊一六三三〇丁)と云い、同公判において検察官の問に対し「本件犯行を私も一緒にやるという話になつていた」(四二冊一六四〇三丁)と云い、その証言が尋問する人によつて変動するのである。しかも本件犯行に現実に参加できなかつた理由として第五三回公判において前叙のとおり父の法事があつたため外出できなかつたと云う。しかるに、同公判において同証人は「その日は午前一一時頃から法事があつた。夕方には遠い親戚は帰り兄弟等皆遅くまで話をしていた」(三九冊一五四二九丁)と云う。

そうだとすれば午前一一時頃から昼にかけて自宅にいて法事に参列する必要はあるけれども、夜は必ずしも自宅におらねばならぬものではないと思われる。しかるに昼は田名海岸に砂利採取に出かけておりながら夜間外出できないということは首肯し難い。のみならず同証人の言うように、午後一一時半頃までの間に集まるのであれば、なお更のことである。

三、第五八回公判において「被告人阿藤等が二四日夜田布路木中野末広方に賃金を貰いに行つたのは本件のアリバイをつくるためであつて、賃金が貰えないことがわかつていながら中野末広方に行つた。」(四二冊一六四〇八丁裏、一六四四五丁)と云うのである。しかしながら、被告人等が当夜賃金が貰えないことがわかつていながら中野末広方に行つたということについては本件全記録を通じてこれを認めるに足る証拠はなく、却つて、証人岩井武雄(二一冊七四〇二丁裏、二二冊七七八六丁)、阿藤小房(三二冊一二二五二丁裏)、阿藤サカヱ(三四冊一三三四八丁裏)の各当公廷における供述、被告人松崎(三四冊一三五一四丁、一三五二一丁裏)の当公廷における供述、被告人阿藤(六冊一二六三丁以下)、松崎(六冊一二九九丁以下)がそれぞれ差戻前の控訴審に提出し陳述した上申書、松崎の警察一回、三回調書(四冊八二〇丁、八四〇丁)、阿藤の警察一回、三回調書(四冊七八八丁、八〇四丁)、久永の警察一回調書(四冊八八三丁)等を綜合すれば、二四日夜中野末広方に賃金を貰いに行くことになつたのは、同日午後田名海岸の砂利取現場で稲田を除く被告人等三名と岩井武雄の間にそのような話が出て、同所を引揚げ一同被告人久永方に立寄つた際同夜中野方に行くことに決つたこと、右被告人等及び岩井武雄は当夜中野末広が不在であることは全然予期しなかつたことであり、賃金を貰えばすぐ帰る予定であつたこと、それだからこそ被告人阿藤は当夜夕食も食べず中野方に行き、被告人松崎をして人島の自宅に行かせ間もなく帰るから風呂をぬくめておいてくれと伝言を頼んだことが認められるのである。そうだとすれば樋口証人の前敍証言は事実無根の証言と云わざるを得ない。

四、第五三回公判において、一月一九日橋柳旅館で本件犯行の共同謀議があつたかどうか全然知らないと証言しながら、第五八回公判においては、同日同旅館で吉岡も交えて本件犯行の共同謀議があつた趣旨のことを供述するのであつて、その供述が一貫しないのみならず、吉岡は当公廷で「樋口を加えて或は樋口の聞いておるところで、私達が阿藤等と悪いことの相談をしたようなことはない。私が帰つてからそんな相談があつたかどうか私にはわからない。」(四一冊一六一四六丁裏)と云つており、その他吉岡の全供述によるも一月一九日橋柳旅館で、樋口及び吉岡を交えて本件犯行の共同謀議がなされたとあるところは一も存しないのである。一月一九日午後七時過頃、樋口豊、阿藤サカヱ等が被告人阿藤を訪ねて橋柳旅館に赴いた際殆ど同人等と入れ違いに吉岡が一人で同旅館を辞去したことは先に認定した(第一章第四の一〇参照)とおりであるから、吉岡及び樋口の両名を交えて本件犯行の共同謀議がなされたということはあり得ないのである。

五、持参する凶器について、第五三回公判においては、その話はでなかつたと供述するかと思えば、第五八回公判においては、その話が出て被告人久永はドスを持つて行くことになり、被告人阿藤が同松崎に刺身庖丁を持つて行つたらどうかと云つたと供述すること前敍のとおりであつて、その供述が変動するだけでなく、吉岡及び被告人等のあらゆる供述を精査してみても右第五八回証言に照応するような供述部分はもとより発見するを得ない。

六、第五三回公判において、「物を盗みそれを売つて金儲けをする話がでて相談が決つた」と証言するのである。しかしながら、吉岡の警察以来当公廷に至る全供述を精査してみても、樋口証人の右証言に符合するところは一も存しないのみならず、吉岡が早川惣兵衛方で取つたものが金銭のみであるということは証拠上動かすことの出来ない事実であつて、この点からしても右証言部分は首肯し難い。

七、第六〇回公判において、木下六子等は橋柳旅館における共同謀議の内容を悟つておるのではないかと思うと言うのである。そして木下六子が被告人阿藤の借りていた橋柳旅館の二階一室又は襖一枚をへだてた隣室に起居していたことは諸般の証拠上明かな事実であり、真実樋口証人の言うように、同旅館のこれ等の部屋で一月一九日から二一日までの三日間にわたり本件犯行の共同謀議が行われたとするならば、木下六子においてその内容を聞知しておるか或は少くとも薄々は感知しておるものと推測するのが当然である。しかるに、木下六子は原審及び当審第三三回公判において「橋柳旅館において泥棒をするとか悪いことをするとかいう話は聞かなかつた。」(二冊三八七丁二八冊一〇三五三丁以下)と証言しておるのみならず、総て真実を陳べると言つた当審第六四回公判においてすら「酒を飲み終つて吉岡が帰るのと入れ違いくらいに樋口が橋柳旅館に来た。樋口と吉岡は部屋で一緒になつたことはなかつた。樋口と阿藤が話をしていたことはあるが、それは何の話か知らない。女の話かどうか私はよく聞いていないから知らない。」(四六冊一八一六六丁)と言い、被告人阿藤等と樋口豊の間に交わされたという本件犯行の共同謀議について知つておるような証言をしないのである。

八、第五三回公判において、樋口証人自らが本件犯行の共同謀議に加わつたことを認め、当夜自分は出たかつたが法事のため出られなかつたと言うのである。そうだとすれば、少くとも吉岡晃を除く被告人阿藤等において、樋口が集合場所である八海橋にやつて来ないことを不審に思い、同人の来るのを待つであろうことは当然想像し得るところである。しかるに、被告人阿藤等が八海橋周辺において、樋口が来るのを待つたと言つておるところは同被告人等の警察自白調書において一つも存在しないのみならず、吉岡の警察以来の全供述によるも一つとしてこれを発見するを得ない。吉岡は当審において検察官の「二四日の晩に橋で一緒になつた時、阿藤等から、ここにもう一人来る筈になつておるのに来ないというようなことは聞かなかつた」かとの問に対し「そんなことは記憶にない」と答えておるのである(四一冊一六一五六丁)。

以上検討したとおり樋口豊の新証言は或は曖昧であり又は種々変転し、矛盾多く、証拠上動かし難い事実にも反し、他の諸証拠とも符合しないのである。更にこれを被告人等の諸供述と対比考察するに、もとより被告人等は警察における自白調書を除き終始一貫して橋柳旅館における本件犯行の共同謀議の事実を否認しておるのであるが、警察における自白調書においてすら、樋口豊が本件犯行の共同謀議に加わつたということは一つも言つておらないのである。敍上諸般の事実に、冒頭掲記の樋口豊が新証言当時置かれていた地位等を綜合考察する時は、同人の新証言中被告人等が平生町橋柳旅館で本件犯行の共同謀議をしたということ、及び被告人等が本件犯行に関係があるかのような趣旨の証言部分は何れも容易に措信し難く、これを採つて被告人等断罪の資料とすることはできない。

第二、山崎博の供述

被告人久永及び阿藤等の本件犯行に対するアリバイが成立するか否かの問題について、山崎博の供述は極めて重大な比重を持つものである。本件記録によつて認め得るとおり、同人は現職の警察官であるのに拘らず、その供述は幾多変転し真実発見の妨げとなつておるのである。原審が同人の証言を証拠に引用しておるところより見れば、原審はこれを措信し、被告人等有罪認定の証拠としたものと解せられるから、右証言を初め同人の諸供述を概観し、ついでその信憑力を検討する。

山崎博は

一、1、上申書(巡査山崎博より熊毛地区警察署長宛のもの)において

「私は当(二四日)夜久永方に行つたが、その時間は一一時四〇分か四五分位ではないかと思う。私が久永方に入つた際隆一は上り口のところに腰をかけていたが、黒の短靴をぬいで寝間に入つた。〇時三〇分頃と思うが、外から誰かがチヤンジユーと声をかけた者があり、私が誰かと尋ねたら、おばさんは周ちやんだろうと言つた」(二冊四〇七丁以下)

2、原審における証言において

「私は一月二四日久永方に行つたが、その時間は午後一一時四〇分か五〇分頃ではなかつたかと思う。それから約三〇分位して外から誰かがチヤンジユーとか言つて呼んだ。私が隆一の母に誰かと尋ねたら、シユウちやんだろうと言つた。その後久永方に行つた時、隆一の母はこの前の晩外からよんだのは周ちやん(阿藤周平)ではなく岩井さんだつたと言つた。私が久永方に行つて間もなく隆一は就寝した。」(一冊一一七丁以下)

3、差戻前の控訴審における証言において

「私は一月二四日久永方に行つたが、その時間は一〇時過ぎか一一時頃だつたと思う。私が行つた時隆一は敷居のとこに腰かけていたが間もなく寝間に入つた。私が久永方に行つて一四分か一五分位たつて外からチヤンジユーと呼んだが、それは誰か知らない。私が久永方に行くため大野の駐在所を出たのは一〇時のブーが鳴つて間もなかつたことは断言できる。」裁判官の「上申書に書いてあることと、証人として言つたことと違つている時は何れが正しいと思へばよいか」との問に対し「結局上申書を一番最初に書いたからこれが正しい。」(六冊一二〇九丁以下)

4、当審における証言において

前記上申書と略同趣旨(二二冊七九八七以下二五冊八九五五丁以下)

とそれぞれ言つたのであるが

二、昭和三三年一二月一四日付検事山崎恒幸の取り調べに対しては

「私は二四日午後九時三〇分頃久永方に行つた。その時隆一は座敷の上り框に腰かけていたが、私が行つてから四、五分もたたぬ頃外に出た。私が久永方に行つてから一〇分か二〇分位たつた頃外から誰かがチヤンヂユウと声をかけたが、私はサイ子に誰かと言うと周ちやんぢやと言つた。阿藤が通つてから五分か一〇分位後、私が久永方に行つてから二〇分か二五分位後午後一〇時のサイレンを聞いた。隆一が帰つたのは午前一時前後頃、何れにしても一二時は過ぎていた。」(四九冊一九二七三丁以下)

と言い、なお、昭和三三年一二月一五日付、同月一八日付同検事の取り調べに対して右を裏付けるような関連供述をしておるのである(四九冊一九二八九丁以下、一九三五五丁以下)。

一、前記のとおり山崎博は現職の警察官であり、本件犯罪の捜査に関与していたのであるが、当審における証人山崎博、久永サイ子の各供述(二五冊八八二七丁以下、二七冊九九三九丁以下、九九七五丁裏以下)、前示昭和三三年一二月一五日付山崎検事作成の山崎博の供述調書の一部(四九冊一九二九八丁以下)その他諸般の証拠を綜合すれば、山崎博は同二三年頃より被告人久永の母サイ子と情交関係を結ぶようになり、本件発生の当夜もたまたま被告人久永方に赴いて情を通じ、被告人久永の動静を熟知しておるところから、本件捜査上極めて重要な参考人として上司から取り調べを受けたものと認められるが、右一二月一五日付山崎検事作成の山崎博の供述調書によれば

「一月二九日午前一〇時過頃署長室で松永、三好、松本その他二、三人の幹部が周囲に集り、松永次席が主になつて私に二四日の晩のことを尋ねた。私は最初久永方に八時か九時頃立寄つたと申したところ、まだ遅いのではないかと問い詰められたので、一〇時半頃ではないかしらんと申した。すると、もつと遅いだろうと周囲の幹部から替る替る問い詰められ、一一時半頃に行つたようにすれば納得して貰えそうだつたので、一一時三―四〇分頃行つたと言い直したところ、それならわかると言う意味のことを言われ調べが終つた。」(四九冊一九二九八丁)と言つており、又右調書の一部(一九三一〇丁裏)、原審における証人山崎博の供述(一冊一三〇丁)を綜合すれば、原審において山崎博の証人調べが行われる前日である昭和二六年六月八日、山崎博の上司である三好司法主任はわざわざ同人を本署に呼び出し、上申書どおりしつかり証言するよう申し向けたことが認められるのであつて、以上を綜合すれば平生署における山崎博巡査の上司は本件犯罪の発生時刻を想定し、被告人久永のアリバイが成立しないよう同巡査に供述をしむけ、且つ、同巡査をしてその供述を維持させるよう努めた疑いが極めて濃厚である。

さような事情もあつたためか、山崎は差戻前の控訴審の証人として「久永方に行くため大野の駐在所を出たのは一〇時のブーが鳴つて間もなかつたことは断言できる」と証言しながら、その直後裁判官の問に対して「結局上申書を一番最初に書いたからこれが正しい」と言い直し、同一の尋問手続においてすらその供述を変転せしめておるのである。

右一二月一五日付山崎検事作成の山崎博の供述調書によれば、同二九年夏頃平生署で正木、原田両弁護人に対し、同年末頃田布施派出所で原田弁護人に対し、同三〇年春頃平生署で朝日新聞記者富田実に対し、被告人久永方に行つたのは一〇時半頃である旨それぞれ言つたことを認めており、当審における証人富田実の証言によれば「私は取材のため昭和三〇年三月一八日平生署で山崎巡査と二人きりで会つた。その時山崎は、一〇時のサイレンを聞いて駐在所を出たので、久永方に行つたのは一〇時一五分か二〇分位だつたと言つた。」(三二冊一二四六一丁以下)と言い、右供述調書の関係部分とほぼ符合するのである。

更に、前示上申書(二冊四〇八丁)山崎博の原審における証言(一冊一二三丁)、前示一二月一五日付山崎検事作成の山崎博の供述調書(四九冊一九三〇六丁)等を綜合すれば、山崎博は被告人久永方に行つた時間が一一時四〇分ないし五〇分位であるということに合わせるため、ことさら、駐在所で一寝入りして被告人久永方に出かけたとか、駐在所から被告人久永方に行く途中方々廻り道をしたとか或は自分の時計が一昼夜に一五分から二〇分位遅れるというような不自然な供述をしたものと認められるばかりでなく、前示一二月一四日付山崎検事作成の山崎博の供述調書によれば、被告人久永方に行つた時間関係等について今まで述べたことが総て虚構であることを自認するに至つたのである。ところで、当夜午後一〇時頃、被告人阿藤及び久永が一緒に田布路木の中野末広方を辞去し自転車に二人乗りして帰途についたが、途中「天池」附近で自転車のチエーンが切れたのでそこからは二人で歩き、共に被告人久永方前まで帰り、被告人久永はそこで被告人阿藤と別れ自宅に立ち帰つたことは前に認定したとおりである(第一章第四の二参照)。当審検証の結果によれば、右中野末広方より平生町字佐木吉本表具店までの歩行所要時間は約四分強(一五冊五一五三丁)、右表具店より被告人阿藤が自転車のチエーンが切れたという同町「天池」附近の地点までの二人乗り自転車走行所要時間が約八分弱、右チエーンが切れたという地点より同町所在被告人久永の当時の居宅までの歩行所要時間が一六分弱(四五冊一七五二七丁以下)であることが明かであるから、被告人久永が自宅に立ち帰つた時間はおおよそ一〇時二八分頃と認定することができる。そして山崎博が被告人久永方に行つた時被告人久永が既に帰宅していたか否かの点については被告人久永の述べるところは必ずしも一貫しないけれども、後記上申書、上告趣意書を除く被告人久永の全供述、山崎博(時間関係は別として)、久永サイ子、久永恵エの全供述を通じて、山崎博が被告人久永方に行つた時、被告人久永が既に帰宅していたということは一貫して動かぬところであつて、この事実は真実と認めるを相当とする。被告人久永が差戻前の控訴審に提出し陳述した上申書、被告人久永の上告趣意書には右に牴触する記載があるけれども(六冊一二九五丁)(上告審一冊一八二〇丁裏)、山崎博及び久永サイ子の全供述に照すと、山崎博は当時被告人久永方に夜間再三出入りしていたことが推認できるから、右は被告人久永が他の日と混同して記載したものと認められ措信するを得ない。更に、原審及び当審における証人久永サイ子の供述(二冊四五八丁、二七冊九九〇〇丁裏、三一冊一一八二六丁)、原審及び当審における証人久永恵エの供述(二冊四二九丁、三五冊一三六三八丁)、差戻前の控訴審における証人山崎博の供述の一部(六冊一二一三丁)、前示一二月一四日付山崎検事作成の山崎博の供述調書の一部(四九冊一九二七七丁)その他諸般の証拠を綜合すれば、山崎博が被告人久永方に行つたのは、被告人久永が自宅に帰つてからおおよそ一〇分くらい後であると認定するを相当とするから、山崎博が被告人久永方に行つた時間はおおよそ一〇時四〇分頃と推認し得るのである。

以上のとおりであるから、被告人久永方に行つた時間が午後一一時以降一一時五〇分頃までであるとする前記一の1ないし4の一連の諸供述(或は記載)は山崎の前掲検事調書中の新供述をまつまでもなく虚構であることが明らかであつて、措信に値しないのはもとより、その時間が九時三〇分頃であるとする前記二の供述も亦到底信用し難い。

二、のみならず、山崎博は前示二の検事調書において「自分は午後九時三〇分頃久永方に行つたが、その時隆一は家におり、それから一〇分か二〇分位たつた頃外から阿藤がチヤンヂユウと声をかけて通り、阿藤が通つてから五分か一〇分くらい後、自分が久永方に行つてから二〇分か二五分くらい後午後一〇時のサイレンを聞いた」と言うけれども、被告人阿藤及び久永が午後一〇時頃中野末広方を辞去して帰途につき、午後一〇時半近くに久永方まで帰つたことは先に認定したとおりであるから、その前の午後九時三〇分頃被告人久永が自宅に帰つておる道理がなく、又午後一〇時のサイレンを聞く五分か一〇分前に被告人阿藤が久永方前で声をかけて通る筈もないのであつて、右供述は措信し難く、更に原審差戻前の控訴審及び当審における証人中野良子の各供述(一冊一六〇丁以下、六冊一一七六丁以下、二一冊七二九六丁以下)、原審及び当審における証人岩井武雄の各供述(一冊一四〇丁以下、二一冊七三七〇丁裏以下、七四二五丁裏、二二冊七七四一丁以下)、原審及び当審における証人久永サイ子の各供述(二冊四五一丁以下、二七冊九八九八丁以下、三一冊一一八二二丁以下)、原審及び当審における証人久永恵エの各供述(二冊四二九丁以下、三五冊一三六三四丁以下)、当審における被告人久永の供述(三六冊一四二一七丁以下)、原審及び当審における被告人阿藤の各供述(五冊九七九丁以下、三二冊一二五三九丁裏以下)、被告人阿藤の警察一回、三回各調書(四冊七八八丁以下、七九九丁以下)、前記当審検証の結果によつて明かな中野末広方より吉本表具店までの歩行所要時間が約四分強、右表具店より被告人阿藤がチエーンが切れたという「天池」附近地点までの二人乗り自転車走行所要時間が約八分弱であること、当審検証の結果によつて明らかな右チエーンが切れたという地点より被告人久永の旧宅までの二人乗り自転車走行所要時間が約七分半であること(四五冊一七五二七丁)その他諸般の証拠を綜合すれば、岩井武雄は、当夜中野末広方で最後まで末広の帰宅を待つたのであるが、同人が帰らないので午後一一時頃自転車で同人方を辞去して帰途につき、途中被告人久永方旧宅前で被告人久永に声をかけて通つたこと、その時間がおおよそ一一時二〇分過頃(岩井武雄の場合は夜間自転車一人乗りであり、右検証は昼間同二人乗であり、この間多少の誤差はあるにしても)、であると認めることができる。そうだとすれば前記一の1ないし4及び二の供述(又は記載)中右認定に牴触する部分は信用できない。

三、山崎博は前示一二月一四日付検事調書において、前記のとおり「自分が被告人久永方に行つたのは午後九時三〇分頃であつて、その際被告人久永は自宅にいたが、自分が行つてから四、五分もたたぬ頃外出し午前一時前後帰宅した」と言うのである。しかしながら、先に説明したとおり被告人久永が中野末広方から自宅に立帰つたのがおおよそ午後一〇時二八分頃であるから、その前である午後九時三四―五分頃には同被告人はまだ中野方から帰つておらず、従つてその時刻に自宅を立出るということは理に合わないのである。のみならず前示一二月一五日付検事調書によれば、山崎博は一月二九日朝方平生署留置場入口で、田布施町巡査部長派出所勤務の秋本部長から当夜久永方に行つたことがあるかと聞かれ、サイ子との事情関係がばれることを恐れて比較的早い時間である午後八時か九時頃行つた旨答えたこと、更に同日午前一〇時過頃平生署の署長室で松永次席等の幹部から、同月三一日頃、同署の刑事室で県本部の菊谷警部補からそれぞれ取調べを受けたこと、その際久永方に行つたのは前同様八時か九時頃、或は九時半頃でその頃久永が自宅にいたと述べていたことが認められる。そうだとすれば、右松永次席、菊谷警部補等がその際被告人久永がその後外出したか否かについて追及したのであろうことは疑う余地がないところであり、山崎博の全供述を綜合すれば、同人がその事実がないと答えたであろうことを推測し得るのである。このことは被告人久永が一月三〇日付警察二回調書において中野方からの帰途一旦自宅に帰つてから出かけたと供述している(四冊八八八丁)事実からしてもこれを窺うに十分である。そして前示一二月一五日付検事調書その他の証拠によれば、叙上各取り調べを受けた際、久永方に行つたのがそれではもつと遅いのではないかと追及を受け、それに口を合わせて冒頭掲記の二月三日付上申書(午後一一時四〇分か四五分久永方へ行つたら、隆一がいて間もなく寝た旨記載されている)が作成せられたことが認められる。左様な経過から考えると今回新たに突如として被告人久永が外出したと供述したからとて、その供述は極めて疑わしく、更に同調書によれば、久永サイ子が山崎博に対して同人が自宅に来たのは前認定にほぼ一致する午後一〇時半頃であると供述してくれと依頼した旨の記載があり、これに照応する証拠は数多くあるけれども、被告人久永が外出したことを、ことさら隠してくれと依頼したことは前記調書中の新供述を除き他には一も発見するを得ない。同調書によると「昭和二八年二月六日二審(差戻前)の証人調べがあつた日より一〇日以上も前に、隆一が出ていないように証言して貰わねばいけないという意味のことを、サイ子から遠廻しに頼まれた。」(一九三一二丁裏)とあるけれども、先に認定したとおり山崎博は昭和二三年頃より久永サイ子と情交関係を結び本件発生の当夜も情を通じた間柄であり、且つ右認定の際挙示した証拠によれば、差戻前の控訴審の判決言渡しがあつた後である同二九年頃まで時たま関係を結び往復を重ねていたことが認められる程であるから、被告人久永が当夜外出したことが事実とすればことは重大であり、山崎博が右に言うように遠廻しに頼む等のことはあり得ないと思われ、その他諸般の証拠と併せ考える時はさような依頼をしたとする前示供述に多大の疑問を持たざるを得ない。又同調書によれば「昭和二六年六月九日平生の公民館で八海事件の証人調べがあり、その前日本署に呼ばれ三好警部補から上申書通りしつかり証言するように言われたが警察と久永の間に挾まれてせんないので…」(一九三一〇丁裏)と言つており、更に前示一二月一八日付検事調書によれば「一審証言後間もない頃、サイ子に余り喧しく言わんでくれ、警察官としての立場も考えてくれねばいかん、余り言えば死ぬると言つた。」(一九六六一丁)と言つており、右各供述に従前説明した諸般の事情その他諸証拠を綜合すれば、山崎博は警察官たるの立場上上司の意図に迎合するような供述をせざるを得なくなり、一方サイ子より、久永が帰つた時間を午後一〇時半頃である旨正直に述べてくれと迫られ、上司及びサイ子双方の間に挾まれて心苦しかつたであろうことを窺知し得るけれども、被告人久永が中野方から帰宅した後更に外出し深夜帰宅した事実があり、これをサイ子のため隠してやつておるならば、山崎博はサイ子に対し恩を売つておるのであるから、同女が久永の帰つた時間を正直に言つてくれといくらやかましく言つたからとて、同女に対し警察官たる自己の立場上サイ子の意に副えないことを訴え死ぬとまで言う筈がないと思われる。

被告人久永が中野末広方から自宅に帰つてそのまま就寝したという点については、久永サイ子、久永恵ヱの全供述を通じ一貫して動かぬところであり、被告人久永においても警察における自白調書を除き同様である。山崎博の供述においても前示昭和三三年一二月一四日付以降の検事調書を除けば、自分が被告人久永方に行つた時は被告人久永は帰宅しており、そのまま就寝したと言う点に関する限り一貫しているのである。

敍上諸般の事実を彼此考察するときは、被告人久永が中野末広方から帰宅した後外出し、深夜帰宅したと言う山崎の供述は極めて疑わしいものと言わねばならぬ。

以上検討したとおり、山崎博の諸供述は種々の矛盾撞着があつて何れも容易に措信し難い。

第三、木下六子の供述

本件記録上明かなとおり、木下六子は本件犯罪発生当時被告人阿藤と内縁関係のあつた女である。従前ほぼ一貫して被告人阿藤にとつて有利な供述を続けていた女が、当審第六四回、六五回公判において従前の供述を変更し不利と思われる供述をするに至つたのである。そこで右第六四回、六五回の供述を仮りに新証言と言うことにし、その信憑力を検討する。

同女は第六四回公判において

「二四日は阿藤の母と口喧嘩をしたため昼食夕食とも食べなかつた。その日阿藤は午後七時前頃仕事から帰つて来たが、私は阿藤に母と喧嘩をして飯を食べておらないと言つたら、阿藤は丁度よい、借りる家を見に行こうと言うのでついて行つた。途中稲田に会い、三人一緒に上田節夫の家に行つた。阿藤と私は上田の家に上り貸してもらう部屋を見た。そして私達二人は稲田と共に上田の家を出て久永の家に行き、更に私は人島の阿藤の家に帰つたが、九時過頃松崎が来て、周ちやんは勘定を取りに行つており遅くなる、又明日から徳山に仕事に行くようになりパスを貸してくれと言うから取りに来てくれと言つた。そこで私と妹のサカヱは松崎について松崎の家に行つたが、その途中で一〇時のサイレンが鳴つた。松崎方でパスを受取り、その帰りに岩井商店附近で阿藤に会つたが、阿藤はチエーンの切れた自転車を持つていた。サカヱは先に人島に帰り、阿藤が自転車を押して、私は阿藤と共に上田の家に行つた。その途中八海橋を渡つたところで稲田に会つた。上田方に行つてからすぐ、阿藤は一寸出てくると言つて外に出た。それが午後一〇時一〇分か一五分頃であつた。私は座敷に上り床をしき服を着たまま横になつておると、三〇分か一時間した時、阿藤と稲田が一緒位に帰り、ついで二―三分位して松崎と久永が来た。その夜阿藤が米をとぎ、稲田が木を割り、飯ができたので皆でこれを食べた。更に阿藤がズボンと浴衣を洗濯し、それを表板の間に乾した。」(四六冊一八一三四丁以下)

と言い、第六五回公判において右供述を維持する趣旨の証言をしたのである(四七冊一八三七二丁以下)。

木下六子の新証言の一部、当審証人木下きくよの供述(三五冊一三九八〇丁以下)を綜合すれば、木下六子は被告人阿藤と別れた後、昭和二九年五月佐久間隆一と恋愛結婚し一子を儲けたこと、その結婚の際、将来本件のため当局より召喚を受けるであろうことを予期し、召喚を受けた時は出頭して被告人阿藤のため証言させて貰うことを条件としたのに拘らず、佐久間隆一は同女が度々取り調べを受けることを快く思わず、同女に対し再三暴行を加えたこと、遂に、同女は同三一年一二月子供を連れて同人と離婚し、更に前同様条件をつけて神徳多一と結婚し現在に至つていること、しかるに神徳多一も同女が本件のため度々取り調べを受けることを快く思つていないこと、同女は同三三年一一月一〇日偽証容疑で逮捕せられ二三日間勾留せられたのであるが、その間子供に対する愛情のため徹夜してでも早く取り調べられたい旨検察官に懇願したことを認めることができる。叙上の事情に本章冒頭説示の木下六子が検察官から執拗な取り調べを受けたと推測される事情等を併せ考察するときは、同女が現在の結婚生活を維持するため、或は子供に対する愛情にひかれ、又は検察官の執拗な取り調べに屈服して迎合的な新証言をなしたものでないとは保障し難いのである。そこで以下証言事項に従つてその信憑性を検討する。

一、木下六子は新証言において「定期券を借りるため、松崎、サカヱと共に人島の阿藤方を出て、小さい道を通り、大道路に出て又田の中の細い道に入り、それを三分の一位行つたところで一〇時のサイレンを聞いた。」(四六冊一八一四六丁、一八二〇三丁)趣旨に言うのである。木下六子が右に言う道順を当審検証調書添付図面(一五冊五一八〇丁第一、二図、第一図は平生町全図であつて縮尺二五〇〇〇分の一とあるから、その距離関係は正確なものと認められる)に照して考えれば、右サイレンを聞いたという地点は被告人阿藤方より松崎方に至る行程の少くとも三分の二は過ぎておるものと推測し得る。当審検証の結果によれば被告人阿藤方より松崎方までの徒歩所要時間は一五―六分(一五冊五一五四丁)、被告人松崎方より岩井商店南西方三叉路までの同所要時間は一分余(四五冊一七五二七丁裏)であることが明かであり、原審及び当審における証人阿藤サカヱの各供述(二冊四二四丁、三四冊一三三五一丁裏)、木下六子の新証言の一部(四六冊一八一九二丁)、当審における被告人松崎の供述(三四冊一三五二五丁裏以下)等を綜合すれば、被告人松崎が定期券を出して来てこれをサカヱに渡すに要した時間は二―三分位のものと認められる。そうだとすれば、木下六子がサイレンを聞いたという地点より被告人松崎方までの所要時間はいくら多くみても五分位、これにその後定期券を借り右三叉路に至るまでの所要時間を積算すれば、木下六子が被告人阿藤に会つたという時間は遅くても一〇時一〇分を過ぎておらないことになるのである。しかるに、前に認定したとおり(第一章第四の二参照)、木下六子等が被告人阿藤に会う直前に、被告人阿藤がその附近で曽村民三に会つた時間は午後一〇時半過頃であるから、木下六子が新証言で前記地点で一〇時のサイレンを聞いたということは措信し難い。のみならず、木下六子は新証言で「岩井商店附近で阿藤に会い、同人と連れ立つて上田節夫方に行き、そこを阿藤が出たのが一〇時一〇分か一五分位であつた。」(四六冊一八一九二丁)と言うけれども、右認定に照せばその頃はまだ被告人阿藤はまだ木下六子に出会つておらない道理である。従つて右時間より前に二人連れ立つて上田節夫方に行くことはあり得ないから、この点についても新証言は俄かに措信し難いのである。

二、二四日夜被告人松崎が人島の阿藤方を訪ねた際風呂をぬくめておいて貰いたいとの阿藤の伝言を伝えたことは前に認定したとおりである(第一章第四の二参照)。又同夜岩井商店附近路上で被告人阿藤が木下六子等に会つた際同女等に対し、割木を買つて帰ろうと思つておると言つたことは、新証言(四七冊一八三八六丁裏)、その他木下六子のその前の当審における諸供述(二八冊一〇三六三丁裏、三〇冊一一五八四丁)、原審証人阿藤サカヱの供述(二冊四二七丁)によるも動かぬところである。そうだとすれば、被告人阿藤は中野方からの帰途人島の自宅に帰るつもりであつたことが明かであつて、このことからすれば、一月二四日夕方阿藤が六子と共に秘かに家出して上田方の一室を借り受けたと言う木下の新証言自体が疑わしく、従つて阿藤がサカヱ、六子等と出会つた後六子を伴つて上田方へ行つたと言う証言部分も容易に信用し難い。

三、木下六子、阿藤サカヱが二四日午後一〇時半過頃平生町岩井商店附近路上で被告人阿藤に会う直前、同女等が被告人松崎と共に同被告人方に至り、阿藤サカヱにおいて同被告人より定期乗車券を借り受けたことは前に認定したとおりである(第二章第一の一参照)。新証言によれば、右三名が岩井商店附近路上で会つた後、サカヱは人島の自宅に帰り、被告人阿藤及び六子は上田節夫の家に行き、その後同夜同家で被告人阿藤及び松崎等が一緒になつたと言うのである。同夜被告人阿藤及び松崎が一緒になるのであれば、その際被告人松崎は被告人阿藤に定期券を渡せば足るのであつて、わざわざ被告人松崎が六子、サカヱを自宅まで連れて来てサカヱに定期券を貸し与える必要は毫も存しないのである。更に又本件記録によれば、翌二五日早朝より被告人阿藤が徳山へ仕事に行つたことは明かであり、その際同被告人は右定期券を利用したものと推測し得るのである。しかるに阿藤サカヱと被告人阿藤等が別れたという時、サカヱが右定期券を被告人阿藤に渡したかどうかの点についての新証言は極めて曖昧であるのみならず(四七冊一八三九三丁以下)、却つて右新証言その他の証拠を綜合すれば、その際右定期券はサカヱから被告人阿藤に渡されなかつたものと推認するのが相当である。しかもその後翌朝までの間に、人島のサカヱから上田方の被告人阿藤に右定期券が渡されたという証拠はもとより毫も存しない。これらの点からしても前記証言部分は首肯し難い。

四、新証言において「二四日夕刻上田方部屋を見分した後、被告人阿藤と共に被告人久永方に行つた。それはうどんを食べさせてやるというのでついて行つたが人がおり恥かしかつたので家にも入らず、うどんも食べなかつた。」(四六冊一八一四一丁裏)というのである。しかも同女は前叙のとおり同日昼も夕食もとつておらないと云うのである。差戻前の控訴審検証調書(六冊一二二九丁裏)によれば、被告人久永方は一部は食堂になつており、何人でも自由に出入りし得ることが明かである。昼から食事をとつておらない木下六子が、わざわざ上田方から被告人久永方までうどんを食べるため被告人阿藤と同行したと云いながら、単に恥かしいという理由でうどんも食べず被告人阿藤方に引揚げたということは理解し難い。

五、新証言によれば「二四日被告人阿藤の母と口論をしたため昼食夕食とも食べなかつたが、同日夕刻被告人阿藤が帰つて来た際その旨を告げると、同被告人は丁度よい、借りる家を見に行こうと云い、共に上田節夫方に至り、貸して貰う部屋を見分した」と云うのである。しかも「被告人阿藤と共に上田方部屋を見分した後、共に被告人久永方に至り、そこで被告人阿藤と別れ上田方には行かず人島の被告人阿藤方に帰り風呂に入つた」とも云うのである(四六冊一八一四三丁)。被告人阿藤の母と口論し昼食夕食共に食べなかつた木下六子が、せつかく借りる部屋を見分までしたと云いながら上田方には行かず被告人阿藤方に戻つたということは不可解である。この点について木下六子は新証言で「阿藤が風呂に入つておけと云つたから帰つた」(四六冊一八一四二丁裏)と云い、「知らない若い男の人、一人だつたので主人が帰るまでと思い人島の方に帰つた」(四六冊一八二一二丁裏)とも云う。そうだとすれば、これは被告人阿藤が人島の自宅に帰ることを前提としたことになり、この証言部分からすれば、前掲三と同様当日夕方秘かに阿藤と二人で家出し、上田方一室を借り受けたと云う新証言自体が疑がわしいことになる。

六、新証言によれば「当夜岩井商店付近路上で阿藤に会い、一緒に上田方に行つたが、その際同人方に明りはついていたが誰もいなかつた。阿藤は一寸出てくると云つて外に出た。上田方は戸口がしまつており障子がしめてあつたが、自分は阿藤が帰つてくる三〇分か一時間の間、寝ないで待つていたのに、上田が外から帰つて来たことに気がつかなかつた。」(四七冊一八四〇四丁以下)趣旨のことを云うのである。当審検証の結果(一五冊五一五二丁、五一八二丁、第九図)に徴すれば、上田節夫方は六畳、四畳半の間各一、三畳の間二、他に土間がある家であつてさして大きい家でないことが認められる。それなのに寝ないで一人夫の帰りを待つていた木下六子が、上田節夫が外から帰つて来たことに全然気がつかなかつたということは不可解である。しかも山口地方裁判所岩国支部裁判官田辺博介の証人上田節夫尋問調書(昭和三三、一一、一〇付)によれば、上田節夫は「午後一〇時半頃福屋方から帰り阿藤等に貸した部屋と襖一枚へだてた隣室に寝た。」(四九冊一九二六〇丁)と云つておるのである。

七、新証言によれば「阿藤は午後一〇時一〇分か一五分頃上田方を出て、三〇分か一時間たつた頃稲田と一緒に帰り、二―三分して松崎、久永が来た。そして阿藤が米をとぎ、稲田が薪を割り飯を炊いて皆んなで食べた後、阿藤が浴衣、ズボンを洗濯してそれを干した」と云うのである。しかるに、差戻前の控訴審検証調書(六冊一二二六丁、一二三一丁、第三図)によれば、早川方と八海橋西詰までの距離は五五〇米余であることが認められ、又当審検証の結果(一五冊五一五二丁、五八八一丁、第四図)によれば、上田節夫方は八海橋西詰近くにあり、その南側近くを田甫を隔てて東西に道路が通じ、しかもその東側に近接して土手末雄方があることを認めるに十分である。前記新証言を真実と仮定し、且つ被告人等が吉岡と共同して本件の犯行をなしたものとするならば、被告人等は犯行直後被害者早川方から程近く、しかも南方に道があり、東側に近接して土手末雄方のある上田方へ全員集結して薪を割り、飯を炊き、或は洗濯したと云うことになるのであるが、吉岡の云うように用意周到な被告人阿藤が果して犯罪の最も発覚し易い右のような愚行を敢てしたであろうか疑問なきを得ないのみでなく、人間の自己防衛本能に照しても容易に首肯し難い。従つて前掲新証言に疑惑を抱かざるを得ない。

八、新証言によれば「当夜上田節夫方から阿藤が外出して三〇分か一時間して被告人等が帰つて来たが、その際久永がトランクを提げて来た。それは青いような普通の大きさのものであつた。又阿藤が色ものの袋に包んだ一升位の米を持ち帰つた。」(四六冊一八一五六丁裏、一八一九三丁裏以下)と云うのである。被告人阿藤等が仮りに本件犯行をなしておるとすれば、新証言全体の趣旨から考えて、被告人阿藤が外出したという右の三〇分か一時間の間をおいては外にない。しかし、右トランク及び米が早川惣兵衛方の被害品であるとの証拠は全然ない。もしこのトランクが被告人久永のものであるとすれば、被告人久永が何の必要があつて当夜このトランクを提げて早川惣兵衛方に行つたのか理解できないばかりでなく、本件記録上毫もその形跡はない。又右米を被告人阿藤が何処から入手したものか証拠上これを認め得る何ものもないのである。

尤も当審証拠調べの結果(前出証人阿藤サカエ、同木下六子「但し三三回及び三七回公判」同阿藤小房、同上田節夫の各証言及び各被告人の供述)によれば、一月二六日夕方被告人等が六子及び上田等と共に平生座へ赴き、その際、被告人阿藤が知人より米を入手し、上田方へ帰宅後これを炊焚して被告人等及び六子等が食べたこと及び一月二八日被告人阿藤が六子と共に同女の郷里三田尻へ赴く際トランクを携行したが、そのトランクはそれより前久永より借り受けたものであることを推認できるから、若し善意に解するならば、前掲新証言はこれらの事実を錯覚混同したものとも解される。

九、新証言によれば「当夜上田方で米をとぐ時阿藤が棒電池を出して私に渡した。」(四六冊一八二二二丁裏、一八二七〇丁裏)と云うのである。被告人久永の警察二回調書によれば「阿藤は犯行当夜棒電池を持つていた」(四冊八九五丁)とあり、同五回調書によれば「早川家室内は真暗であつたので、吉岡か阿藤かが棒電池を持つておつたと思う。」(五冊九一九丁)となつておるけれども、これ等の調書は別途論証したとおり到底信用し難いものであり、その外の全証拠を調査してみても、吉岡が早川方で棒電池を使用し、犯行後これを携帯して寿楼に登楼し、同楼で逮捕当時押収されたことは明らかであるのに反し、被告人阿藤が当夜棒電池を持つていたと推測せしめるような証左は何一つ発見するを得ない。

一〇、新証言において「当夜私は松崎方からの帰りに阿藤と会い共に上田方に行くと、阿藤は一寸出てくると云つて三〇分か一時間位して帰つて来た。阿藤が出た時間は一〇時一〇分か一五分位ではないかと思う。阿藤等が上田方に帰つて来てから米をとぎ、割木を割り、飯をたきつける時、松崎が佃煮を買いに行くと云つて上田方を出て、飯ができたのと同じ位の時に塩こぶを買つて来た。」(四六冊一八一五四丁裏以下、一八一九二丁)と云うのである。木下六子等が被告人阿藤に会う直前、被告人阿藤がその付近の平生町岩井商店付近路上で曽村民三に会つたのが午後一〇時半過頃であると認められること、被告人阿藤が六子等と出会つた岩井商店付近路上より八海橋東詰までの歩行所要時間が約九分と推測されることは何れも前に説明したとおりである。(第二章第一、一、参照)、そして八海橋東詰より西詰までの同所要時間が約一分半であること、上田節夫方は八海橋西詰近くにあることは何れも当審検証の結果(一五冊五一五二丁、同丁裏、五一八一丁第四図)によつて認められるから、被告人阿藤が六子等に会つた地点より上田節夫方までの歩行所要時間は約一一分余と推測される。そうだとすれば、木下六子が被告人阿藤と共に上田節夫方に到達したという時間は午後一〇時四〇分過ぎになる筈である。木下六子は新証言において、被告人阿藤は上田方につくとすぐ外出し三〇分ないし一時間して帰つて来たと云うのであるから、被告人阿藤が上田方に帰着したという時間は一一時一〇分過頃から一一時四〇分過頃となることは明かである。その後米をとぎ、割木を割り、飯を炊く時間等数十分を見積れば、被告人松崎が塩こぶを買つて来たという時間は一二時近くか或は一二時を相当時間経過し、何れにしても深夜となる道理である。一月二四日の厳寒の時期に、右のような深夜本件記録上窺知し得る平生町のような田舎町で塩こぶを買つて来ることが果して可能であるか疑問なきを得ない。現に原審及び当審における証人曽村民三の供述(二冊三八二丁以下、二三冊八二八六丁裏以下)その他の証拠によつて認め得るように、同日午後一〇時半過頃曽村民三は酒を買うため平生町岩井商店、鈴木商店を起したのであるが、起きなかつたため、酒を買うことができなかつたのである。このことからしても前掲新証言は首肯し難い。尤も時間の点は兎に角一月二六日夜被告人等が上田方で飯を炊いて六子等と共に食事したと推認されることは、前記八で記述したとおりである。

一一、新証言によれば木下六子は「二四日夜阿藤は服の下に着こんでいた浴衣とズボンを洗濯した。阿藤はその浴衣は寒いから朝から着こんでいたと云うていた。」(四六冊一八一六〇丁、一八一九八丁、一八二六六丁)「二四日夜洗つた洗濯物は二五日、二六日の二日間干した。干した場所は上田方入口の板の間であつて、あければ誰でも見えるところである。その間巡査が二回来たが洗濯物のことは何も聞かなかつた。」(四七冊一八四三〇丁)と云うのである。前に説明したとおり被告人阿藤は二四日夜国防色作業上衣(証第一五一号)、茶色オーバー(証第一五四号)及び作業ズボン(証第二四号)を着用していたものと認められ(第三章第一の一、被告人等の着衣参照)新証言のとおりであるとすれば、被告人阿藤は当日これ等の衣類の下に浴衣を着用していたことになるのであるが、いかに厳寒の候とは云えかような服装をして田名海岸で砂利採取をなし、或は田布路木の中野末広方に勘定を貰いに行く等ということは不自然の感を免れ難いのみならず、仮りに右上衣又はオーバーの下に浴衣を着て早川惣兵衛方に至り本件凶行に及び返り血を浴びたとすれば、右上衣又はオーバーに血痕が附着するのが理の当然であるに拘らず、前に説明したとおり(前同参照)オーバー、上衣等に血痕が附着した形跡は認められない。さすれば、その下に着こんでいたという浴衣を被告人阿藤が当夜こと更洗濯する必要は毫もなさそうに思われるのである。従つて浴衣と共にズボンを洗濯したという証言部分も疑問なきを得ない。又二五日二六日と云えば本件犯罪発生の直後であるから警察当局は全力を尽して聞込み等による捜査をなしていたであろうことは容易に想像しうるところである。当審における証人松本正寅の供述(三七冊一四五一六丁)、土手タマヱの検察官に対する供述調書(昭三三、一、一二付二七冊一〇三〇丁以下)、福屋ユキの検察官に対する各供述調書(昭三三、一一、四付四六冊一八三一三丁以下、昭三三、一、一五付四八冊一八八三六丁以下)、当審における証人上田節夫の供述(二七冊一〇一六五丁裏)により認め得る上田節夫が本件犯罪の嫌疑により一月二八日逮捕された事実等を綜合すれば、上田節夫は本件犯罪が捜査当局に発覚した二五日頃より嫌疑をかけられていたことが認められるから、捜査官が昼間上田方屋内に洗濯物が干してあるのを目撃したとすれば、異常の事柄に着目し当然それについて問い訊すものと思われる。しかるに、新証言によるも巡査は二回上田方に来たが、洗濯物のことは何も聞かなかつたというのであり、本件犯罪発覚当時の捜査記録を検討するも上田節夫方屋内に洗濯物が干してあつたとは一言半句も記載されていないのは不可解である。

一二、最後に新証言と関係証人等の諸供述とを比較考察する。

1、吉岡は当公廷その他において本件犯行前被告人等集合の状況として、八海橋上の平生寄りで平生方面から来た阿藤、松崎、久永に会い、八海に向い橋を渡つた頃、稲田に会つた(吉岡警六回三冊六〇七丁、吉岡検四回三冊六三八丁、当審公判四一冊一六〇五七丁以下)と云い、本件犯行後被告人等解散の状況として、八海橋を平生側に渡り堤防を川下に若干下つたところで金を分け、阿藤、松崎、久永はそれぞれ家に帰り、自分は稲田と二人八海橋を渡り家に帰りかけたが、別れて柳井に行つた(吉岡警六回三冊六二一丁、同五回三冊五九三丁、原審検証調書中吉岡の指示説明一冊三八丁、原審公判二冊四七三丁、当審公判四一冊一六〇五七丁以下)趣旨に云うのである。しかるところ木下の新証言によれば「私は阿藤と二人で上田方に行く途中稲田に会つたが、稲田は八海橋を渡つて川添いに右に折れる辺に立つており、阿藤が稲田に後から来るとかなんとか一寸言つていた。私は阿藤と二人で上田方に行つたが、稲田はついて来なかつた。上田の家に行くと阿藤は一寸出てくると言つて外に出かけ、私は八海橋の方に行くのを見た。橋の手前、上田の方に下る道に人影が二人程見えたが、誰か分らなかつた。私はそれを上田方軒先で見た。私は床に入り三〇分か一時間位した時、稲田と阿藤が一緒位に帰り、二、三分位して松崎と久永が来た。久永が一番最後に来た。」(四六冊一八一五〇丁裏以下)と言うのである。

被告人阿藤等が仮りに本件犯行をなしておるとすれば、新証言全体の趣旨から考えて、右被告人阿藤が外出したと言う三〇分か一時間位の間をおいては外にないこと前に述べたとおりである。新証言によれば、犯行に行く直前と思われる上田方へ行く時に、被告人阿藤は八海橋を八海部落側に渡つたところで被告人稲田に会い、被告人阿藤が上田方を出た直後八海橋の手前即ち、八海部落側に人影を二人程見たと言うのである。木下六子はその人影は誰か分らぬとは言つておるけれども、恐らく被告人阿藤を除くその余の被告人等のうち誰かを指すものと考えても差支あるまい。即ち、新証言より推測すれば被告人等が早川家に行く直前、八海橋の八海部落側のたもとあたりで、被告人阿藤は被告人稲田その他の者と一緒になつたと見られるのに反し、吉岡の言うところによれば、被告人阿藤、松崎、久永は平生方面から来て八海橋上の平生寄りで吉岡と一緒になつたことになり、両者の供述がくい違うのみならず、新証言によれば吉岡を除く被告人等全員が犯行直後と思われる頃右上田方に集結したことになるに対し、吉岡は阿藤、松崎、久永はそれぞれ家(何れも平生町)に帰つた趣旨に言い両者の供述がくい違うのである。

2、山口地方裁判所岩国支部裁判官田辺博介の証人上田節夫尋問調書(昭三三、一一、一〇付)によれば

「一月二四日夜私は福屋に遊びに行き一〇時のサイレンを聞き暫くして自宅に帰つたが、その時間は一〇時半頃ではないかと思う。家に帰つてみると、阿藤等はいなかつた。私が寝て暫くした頃人声がするので目がさめ、阿藤夫婦が帰つて来たことがわかつた。その時刻は早くて一一時頃遅くて一二時頃だつたと思う。その時稲田も来ていた。その後松崎、久永が表玄関から入つて来た。」(四九冊二五八丁以下)と云うである。

そうだとすれば、木下六子は当夜被告人阿藤等と行動を共にし、午後一一時ないし一二時頃両名一緒に上田方へ帰つたことになり、一方木下六子の新証言によれば、同女は被告人阿藤の外出中三〇分ないし一時間上田方で寝ないで待つていたというのであつて、両者の供述が完全にくい違うのである。

3、前同証人上田節夫尋問調書によれば

「私は一月二五日朝起きて、三畳の板の間に洗濯物が干してあるのに気がついたが、私の憶えておるのは浴衣、ジヤムバー、ズボンの外下着類で五、六点位だつたと思う。干してあつた浴衣は、前の晩私が見た阿藤の浴衣に間違いない。その洗濯は誰が何時したのかはつきりは知らないが、おそらく木下が自分が寝てからしたものと思う。」(四九冊一九二六七丁)と云つておるのに対し、木下の新証言によれば

「食事が済んで私が茶碗を洗つていたら、阿藤が今日寒かつたから浴衣を着こんでいたが襟あかがついたからと云つて浴衣を脱いだ。阿藤は上田に盥のあり場所を聞き、土間の向うにあると云うことだつたので、盥を出して二人で水を汲み、阿藤が腕まくりして洗濯をした。洗つたものは「ズボンと確か浴衣だつたと思う。他のものはなかつた。それを阿藤が上田方の板の間に干した。」(四六冊一八一五九丁裏)

と云い、更に土手タマヱの検察官に対する供述調書(昭三三、一、一二付二七冊一〇三〇八丁以下)によれば、同女が上田節夫方で洗濯物が干してあるのを目撃したというのは一月二六日朝方であり、それは白い長袖のワイシヤツ様なもの一枚、男物の洋服類で色物の上衣、ズボン様のもの計四点位であつて、まだ濡れており、干してある衣類の下の板の間に水の滴が丸く落ちてまだその水が残つていたと述べておるのである。

以上のとおり洗濯物の種類点数が互に相違し、又上田節夫によれば、何時誰が洗濯したのかわからないのに対し、木下六子によれば二四日夜被告人阿藤が洗濯したことを上田節夫において知つておるようにとれるばかりでなく、土手タマヱによれば洗濯したという日が他の二人の場合と異り一日ずれることになるのである。

以上記述したように、木下六子の新証言は従前の自己の諸供述と根本的に相違するのみでなく、それ自体に矛盾するものもあり、或は不自然ないし不合理な点も散見し、吉岡及び被告人等の各自白供述その他関係証人の証言とも牴触する部分が多く容易に信用し難い。なお六子が女性にとつて極めて重大な事柄である佐久間隆一、神徳多一等と結婚するに際し、何れの場合にも被告人阿藤のため将来証言台に立つことの諒解を求めた真摯な態度とその情熱とに想いを致すならば、これと氷炭相容れない新証言はこの観点からしても到底首肯するを得ない。

第四、上田節夫の供述

上田節夫は当公廷において「一月二六日目がさめたら被告人阿藤のものではないかと思われる浴衣、作業衣、下着一枚が洗濯して干してあつた。」(二七冊一〇一六二丁以下、一〇一九四丁、一〇二一〇丁、一〇二四一丁以下)と証言し、更に山口地方裁判所岩国支部裁判官田辺博介の証人上田節夫尋問調書(昭三三、一一、一五付、昭三三、一一、八付、昭三三、一一、一〇付三通)において「一月二四日の晩から被告人阿藤夫婦に部屋を貸したが、同人等は同夜外出し、夜の一一時か一二時頃二人で帰つて来た。その頃被告人稲田、松崎、久永もやつて来た。同夜被告人阿藤等は飯を炊き食事をしたが、翌二五日朝起きて見ると被告人阿藤の浴衣、ジヤムバー、ズボンの外下着類で五、六点が干してあつた。」(四九冊一九二四二丁、一九二四七丁以下、一九二五八丁以下)と云い、警察調書(三冊五一一丁、四八冊一九〇九七丁)、検事調書(四九冊一九二二四丁)、原審証言(一冊一八五丁)で供述していたところを変更し、或は従前述べていなかつた新事実について証言をするに至つたのである。右掲記の証言を新証言と云い、以下その信憑力を検討する。

一、仮りに被告人阿藤等が本件犯行を計画しこれを実行したものとすれば、上田節夫が新証言で云うように、同人方に犯行直後被告人等全員集合し、深夜飯を炊き洗濯をしてこれを干す等犯罪の発覚し易いような愚行をなすとは考え難いこと前に説明したとおりであるが(第三、一、参照)、更に、原審証人三好等尋問調書(一冊一〇二丁)、当審証人上田節夫の供述(二七冊一〇一六五丁裏)を綜合すれば上田節夫は本件犯罪の嫌疑を受け、一月二八日午後一一時頃逮捕されたが、捜査の結果アリバイが成立したので同月三〇日釈放されたことが認められる(一冊一〇二丁)。犯罪の嫌疑を受け逮捕までされておる上田が、その逮捕直後の一月二九日付司法警察員に対する供述調書(四八冊一九〇九七丁裏)によれば、一月二五日から被告人阿藤夫婦を泊めたと云つており、なお、前叙夜間の外出、帰宅後の食事洗濯等一連の事実については一言も供述しておらないのである。本件記録上上田は被告人稲田とは或る程度の交友関係があつたことは認められるけれども、その他の被告人等とは特段の交友関係があつたとは認め難く、何れにしても極めて重大な犯罪の嫌疑を受け切迫した立場にある自己を犠牲にしてまで被告人等のため虚偽を申立て或はことを秘匿せねばならぬ事情は発見し難く、右警察調書で述べておることは真実とみるのが自然である。なお、本件犯罪発生直後に作成された殺人事件捜査報告書(昭二六、一、二六付司法警察員富山義敬より熊毛地区警察署長宛のもの)(四八冊一九〇六六丁)、強盗殺人事件捜査報告(昭二六、一、二七付前同人より前同署長宛のもの)(四八冊一八九九五丁以下)によれば、上田節夫、被告人阿藤等の動静を近隣の者より内偵したところ、被告人阿藤夫婦が上田方に泊つたのは一月二五日となつており、前叙洗濯等の一連の事実については一言半句も触れていない。〔尤も、巡査近間忠男作成にかかる稲田実の取調メモと題する書面(四六冊一八二九六丁)によれば、被告人稲田が検察官に対し、被告人阿藤等が一月二四日から上田方に宿泊した趣旨の供述をなしたことを窺わせる記載があるけれども、これは供述調書作成前の下調べ段階における単なるメモであり、先に説明したとおり(第一章第四、一、4、稲田供述参照)被告人稲田が一月二二日のことを二三日のことと誤解していたこと、一月三一日付稲田警察二回自白調書で「一月二五日後阿藤方に行つたら、阿藤が今日妻とお袋が喧嘩をして家にはおられないから八海の上田節夫に泊らして貰うよう話してくれと言うので一緒に上田方に行き阿藤等二人のことを頼んだ。」(四冊八六六丁)と述べておる外、その後一貫して同旨の供述をなしていることその他諸般の証拠を綜合すれば、右は被告人稲田の記憶ちがいに基くものと認めるに十分である。〕

二、新証言によれば「一月二四日夕方六時前頃阿藤、木下に部屋を貸すことに決めたが、その頃に松崎、久永が来た。阿藤はそのどちらかに旅館に置いてあるトランクを持つて来てくれと言つたので、松崎か久永かが草色のトランクを持つて帰つた。その後阿藤は田布路木に行くと言い、阿藤等は外に出たがその時間は八時か八時半頃だつたと思う。」(四九冊一九二五三丁裏以下)旨の証言部分がある。しかしながら、被告人阿藤がトランクを旅館(橋柳旅館を指すものと解せられる)に置いていて、それを被告人松崎か久永かに取つて来させたということは、上田が新証言において初めて供述したことであつて、もとよりこれに照応する何等の証拠もない。しかも、右供述によれば、トランクを旅館から持つて来させたという時間が午後六時頃から八時半頃までの間であつて、被告人阿藤が田布路木中野末広方に賃金を貰いに行く前のことになるのである。しかるに前に説明したとおり(本章第三、八、参照)、木下六子は新証言において阿藤が中野末広方からの帰途上田方に行き、その後上田方を出て三〇分か一時間して被告人等が上田方に帰つてきたが、その際久永が青いようなトランクを提げて帰つたというのである。両者言うところのトランクの色が同一であると認められるところから、同一の物件を指すものと解せられないことはないけれども、それにしても両供述に時間関係、前後の事情等甚だしい相違があり、この相違は単なる記憶違いによるものとは到底解し難く、しかも両者の供述に何れもこれに照応する何等の証左がないところよりすれば、これらの供述はたやすく信用できない。

三、上田節夫は新証言において「二四日午後八時か八時半頃阿藤に自分の自転車を貸してやつたが、阿藤は同夜遅く一一時半か一二時頃私の家に帰つて来て『田布路木に行く途中八海橋の向うの樋門のところでチエンが切れたので自転車は請負師の小屋の裏に隠しておいた。平生座の入口のところの自転車屋で自転車を借りて田布路木に行つて来た。』と言つた。」(四九冊一九二三八丁裏以下、一九二六二丁)、「当夜阿藤等が飯を炊いて食べた時、阿藤が松崎に『わしの自転車が外にあるからそれに乗つて平生に出て佃煮を買つて来てくれ』と頼み、松崎は塩こぶの佃煮を買つて来たが、松崎は阿藤に頼まれて阿藤の自転車を土間の中に入れてから自宅に帰つた。」(四九冊一九二六四丁裏以下)、「阿藤に貸した自転車は翌朝たしかめてみたらチエーンがハンドルに巻きつけぶら下げてあつたので、近くの神所自転車店に持つて行き四〇〇円で修理して貰つた。」(四九冊一九二三九丁裏、一九二六六丁裏)と言い、柳井簡易裁判所裁判官上村実の証人岩井武雄尋問調書によれば、恰も上田節夫の右新証言前段に口を合わせたように「中野に行くため二四日午後七時頃皆が久永方に集つたが、その際阿藤が皆の者に、ここに来る途中自転車のチエーンが切れたので樋門のところにある小屋に置いて来たと申していた。久永方から中野に行く時は阿藤も自転車に乗つて行つたので誰かの自転車を借りたのではないかと思う。」(四九冊一九二二九丁)となり、木下六子の新証言によれば「当夜松崎方でパスを受取り、その帰りに岩井商店附近で阿藤に会つたが、阿藤はチエーンの切れた自転車を持つており、阿藤がその自転車を押して、私は阿藤と共に上田の家に行つた。」(四六冊一八一四八丁裏以下)と言い、なお、上田節夫の敍上新証言中段に口を合わせたように、「当夜稲田や松崎が上田方から帰る時自転車を上田方土間に入れたが、それはチエーンの切れた自転車とは別の自転車であつた。私が休む時上田方土間にはチエーンの切れた自転車と右稲田等が入れた自転車の二台があつた。後の自転車は二五日朝阿藤が仕事に出る時乗つて出たが帰つた時には持つて帰らなかつた。」(四六冊一八二三〇丁―三丁)と言つておるのである。被告人阿藤は当夜自転車に乗つて田布路木中野末広方に赴き、被告人久永を相乗りさせて同所より帰途についたが、「天池」附近でチエーンが切れたので、その後は二人が歩いて帰つたこと、被告人阿藤は久永方前で被告人久永と別れ自転車を押しながら帰つていたところ、岩井商店西角附近路上で松崎方から帰りつつあつた六子等に出会つたことは先に認定したとおり(第一章第四の二参照)であり、被告人阿藤が中野方に乗つて行つた右自転車は、同日夕方中野方に赴く前、被告人稲田が人島の阿藤方に置いていた弁当箱を取りに行くついでに、同被告人に頼んで持つて来て貰つた被告人阿藤自身の自転車であることは阿藤警察一回、三回各調書(四冊七八八丁、七九八丁)、木下六子警察調書(三冊五一六丁)、阿藤、稲田の各上申書(六冊一二六四丁、一二八七丁)、当公廷における被告人阿藤の供述(三二冊一二五三一丁以下)、阿藤、稲田の各上告趣意書(上告審一冊一七八九丁、一五九五丁裏以下)等によつて認め得るところである。されば右上田、岩井の供述するように、被告人阿藤が自転車屋等から自転車を借りそれに乗つて中野方に行つたということは措信し難いばかりでなく、もとよりこれに照応する何等の証拠もない。又右説明のとおり「天池」附近で自転車のチエーンが切れたことは動かし得ない事実であるから、右供述のように樋門のところでチエーンが切れたとすれば、当夜二台の自転車のチエーンが切れたことになり極めて不自然であるのみならず、木下六子が右に言う上田方に押して行つた自転車はまさに被告人阿藤の自転車であつて「天池」附近でチエーンの切れたものを指すことになり、なお、木下六子の新証言、その他の証拠によるも、被告人阿藤が、同夜八海橋近くの樋門の附近においたというチエーンの切れた自転車を上田方に持帰つた事実は認められないから、上田が右修理したという自転車は被告人阿藤が「天池」附近から押して帰つた同被告人自身の自転車となる筋合であり、従つて上田は被告人阿藤から別段依頼されたなどの事情もないのに同被告人の自転車を四〇〇円も出して修理したことになるのである。なお上田、木下の供述によれば当夜上田方には、被告人阿藤が押して帰つたと木下の言うチエーンの切れた自転車の外に、更に一台の故障のない自転車があつたことになるのであるが、これは何人が何時何処で入手し、又いかに始末したか全然不明である。

四、新証言において「二四日の午後一一時、遅くて一二時頃阿藤夫婦が帰つて来て、続いて稲田、松崎、久永がやつて来たが、その際稲田が阿藤に向い吉岡は何処に行つただろうが、おらないと言い、松崎、久永のどちらかが吉岡は平生の方におらないと言い、阿藤が吉岡は何処に行つたんだろうかなあと言つていた。私は吉岡を探すのを不思議に思い、阿藤に吉岡を探してどうするのかと尋ねると、阿藤は、吉岡はまだ馬車を倒した時の酒代を払つておらないが、期限が過ぎたのに何をしておるのだろうかと言つていた。」(四九冊一九二六二丁裏)と言うのである。

被告人等が吉岡晃と共同して本件犯行をなし、その直後吉岡と別れ被告人等全員が上田方に集つたものとすれば、今別れたばかりの吉岡の所在について、被告人等が上田節夫が右供述するような会話を交わすことは不可思議である。

五、その他上田節夫の新証言と木下六子の新証言が重要な点においてくい違つていることは先に説明した(本章第三、一二、2)とおりであるが、なお被告人阿藤等が洗濯したということに関する上田の供述自体その変動が甚だしいのみならずその変動の経過についても理解しがたい点がある。例えば前叙のとおり、同人は当公廷において一月二六日浴衣、作業衣、下着一枚が洗濯して干してあるのを見たと証言しながら、裁判官の証人尋問調書においては、右の前日である一月二五日浴衣、ジヤンパー、ズボンの外下着類で五、六点が干してあるのを見たと云うのである。又昭和二六年六月九日原審証人として「阿藤等が私方におる時女が誰かが洗濯したようなことがあつたかなかつたか覚えない」(一冊一九一丁)と云いながら、それより満七年有余経過した同三三年七月八日の当公廷で「昭和二七年六月に子供が生れたが、その前頃盥を取りに元の家に帰り親しい家に挨拶して廻つた際あちこちから洗濯物が干してあつた噂を聞き、そのことを思い出した。洗濯物のことはその前は考えても分らなかつたが、昭和二七年になつてから思い出した。」(二七冊一〇一九九丁、一〇二一〇丁裏、一〇二一二丁)旨証言し本件犯罪発生後間もない同二六年六月に思い出せなかつたことを満一年後である同二七年六月に至つて叙上の経緯で思い出したと前言をひるがえし、更にその後同三三年一一月の前示裁判官尋問調書においては前記のとおり、洗濯物を目撃した日時及び点数について当公廷の証言を変更したのである。これらの証言内容と変動の経過等を考慮するときは、洗濯物を目撃したと称する証言それ自体に深い疑惑を抱かざるを得ない。

以上論証したところによつて明かなとおり、上田節夫の新証言は理解し難い点があるのみならず、関係証人等の諸供述とも符合しないのであつて、到底措信するを得ない。

第五、岩井武雄の供述

岩井武雄は柳井簡易裁判所裁判官上村実の証人尋問調書(昭三三、一二、五、付)において「私は八海事件の起きた夜、阿藤、松崎、久永の三名と自転車で田布路木中野末広方に行つたが、その際は四人各自が自転車に乗つて行き、一台に二人乗りした人はいなかつたと思う。中野方で主人が帰る様子がなかつたので午後九時頃松崎が初めに帰り、それから三―四〇分して久永は眠いからと云つて帰り、更に二〇分位して阿藤が、主人が帰らないので待つていても仕方がない。明日徳山に仕事に行かねばならぬと云つて帰つた。私はどうしても賃金が貰いたいので一一時を一〇分も二〇分も過ぎるまで待つたが、主人が帰らなかつたので最後に一人で帰つた。帰る途中久永方前を通らず、従つて同人方前で同人に声をかけたことはない。」(四九冊一九二二八丁以下)と云い、従前の供述(原審証言一冊一四〇丁以下、警察調書四八冊一九一一四丁以下、四九冊一九一二八丁以下、検事調書四九冊一九二一八丁以下、当審証言二一冊七三六八丁以下、二二冊七六六三丁以下)を突如変更したのである。しかしながら、被告人久永の警察一回調書(四冊八八三丁)、同人の上申書(六冊一二九四丁)、同人の上告趣意書(上告審一冊一八一九丁)、被告人松崎の原審供述(五冊九六四丁)同人の上申書(六冊一二九九丁)同人の上告趣意書(上告審一冊一八三九丁)、被告人阿藤の警察一回調書(四冊七八九丁)同人の原審供述(五冊九七五丁、九六四丁)同人の上申書(六冊一二六四丁)を綜合すれば、被告人阿藤、松崎、久永及び岩井武雄の四名が、一月一四日夕方中野末広方へ赴く際、被告人久永が自転車を所持しないため被告人松崎の自転車に便乗したことを認めるに十分である。尤も被告人阿藤は当公廷で、久永は岩井の自転車に乗つたのかも知れぬと供述し(三二冊一二五三八丁)、又岩井は従前の供述で、久永は阿藤の自転車に乗つたように思うと供述し(警察調書四九冊一九一二八丁、原審証言一冊一四二丁、当審証言二一冊七三七二丁)或は松崎の自転車に乗つたと云い(検事調書四九冊一九二一八丁)必ずしも帰一しないのであるが、何れにしても右両名の供述中に久永を自己の自転車に乗せた旨の供述は些かもないのに反し、久永は終始行きは松崎の自転車に乗せて貰つたと供述し、松崎も一貫してこれに照応する供述をしているのであるから、被告人阿藤及び岩井のこれと異る趣旨の前掲供述は何れも記憶違いによるものと認めるのが相当である。次に被告人阿藤及び久永の両名が午後一〇時頃一緒に中野方を辞居し、阿藤の自転車に久永を乗せて帰途につき、途中「天池」附近でチエーンが切れたので、同所より二人が歩いて帰つたことは先に認定した(第一章第四の二参照)ところであり、岩井自らも従前一貫して、阿藤、久永の両名は一〇時頃一緒に帰り、自分は一一時頃まで主人の帰りを待つたが、末広が帰らないのでその頃中野方を出て自転車で帰途につき、久永方前で声をかけた上帰宅した旨供述しているのである(原審証言一冊一四〇丁以下、警察調書四八冊一九一一四丁以下、四九冊一九一二八丁以下、検事調書四九冊一九二一八丁以下、当審証言二一冊七三六八丁以下、二二冊七六六三丁以下)。元来被告人阿藤、松崎、久永及び岩井武雄等が中野末広方へ行く際、久永が何人かの自転車に便乗したか否か、或は帰る際阿藤と一緒であつたか否かと云うことは、何れも本件犯罪の成否に直接関係ないことであるから、これらの点について殊更虚言を弄したとは到底考えられない。しかるに、被告人久永、松崎、阿藤等は自白供述をも通じ一貫して(被告人阿藤の当公廷における記憶違いによると認められる前掲供述を除く)前記認定に一致する供述をしているのであつて、しかもこれらの供述は岩井武雄の新証言を除き関係証人の供述とも符合するのであるから、これと異る岩井武雄の前掲新証言は到底信用できない。

第六、張正夫、小野敏、金玉炫及び鶴崎章の供述

これらの証人は何れも本件が差し戻された後検察官の取り調べを受け、その後当公廷で証言したものであるところ

張正夫は

「私は昭和二六年夏頃より同二七年二月末頃まで岩国少年刑務所の未決にいたが、その間二、三の房を転々とし、合計すると四〇日から二ヶ月位稲田と同房にいたことになる。私は稲田と特に親しくなり互に身の上話をしたが、同人と同房になつて二〇日位たつた頃、即ち、同二六年九月中頃のある夜同人がひどく唸されたことがあり、同人はその際五人共同で本件犯行をしたことを告白した。同人が私に犯行を告白したのは第一回は夢に唸される前、即ち、同二六年八月末頃か九月初頃、次は右夢に唸された時、最後はその翌朝の三回である。」(二七冊九八〇三丁、三一冊一一九五七丁)

と云い、詳細にしかも告白したという内容をその告白したという時期を区別して証言し、

小野敏は

「私は昭和二五年一二月中旬より同二七年九月九日まで岩国少年刑務所の未決にいたが、当時被告人等五名も同所にいた。私は一番初めに久永を知つた。私は五舎二房、同人は同三房におり、二房と三房の間に電球が入つた穴があり、その穴を通して互に話をすることができた。同二六年三、四月頃同人は五人共犯を認めた。同人からその話を聞いたのは隣りの房におる時か運動場で一緒になつた時である。同年の暑い頃二ヶ月位稲田と同房にいたことがあるが、同人と同房になつて一ヶ月位たつて運動場に出た時同人からも五人共犯の話を聞いた。同人は同房者に自分が刑を打たれるならどのくらい打たれるだろうと相談していた。松崎とは同年一二月頃と同二七年三月か四月頃の二回同房したことがあるが、同人からも稲田が云つていたと同じ様な話を聞いた。松崎からそんな話を聞いたのは一緒に運動場に出た時か他の者が運動場に出て自分等だけ舎房に残つた時等であつて何回にも分けて聞いた。」(三七冊一四五七七丁)

と云い、

金玉炫は

「私は昭和二六年三月頃から岩国少年刑務所の未決にいたことがあるが、当時同所に阿藤等四名がいた。本心で言つたかどうか知らないが、阿藤が俺はどつちみちこれだと言つて、首に手をあてていたことがある。私は阿藤等は犯罪をやつておると思つていた。」(三八冊一四八〇〇丁)

と云い、

鶴崎章は

「私は岩国少年刑務所勤務の着守であるが、一審第一回公判前のこと、松崎か稲田かのどちらかが、今頃の犯罪は手袋をしてすれば指紋は残らず発見されない。橋の上から手袋やタオルを投げたのを警察が探しておるらしいがわかるものかと言つていた。私としてはそういう本人が手袋等を橋の上から捨てたものと思つた。昭和二六年一〇月頃のこと、稲田が、自分は仮釈放を貰つて出ておるが、今度刑を受けると仮釈放は取消になるかと聞いた。又今度刑が軽ければ服役してもよいと一寸洩らしていた。」(三七冊一四三七一丁)

と言うのである。

証人張正夫、小野敏及び金玉炫の各証言によれば、同人等が叙上のとおり被告人稲田等から犯罪の告白を聞き、或は被告阿藤がどつちみつちこれだと云つて首に手をあてていたのを見たという時期は、現に原審公判進行中であつて同被告人等に何れも本件犯行を否認していたこと本件記録に照し明かである。いかに親しくしていたにせよ、かような重要な時期に同房囚に(場合によつては他の同房囚の聞いておるところで)、有罪と決れば死刑にもなりかねない大罪を容易に告白するものか疑問なきを得ない。証人金玉炫の証言によれば、囚人間には社会で大罪を犯した者ほど英雄視され鄭重に取扱われる風習があることが認められるから、被告人等がこの風習に便乗して相当の誇張を加え自分等が取り調べを受けた犯罪を同房囚に物語り、或はその態度を示したのを、真実同被告人等が犯罪をしたことを告白したものとして証言しておるかもわからないのである。証人張正夫は、同人の証言により明かなように、張正夫なる本名の外に山本正夫、小山金市、山本一夫等の変名を社会で使つており窃盗詐欺等前科四犯の犯歴を持ち現に尾道刑務支所に服役中の者であり、証人小野敏は、同人の証言により明かなように、殺人同未遂罪で無期懲役に処せられ現在懲役二〇年に減刑せられ服役中の者であり、何れも刑務所内での処遇或は仮釈放等について特別の便宜を得んとして検察官に迎合する証言をしないものとは保障し難く、特に証人張正夫は本件発生後満七年有余の間一度も捜査官等の取り調べを受けたことがないのに拘らず五人共犯の方法等について述べるところがあまりに詳細且つ具体的であり、更に被告人稲田が夢にうなされた夜語つたということと、その翌朝居房で語つたということを判然区別して明瞭に証言するが如きは、極めて不自然の感をいだかざるを得ないのである。或は又、証人小野敏においても前同様長年の間一度も取り調べを受けたことがないのに拘わらず何時誰からどんな話を聞いたと区別して証言することも不自然の感をいだかざるを得ない。更に証人張正夫は被告人稲田が犯罪を告白した時他に同房者がいたことを認め、被告人稲田の告白内容を詳細具体的に証言しながら、その同房者の氏名を一人も思い出せないと云うのは不可解である。又同証人の証言は殆んどその総てが「………らしい」との推測的表現形式をとつており、同証人が発言上一つの特殊な癖を持つておるとしても、あまりにその不自然さを思わしめるものがある。証人鶴崎章の証言によれば、在監者が犯行を認めるような重大なことを申し述べた場合はこれを上司に報告すべき義務があること、しかも同証人は被告人稲田等の云つたということに関して上司に一片の報告もせず同僚にも話しておらないことが認められ、このことは被告人稲田等が云つたということが極めて曖昧であつて被告人稲田等が本件犯行を認めたものとは解せられないことを示すものに外ならない。要するに、以上各証言は叙上の理由により容易に措信し難い。

第五章  結論

以上第一章ないし第四章において詳細論述したものをここに要約し、且つ多少の付言をなして結論に代える。本件は一月二四日犯罪が行われ、間一日をおいて同月二六日吉岡が検挙されて先ず自白し、吉岡の供述に基いて同月二八日被告人稲田、松崎、久永及び上田節夫の四名が、更に翌二九日被告人阿藤が相次いで検挙され、第三者である福屋ユキのアリバイ供述によつて同月三〇日釈放された上田節夫を除く被告人等四名も検挙後間もなく、各三、四回にわたつて犯行を自白しているのであるから、若しこれらの自白が真実であれば、これに照応する証拠が蒐集整備されていなければならない筈である。そこで自白内容の検討を後段に譲り、自白に照応する証拠の有無について観察してみると

第一、吉岡及び被告人等の自白を補強する物的証拠その他これに類するもの

一、吉岡に関するもの

吉岡については、その自白を裏書するに足る動かし難い物的証拠及びその他の証拠が完備し、むしろ有り余る程の観を呈しているのである。即ちその主要なもののみを挙示してみても、

1、吉岡が一月二四日夕方新庄藤一方で焼酎約二合と共に借り受け早川惣兵衛方へ携行したと云う三合瓶(証第一号)が早川方炊事場棚で発見押収されていること(第三章冒頭参照)

2、吉岡が右焼酎を炊事場棚にあつたサイダー瓶に入れ換え、このサイダー瓶を炊事場北出入口附近に置き忘れた、と自供するよりも前になされた警察検証において、いち早く同所でサイダー瓶(証第二号)が発見押収され、しかもこれに吉岡の左手中指の指紋が残存していたこと(田中専指紋対照書参照)

3、吉岡が一月二六日早朝柳井町の寿楼で逮捕された当時着用していたジヤンパー(証第三二号)及びズボンには、各数ヶ所に惣兵衛の血液型と同型の血痕が付着し、且つジヤンパーには吉岡が床下をもぐつたことを証するように蜘蛛の巣が付着していたこと(藤田千里物品検査回答書参照)

4、又その当時吉岡の右眉部、右耳翼、右手薬指を除く左右の各指爪及び右足指爪にそれぞれ血痕が付着していたこと(同上参照)

5、吉岡が早川方で犯行に際し使用したと云う懐中電灯(証第三号)が押収されていること(第三章冒頭参照)

6、早川惣兵衛の死体のあつた部屋に撒き散らされていた灰の上に吉岡の足跡が残存していたこと(第三章第三の一参照)

7、吉岡が早川方屋内に侵入脱糞したと供述する同家部屋南側空地にそれに相当する脱糞があつたこと(第一章第四の五参照)

8、吉岡の供述に基いて奪取金員の使い先を確かめたところ、その供述するとおり、中本イチが自動車賃として四五〇円、寿楼の従業員等が遊興費その他として合計約六〇〇〇円受取つていることが判明し、且つ同人等が受領していた金員の一部及び吉岡が逮捕当時所持していた奪取金員中使い残りの一〇〇〇円札一枚(証第一四ないし一七号)が各押収されていること(第一章第四の三参照)

9、吉岡の指示説明によつて原審が検証をなしたところ、その説明に恰もよく符合する如く、中連の硝子窓枠にバール様なものでこじ開けたために生じたと推測される痕跡があり、更に炊事場と台所との境の板戸に刃物で突き刺したことによつて生じたと認められる傷跡のあることが確認されたこと(第一章第四の六参照)

10、吉岡が犯行当夜右バール様なものを早川方南側堆肥中に差込んで隠したと自供していたところ、果してこれに相当するものが原審の審理過程において偶然発見押収(証第三〇号)されたこと(同上参照)

11、吉岡の供述に基いて八海川を捜索したところ、八海橋下流で日本手拭によつて包まれた血痕付着の雑布、西洋手拭各二枚及び早川宛請求書等(証第二六ないし二八号)が発見押収され、且つこれらは何れも早川方のものであることが確認されたこと(第一章第四の九参照)

12、犯行直後の警察検証によつて、早川方部屋北側に沿つて素足の子供用足跡があり、一方同家台所側六畳の間の鴨居に早川ヒサが麻縄で頸部を緊縛されて吊り下げられていて、同女の手及び足裏に若干の血痕が付着し、鴨居及び麻縄にも多量の血痕が付着しており、更に炊事場にあつた食卓の引出の引手及びその上部と引出の中にあつた庖丁(証第三四号)の柄にもそれぞれ血痕が付着し、又ヒサの前側足許に血痕の付着した庖丁一本(証第五号)があり、そして同室と早川惣兵衛の死体のあつた奥六畳の寝室の境近くに血痕の付着した斧一挺(証第四号)があつたことが確認されていたところ、その後に至つて吉岡が、屋外の子供様足跡は犯人の足跡を偽装するために殊更につけたものであり、又その余の前記状況は、ヒサが惣兵衛と夫婦喧嘩をして惣兵衛を斧等で殺害した上、鴨居で自ら縊死したように偽装するためわざわざ作為したものであることを明らかにした(被告人等は各三、四回自白供述をしているのに、この点については片言もふれていない)のではじめてその真相が判明したものであること(第一章第四の五、第二章第一の二5参照)

以上に記述したもののみをもつてしても、吉岡の自白を裏書きするに十分であると思われる。

二、被告人等に関するもの

原判決が挙示しているものの外、原審で取調べた全証拠を調査してみても、吉岡の前掲1ないし12に相当するものを発見できない。僅かに原判決が掲げている証拠のうち、被告人久永方で押収したズボン一着(証第一八号)及び一〇円札五枝(証第二二号)、被告人松崎方で押収したズボン二着(証第一九、二〇号)上田節夫が任意提出して領置された被告人阿藤のズボン一着(証第二四号)及び浴衣一枚(証第二五号)、木下ムツ子こと六子が任意提出して領置された一〇円札一枚と上野敏典作成にかかる物品検査回答書(この書面には前記衣類及び被告人久永を除く被告人三名の手及び足の爪に各微量の血痕の付着を認めたが微量のため血液型は判定できない旨の記載がある)が被告人等に固有の証拠と解されるのであるが、これ等のものは以下述べるような理由により殆んど罪証としての価値がない。

1、衣類及び物品検査回答書

前記衣類のうち、松崎方で押収したズボン二着と阿藤の浴衣については、被告人阿藤、松崎が一月二四日夕中野末広方へ出かけた当時これらのものを着用したことの証明がない(当審第六四、六五回公判における証人木下六子のこの点に関する証言が容易に信用できないことは第四章で記述した)ばかりでなく、むしろ着用していなかつたものと推測され、特に松崎方で押収したズボンのうち黒色ズボン(証第二〇号)は被告人松崎の弟弘康のもので当時同人が常用していたものと認められるのである。更に又前記物品検査回答書については既に最高裁判所の判決において、その欠点が指摘され、証拠価値の極めて乏しいものであると判示されていたものであるところ、当裁判所の証拠調べの結果その点が明らかにされたのである。即ち同回答書の作成者である加藤(旧姓上野)敏典の当審証言によれば、(1)同人はルミノール、或はベンチヂン等の試薬による血痕検査では血液以外の物質でも陽性反応を呈することがある事実を知りながら、血痕実性検査の方法を知らなかつたため、衣類及び爪等の血痕検査をするにあたり、右両試薬によつて陽性反応を呈した部分を軽卒にも直ちに血痕と判定したものであること、(2)しかも血痕と判定したものが何時頃付着したものか新旧の識別すらできなかつたものであること、(3)被告人阿藤、稲田、松崎の手及び足の爪に血痕が付着した旨記載しているが、何人のどの爪が陽性を呈したか不明であること等を知り得たのである。しかるに信頼に値する当審鑑定人上野正吉の鑑定書によると、(1)被告人松崎、久永の各ズボン(証第一八、一九号)は前記試薬による予備検査の結果陰性、従つてもとより血痕の付着を認めない、(2)阿藤の浴衣及びズボン、松崎の弟弘康のズボン(証第二〇、二四、二五号)には小は粟粒大、大は小豆大の斑点が一個ないし数個あり、ルミノール或はベンチヂン試薬による予備検査の結果陽性を呈したが、血痕実性反応は何れも陰性で血痕か否か不明である旨の記載がある。以上を要約すれば前記回答書に血痕が付着している旨記載されているもののうち、被告人久永、松崎の各ズボン(証第一八、一九号)は詳細且つ正確な血痕予備検査を施しても陽性を呈する部分がなく、その余の三点は予備反応のみ陽性で、実性試験の結果は何れも陰性で血痕か否か不明ということになる。(なお右回答書には証第二六号の一の日本手拭にも血痕が付している旨記載されているが、前記上野鑑定書によれば、右手拭は血痕予備検査の結果陰性で血痕が付着していないものであることを知り得る)このように上野敏典の物品検査回答書は杜撰であるばかりでなく、明瞭な過誤を犯しているのである。なお被告人等の爪は故意か過失かその原因を知る由もないが、現物が保管されていないため遺憾ながら再鑑定をすることができなかつた。しかしたとえ再鑑定をしたとしても衣類のそれと略類似の結果が現われるのではないかと推測される。従つて右回答書及び前記衣類は何れも被告人等の罪証として殆んど価値がない。(以上第三章第一の一、二参照)

なお当審において、被告人阿藤が一月二四日夜上田節夫方で前記ズボン及び浴衣等を洗濯したか否かが争われるに至つたのであるが、この点に関する木下六子及び上田節夫の証言ないし証言記載が信用できないことは、先に説明した(第四章第三参照)とおりである。のみならず関係証拠によれば被告人阿藤は当夜国防色作業衣上衣(証第一五一号)の上に茶色オーバー(証第一五四号)を着用していたものと推認されるのであるから若し木下六子の証言するように、阿藤が上衣の下側に浴衣を着用していたものと仮定し、更に同被告人が斧で惣兵衛を殴打したものとすれば、返り血は浴衣に付着するより前にしかもより多くオーバー及び上衣に付着するのが理の当然であるところ、右のオーバー及び上衣を仔細に観察してみても血痕が付着しているとは到底認められない。従つて洗濯の事実が仮にあつたとしても、それは証拠隠滅の観点からは殆んど意味を有しないのである。(以上第三章第一の一、二、参照)

2、一〇円札

次に前掲各一〇札円(証第二一、二二号)と被害者方箪笥の中に残存していた一〇円札七枚(証第二三号)及び吉岡が奪取金の中から中本イチ、或は寿楼の従業員に支払つた各一〇円札計一五枚(証第一四、一七号)とを比較対照してみると、何れもその印章記号番号が同一で、新鮮度も略似通つていると認められるので、右証第二一、二二号の各一〇円札は被告人阿藤、久永等が早川方で奪取したものの一部ではないかとの一応の疑いがかけられる。しかし当審証拠調べの結果によれば、被害者方にあつた一〇円札と吉岡が中本イチその他の者に支払つた各一〇円札は、同一札束として流通していたものと推測されるのに反し、久永及び木下の各一〇円札と右の各一〇円札とは各別異の札束として流通していたものと認められ、且つこれら一〇円札と同番号のものは昭和二五年一〇月一〇日以降翌二六年一月一二日までの間に数回に分け合計五〇〇万枚印刷納入されて逐次流通していたものであることが明らかになつたのである。のみならず以上の事情に照すと、木下六子及び久永サイ子が従来前記一〇円札の入手経過について釣銭等として貰つた旨供述していたことが真相と推測される。してみれば原判決が証拠として挙示しているこれらの一〇円札は被告人等の罪証として何等の価値がないものといわなければならない(以上第三章参照)。そして本件は早川夫婦が死亡し当時同居家族がなかつたため、被害者の側には被害金額を窺うに足る何等の資料も残存していないものであるところ、吉岡については先に記述したように、奪取金員の使途等に関する同人の自供を裏書する証拠が完備し、その一部は押収されており、しかもこれらの証拠によつて認められる金額合計約七、五〇〇円は、吉岡が警察一回、四回調書で供述している奪取総額と略一致しているのである。しかるに被告人等四名については、同人等が警察において各三、四回にわたつて犯行を自白し、最終自白調書によると被告人阿藤が二、五〇〇円、稲田が二、〇〇〇円、松崎が一、五六〇円位、久永が一、五〇〇円の各分配を受け、これを一月二五日より同月二八日頃までの間に飲食費その他に費消した旨供述しているのに拘らず、原審並びに当審で取り調べた全証拠を調査してみても、これらの供述を裏書するような証左は些かも発見し難く、又被告人等が自供する用途以外に費消し、或は所持又は隠匿したと疑わせるような資料もない。若し被告人阿藤が本件凶行の頃以降不相応な金銭を所持ないし費消した形跡があれば、当時内妻として同被告人と起居を共にしていた木下六子が当然そのことを察知している筈である。しかるに木下六子は当審第六四、六五回公判において、被告人阿藤等に不利益な供述をなしたいわゆる新証言においても、被告人阿藤が一月二五日以降逮捕されるまでの間金銭に窮しており、そのため同女が一月二五日から一月二八日朝まで上田節夫に同棲している間数回の食事をとつたに過ぎなかつた旨の従前の証言はそのまま維持したのである。却つて関係証拠を綜合すれば、被告人阿藤は本件凶行の翌日である一月二五日以降も金銭に窮し、そのため内妻六子に三度の食事すら満足に与えることができず、一月二九日逮捕を受けた当時も金銭を所持していなかつたことが認められ、且つ被告人阿藤、稲田、久永の三名は一月二五日徳山の仕事先から同市内の映画館へ赴いた際入場料に窮し、同映画館の映写技師をしていた阿藤の友人三宅某に依頼して無料入場した事実を推測することができる。

以上のように被告人等が分配を受けたと供述する奪取金員の処分等については何等の裏付け証拠がないばかりでなく、却つて被告人阿藤の如きは本件犯罪の翌日以降も金銭に窮していたことが認められるのである。(以上第一章第四の三及び第二章第一の二、1参照)

3、原判決が挙示する証拠のうち、被告人等に固有の物的証拠又はこれに類するものは、以上記述した理由によつてその証拠価値を認め難い。なおその余の物的証拠は、吉岡の罪証としては兎も角、被告人等の罪証に値するとは認め難く、当審で提出された多数の物的証拠を検討してみても被告人等の罪証として適切なものを見出し難い。そこで念のため犯行直後の警察検証調書その他の証拠によつて認められる犯行現場の状況等からして、多少でも多数犯行を疑わせるような事情について考察を加えてみると、

(一) 早川家屋内外の足跡

前記検証調書によると早川方奥六畳の寝室に撒かれていた灰の上に素足の足跡が顕出され、一方同家炊事場北出入口付近その他に素足、下駄、草履、靴等の足跡があつたことを認め得るが、灰上の足跡が吉岡のものであることは前段に述べたとおりであり、又屋外の足跡中素足のそれが吉岡のものと推測される外、他の足跡はいつ頃なに人によつてつけられたものか不明であり、もとより被告人等のものと解する根拠は些かもない(以上第一章第四の五、1及び第三章第三、参照)

(二) 侵入口その他

原判決は(1)早川方への侵入口が二個所あること、(2)台所と炊事場との間の板戸に刄物で刺した跡があること、(3)早川惣兵衛夫婦が同時に異つた方法で殺害されていること、(4)ヒサの首吊り工作は吉岡一人ではできないと認められること、の四つの理由を挙示して多数犯を理由づけているが(1)について云えば、前掲検証調書、検事検証調書、原審検証調書等によつて認められる、手又は足の痕跡数、籾殻の散乱している位置と方向に、吉岡の関係供述の一部を綜合考察すれば、母家裏手床下口は侵入口でなく脱出口と推測されるから、これが侵入口であることを前提とする原判決の見解は当を失し、(2)については、板戸の傷跡が被告人阿藤又は稲田等の行為によつて生じたと認められる場合においてのみ、同人等の罪証として価値を有するものであるが、この傷跡は先に詳論した(第一章第四の七参照)ようにむしろ吉岡の行為によつて生じたものと推測されるのであるから共同犯行の根拠とならないのは当然であり、(3)については惣兵衛が斧で頭部顔面等を殴打され、ヒサが手で頸部を搾扼されてそれぞれ死亡していることは証拠上明瞭であるが、当審鑑定人上野正吉、同香川卓二の各鑑定書及びこの点に関する吉岡の関係供述を綜合すれば、本件の犯人は先ず斧で惣兵衛の頭部顔面等を乱打し、前頭部に加えた第一撃で致命傷を与え、この惨状を目撃したヒサが布団をかぶつて恐愕戦慄していたので止むなく斧を放置して手で同女の頸部を搾扼して死に至らしめたものと推認するに十分であるから、惣兵衛夫婦殺害の方法が異つていることは、犯人が一人であつたとしても決して不自然ないし不合理でなく、又前記上野鑑定書によると、惣兵衛の頭部顔面の創傷は総て加害者が被害者の左側に立つて加撃したものと推測されるから、創傷の数及び方向も犯人の複数を想像する根拠とはならない。最後に(4)について云えば、なるほど、死体となつたヒサを、吉岡一人で鴨居に吊り下げることの困難であろうことは容易に想像されるところである。しかしながら関係証拠によれば(1)吉岡は曽て塩田人夫等重労働に従事した経験があり、身長も平均人より高く、本件の犯行当時満二二才の元気盛りで屈強な青年であつたこと、(2)ヒサは死亡当時身長一米五〇糎、体重四五瓩位であつたこと、(3)ヒサを吊り下げていた鴨居の高さは一米七三糎であること、(4)ヒサはその頸部を全長六米強の麻縄の略中央部で頭が抜けないように背面で緊縛された上、その両端を鴨居の上に通して吊り下げられていたことを各認め得る。右の各条件下においては、吉岡一人によつてもヒサの首吊り工作は必ずしも不可能でなく、むしろ困難ではあつても可能と認められるから、この点に関する原判決の見解も採るを得ない。却つて前掲警察並びに原審各検証調書及び押収の鴨居(証第一二九号)によれば、ヒサは前記の如く頸部背面で緊縛され、鴨居に吊り下げられていたが、その様相は、膝も畳につかんばかりに垂れ下り、両足も後に曲げて足首を畳につけており、着用していた腰巻はずれ落ち、襦袢は不自然にはぐれ、肩、胸部、腹部、臀部等を露出し、殆んど半裸体となつて極めて取乱した状態であつたこと及び鴨居の二個所に麻縄の擦れ傷があり、しかもその片側は他の側に比較して傷跡の幅が広く且つ深いことを認め得るのであつて、以上のことは、ヒサの首吊り工作が難渋を極めたことを物語るものと解することができる。そして、ヒサの首吊り工作が縊死のように偽装するためであつたことは既に述べたとおりであるが、若し数人でなしたものであれば、以上のように一見して他殺であることを察知できる不手際な痕跡を残すとは考えられない。(以上第三章第二参照)

以上物的証拠ないしこれに関連する証拠及び犯行現場の状況等について観察したのであるが、吉岡については、動かすことのできない証跡が数多く存在するのに反し四名もいる被告人等全員については何一つとして罪証に値する証跡がないことは何を意味するのであろうか、若し被告人等が吉岡と共に本件凶行を犯したものとするならば理解し難い奇怪な現象といわなければならない。

第二、早川惣兵衛同ヒサの死亡推定時刻

早川惣兵衛夫婦が本件の凶行を受け略同時に即死したものであることは記録上疑いを容れないところであり、一方において、被告人につき一様ではないにしても、それぞれ限られた時間については、各被告人共アリバイが成立することを否定し得ないのであるから、惣兵衛夫婦の死亡時刻即ち凶行時刻は本件にとつて特に重要な意義を有するのである。若しこの時刻が判明すれば、吉岡及び被告人等の供述の真偽を判別するのに、重大な役割を果すものと考えられるので、同人等の供述を検討するに先立つてこの点について考察を加えることにする。原判決は凶行時刻を午後一〇時五〇分頃と認定しているのであるが、原判決が証拠に引用している藤田千里の被害者両名に関する各鑑定書によると、惣兵衛につき「胃の消化状況よりして食後二時間以上経過した後殺害されたものと推定する」ヒサにつき「胃の消化状況よりして食後一時間ないし二時間を経過した頃殺害されたものと推定する」旨の各記載がある。この鑑定結果によると、両者の食事時が相違するかの観を呈しているのであるが、後記当審鑑定人上野正吉同香川卓二の鑑定の結果によると、消化状況の良否は食事量の多寡に逆比例するものであることを知り得るところ、前掲藤田鑑定書によると、惣兵衛につき「胃の中に良く消化された内容物一五〇瓦を認め、豆腐、米飯、大根を識別できる」ヒサにつき「胃の中に約二〇〇瓦の中等度に消化した内容物があり、蜜柑、菜葉、大根、人参、いり子、油揚、牛蒡、米粒を認む」と各記載されている。これによつてみると、惣兵衛の胃の内容物は、種類、量とも、ヒサに比較し少いことが判るのであり、一方原審証人加藤スミ子の証言及び吉岡の警察一回調書(吉岡は惣兵衛の枕許に薬瓶があつたと供述している。)によれば、惣兵衛は当日風邪気味で小泉医師の診察投薬を受けたことが認められるから、これらの事情を綜合すれば、惣兵衛は気分が勝れないためヒサよりも少量の食事をとつたものと推測される。従つて消化状況の相違は食事時の異ることを意味するものでなく、むしろ両名とも同時に食事をなしたが惣兵衛の食事量がヒサのそれよりも少なかつたため、(食物の種類の差及び飲用した薬の影響も考えられる)ヒサよりも良く消化していたものと推測するのが相当と思われる。原判決は藤田鑑定書を証拠に引用した上、凶行時刻を午後一〇時五〇分頃と鑑定しているのであるから、結果的に、惣兵衛夫婦の夕食時刻をその一時間ないし二時間前即ち午後八時五〇分頃ないし九時五〇分頃と間接に認定したことになる。しかし、右のような時刻に夕食をとることは通常あり得ない異状な事柄であり、しかもそれを推測せしめるような証拠資料は毫末もない。そこで当裁判所は、惣兵衛夫婦の夕食時刻の点について証拠調べをなし、なお念のため最終食事後死亡までの時間について再鑑定を命じたところ、次のような事実を知ることができた。即ち当審証人加藤スミ子、同新庄智恵子、同新庄好夫の各証言によれば、八海部落では本件の発生日時である一月二四日頃の厳寒時には一般に午後六時頃から七時頃までの間に夕食をとり、特に早川惣兵衛のような瓦製造業者は仕事の性質上早寝早起の傾向があり、従つて夕食も一般家庭より多少早目にとることが多いことを認め得べく、又右加藤スミ子の証言によると、一月二四日早川家に手伝いに行つた同女が、同日午後五時過同家を辞去しようとした頃ヒサが夕食の仕度に取りかかつていたことを首肯し得る。そして一、二審を通じ、何れの当事者からも、右認定に反するような主張立証は少しもなされなかつたのである。以上認定した事実関係を綜合すれば、早川夫婦は同日午後六時頃から七時頃までの間に夕食をとつたものと推認するのが相当であり、むしろ六時に近い頃食事をなした公算が多いものと考えられる。次に当審鑑定人上野正吉の鑑定書によれば、惣兵衛夫婦が最終食事をなした後死亡するまでの時間を約三時間と推定する旨の記載があり、同香川卓二の鑑定書には、右の時間を三時間ないし四時間と推定する旨記載されている。これらの鑑定結果及び直接解剖を担当した前掲藤田千里の鑑定結果によれば、惣兵衛夫婦は夕食後二時間ないし四時間を経過した頃殺されたことになり、三者を綜合すれば三時間の公算が最も多いものと認められる。右三鑑定の結果に前段で推認した夕食時刻を組み合せてみると、惣兵衛夫婦は午後八時頃から午後一一時頃までの間に死亡したことになり、夕食時刻及び食事後死亡までの時間について、それぞれ最も公算の多いものをとれば午後九時過となり、夕食時刻を午後七時とすれば、死亡時刻は午後一〇時となる。従つて両名の死亡時刻は午後九時頃から午後一〇時までの間と推測するのが相当であり、蓋然性の最も少い時刻(午後七時)と時間(四時間)を組み合わせてみても午後一一時という結論に到達する。してみれば、惣兵衛夫婦は、遅くとも午後一一時までにそれぞれ凶行を受けて死亡していたものと推定せざるを得ない。

次に角度を変え一月二四日夕方における吉岡の行動を観察し、その行動の所要時間を推算して早川家到着時刻及び犯行時刻を考察してみるに、吉岡が一月二四日午後六時半頃から七時頃までの間に新庄藤一方を立去つた事実は当審関係証人の証言によりこれを認めるに十分であり、同家を立去つてから後の行動については、吉岡自身の供述を除いて何等の証拠がないのである。そこでこの点に関する同人のあらゆる供述を精査し特に最も詳細且つ具体的に述べた当公廷における証言を基準として、これを当審検証の結果に照してみると、吉岡が新庄方を出て八海橋で阿藤等と出会つたと称する行動経路の歩行所要時間は一時間弱であると推認される。なお吉岡は当審証言で鳥越部落と八海との境の所で暫く寝た外途中で煙草を買つたと証言するのであるが、検挙以来の吉岡の諸供述に照らすと、同所で休憩したことは真実と認められるが寝入つたとは認められない。そして後記第三の二で述べるように同所で長い時間休憩したとは認め難いので、右休憩と煙草を買うに費した時間等を多く見積り約一時間と仮定しても、これと前記歩行所要時間約一時間を加算した午後八時半から九時頃までには八海橋に到着する筈である。そして八海橋東詰から早川方へ直行したことは、吉岡の一貫した供述であるところ、その間の歩行所要時間が十分弱であることは、当審検証の結果に照し明らかであるから午後八時四〇分頃から九時過までの間には早川方に到着する道理である。更に吉岡が早川方へ到着後同家を一周して侵入口を物色した上同家部屋南側空地で脱糞したこと、何人かが部屋中連窓をバールでこじあけ部屋を通つて炊事場に侵入し、炊事場と台所との間にあつた板戸の「落し錠」を探ぐるため刃物で板戸を九回位突き刺したこと、吉岡が炊事場で棒電池を口にくわえて明りをとりながら自己の携行した瓶の焼酎を炊事場棚にあつたサイダー瓶に入れ換え、炊事場北出入口を開けて入口付近に右サイダー瓶を置いたこと、しかる後母家に侵入し本件の凶行を演じたものであることは、何れも記録上これを認め得るところであり、これらの事前行為に少くとも二〇分位の時間を要したものと推測される。してみれば、本件の凶行は右時間を加算した午後九時頃から九時半頃までの間に敢行されたことになる。以上は途中の休憩時間を約一時間と過大に見積り、且つ凶行前の準備行為等を約二〇分と推測した上の結論であるが、吉岡の警察四回調書によれば、早川方へ到着したのは午後八時か八時半頃で、三〇分間位内外の様子を窺い、それから侵入口を物色した」(五六九丁)旨の供述記載があり、これは、吉岡が、一月二四日夕方における被告人等の動静を知らないうちに供述したもので、時間関係に関する限り、卒直な感じを述べたものと解される(客観的時間と一致するか否かは兎も角として)のであつて、これによると、前記推定到着時刻即ち午後八時四〇分ないし午後九時過よりも四〇分位早目に早川方へ到着し、三〇分位家の内外の様子を窺つていたことになり、この供述によつてみても、証拠上認められるその後の前掲準備行為等の所要時間約二〇分を加算すると午後八時五〇分頃から九時二〇分頃までの間に凶行がなされたことになる。右のように、吉岡の行動面からその時間関係を観察し、これによつて推算しても、本件の凶行時刻は午後九時頃から九時半頃までの間と云うことになり、期せずして、惣兵衛夫婦の夕食時刻及び前記鑑定の結果とを綜合して得た死亡推定時刻中最も蓋然性の多いもの即ち午後九時頃から午後一〇時までに略一致するのである。従つて惣兵衛夫婦の死亡時刻は午後九時頃から一〇時頃までの間と推定するのが相当と思われる(以上第一章第四の二参照)

第三、吉岡の供述

吉岡は検挙当初犯行を否認していたが、即日単独犯行を自供し間もなく六人共犯に変り、次いで五人共犯を供述し、差戻前の二審判決云渡頃まで五人共犯の自供を維持していたが、右判決後昭和二九年二月頃から同三〇年一月頃までの間に再三にわたり、本件の弁護人である正木、原田香留夫等に対し、口頭或は書面で、被告人等が本件に関係のないことを訴え、自己と金山某の二人で犯したのであると云い、次に金村某との共同犯行であると改め、最後に林某と二人で敢行したものである旨主張し一方においてその間検察官に対しては口頭又は書面で、二人共犯の自供は虚構で五人共犯が真実である旨を強調し、かようにして二人共犯と五人共犯の自供を相互に数回繰返した末、昭和三〇年六月頃以降引続いて五人共犯を述べ当公廷における前後二二回にわたる証言においても五人共犯である旨を証言したのである(以上第一章第二、第三参照)。しかしながら、五人共犯の自供そのものも、時の経過と共に話の筋道が幾度か変転し、特に具体的事実に関する供述に至つては実に目まぐるしい変遷を示しているのである。しかも吉岡自身の証言をも含め、当審で取り調べた多数の証拠によれば、吉岡は事柄の軽重を問わず容易に虚言を弄する性癖を有する事実を知り得るのである(以上第一章第三、第四参照)。従つて吉岡の供述は、それが五人共犯の自供であると否とを問わず、当該供述を裏付けるに足る証左がない限り、何れの供述も軽々に信用できないのである。そして吉岡の五人共犯を前提とする諸供述が概ね不合理不自然であつて、その多くが関係証拠とも矛盾牴触することは既に第一章で多大の紙数をさいてこれを詳論したところであるから、ここでは重要なもの三、四について信憑力がない所以を説明するに止める。

一、一月二三日阿藤方付近における謀議について

吉岡は、五人共犯の自供において終始一月二三日夕方被告人阿藤方又はその付近で被告人等と会合し、その際翌二四日夕方八海橋に集合し早川方へ押入ることを謀議した旨供述しているのであるが、この点について吉岡は(1)午後七時頃阿藤方に自分と被告人等四人が集り早川方へ入ろうと話し合い明晩九時か九時半頃八海橋に集ろうと決めた(警五回)(2)午後七時頃五人が阿藤方に集り、阿藤が小声で明晩やろう、九時半か一〇時頃八海橋に集ろうと話を決めた。同じ部屋に阿藤の母もいた(警六回)(3)夕方阿藤方へ行つていたら家の前で阿藤、松崎、久永の三人が歌を唱つて来るのに出会い、阿藤が二四日の晩の午後一〇時か一一時に懐中電灯と手袋を持つて来いと云うた(原審五回公判)(4)阿藤方の前で阿藤、松崎、久永等に出会つた時稲田もいたと思う(当審証言)と各供述し、謀議の場所を「阿藤方屋内」から「阿藤方前」に変更し、二四日八海橋の集合時刻を「九時か九時半」「九時半か一〇時頃」「一〇時か一一時」と順次ずらしているばかりでなく、(3)(4)においては稲田を謀議の仲間に加えたり或は除いたりしているのである。右のように供述問答の重要部分を順次変更しているのであるが、その骨子となるところは、被告人等が一月二三日夕方阿藤方に集合し或は集合した後揃つて外出したことを前提とするものであるところ、吉岡の供述を除くあらゆる証拠を精査してみても同日夕方被告人等が阿藤方に集合し或は集合した後揃つて外出したことを認めるに足る信用すべき証左は見当らない。尤も関係証拠によれば、その頃被告人等四名が樋口豊と共に阿藤方で焼酎を飲んだ後上八海の福屋ユキ方へ遊びに出かけた事実を認めるに十分であるが、それは一月二三日ではなく前日二二日の出来事であることも同時に明らかである。そして右関係証拠によれば、一月二三日被告人等が阿藤方へ集合した事実がなく従つて又揃つて外出したこともないことを推認するに十分であるから、吉岡の前掲供述は到底信用することができない(以上第一章第四の一参照)

二、一月二四日夕方八海橋集合時間について

吉岡は八海橋集合時刻について(1)八海橋へ五人が集つたのは午後九時過である(警五回)(2)八海橋へ集つたのは午後九時半頃であつた(警六回)(3)午後九時半か一〇時頃八海橋へ行くと阿藤、松崎、久永が居り、少し遅れて稲田が来た(検一回)(4)晩一〇時過頃八海橋へ行くと阿藤、久永、松崎が来た、稲田は遅れて来た(検四回)(5)午後一〇時頃八海橋に行くと三人が居り暫くして稲田が来た(原審検証)(6)阿藤が八海橋へ来たのは午後一〇時四〇分か一一時頃である(原審三回公判)(7)八海橋へ集合したのは午後一〇時五〇分頃と思う(原審四回公判)と各種の供述をなしている。そしてこれ等の供述は何れも一月二三日阿藤方又はその付近で、前項に記述した約束があつたことを前提とし、この約束に基いて八海橋へ集合したとする趣旨のものであるところ、右約束の事実が認め難いのみでなく、むしろそのような事実がなかつたものと推測されるのであるから、これらの供述は既にこの点において、その信憑力に重大な疑惑を抱かざるを得ない。更に供述自体を通覧してみても、その変転ぶりに喫驚するのであつて、若し八海橋で偶然被告人等に出会つたと云うのであれば格別、予め集合時間の取決めがなされていて、この取決めに従つて集合したと云う時刻が、集合約束時間と共にかくも変転することはまことに不可解といわなければならない。そこで関係証拠によつてこの点を検討してみると、吉岡は検挙当初、一月二四日夕方における被告人等の動静を少しも知らないまま供述していたところ、取り調べの進展につれて、被告人阿藤、久永等が同日夕方田布路木の中野方に赴き、午後一〇時前後に同家を辞去して帰途につき、久永方前で同人と別れた被告人阿藤が午後一〇時半過頃平生町岩井商店付近で曽村民三と出会い、更に時を接して阿藤サカヱ、木下六子等に出会つた事実が漸次明らかとなり、それと同時に、自己が従来供述していた時間では、阿藤等が八海橋に到着することの不可能であることを察知し、遂に原審公判で被告人阿藤、久永両名の右行動経過に照応するように、同人等が八海橋へ来たのは「午後一〇時四〇分か一一時頃」或は「午後一〇時五〇分頃」であると述べ、以つて従前の供述を変更し、併せて一月二三日取決めたと称する約束の時間をもこれに符合するように改めたものであることを推認するに足り、時間を変更するに至つた経緯に関する限り吉岡自らも当公廷で半ばこれを肯定する趣旨の証言をなしているのである(四三冊一六五九八丁以下)。なお阿藤が岩井商店付近で曽村民三、阿藤サカヱ、木下六子等と出会つたことは動かすことのできない事実であり、原審並びに当審証人中野良子、同岩井武雄、同曽村民三の各証言、当審検証の結果その他関係証拠を綜合すれば、阿藤が曽村民三に出会つた時間は大体午後一〇時半過頃と認められる。以上の説明によつても吉岡の供述の信憑力がいかに薄弱であるかを知り得るのであつて、午後一〇時頃以前に阿藤等が八海橋に来た旨の前掲(1)ないし(5)の供述は、吉岡自身の口によつて変更されるまでもなく、その虚構であることが明らかになつた。ところで当裁判所の検証の結果によれば、岩井商店付近より八海橋東詰までの歩行所要時間は約九分と推認できるから、午後一〇時半過同店付近で木下六子、阿藤サカヱ等に出会つた被告人阿藤が八海橋へ直行したものとすれば午後一〇時四〇分頃右橋の東詰に到着することは可能であると認められる。従つて吉岡の前掲供述中、阿藤、久永等が午後一〇時四〇分頃又はそれ以後に八海橋へ来た旨の供述は、それ自体不可能なことを内容とするものではない。しかしながら、この供述によれば、吉岡が午後六時半ないし午後七時頃までの間に新庄藤一方を立去つて(前掲第二参照)から、八海橋で阿藤等と出会うまでの間に約四時間を要したことになるのであるが、吉岡の供述に従つて、その間における同人の行動範囲を観察し、その歩行所要時間を当審検証の結果によつて推算してみると、一時間弱を要すると過ぎないことがわかる。更に吉岡の警察以来の供述によれば、途中で暫く休憩したものと認められるが、厳寒の折柄道路脇に長い時間休憩するとは考えられないし、又そのような証左もないので、これを多く見積り約一時間費したものと仮定しても、なお吉岡の供述によつて合理的説明のできない(途中で眠つた旨の当審証言は警察以来の諸供述に照し信用できない)二時間という時間が残る。この点において前記供述は致命的欠陥を包蔵しているのである。のみならず、鑑定の結果その他を綜合すると、被害者夫婦の死亡時刻は午後九時頃から午後一〇時頃までの間と推定されるのであるから、この観点からしても同供述は採るを得ない。なお推測される死亡時刻中最も蓋然性が少ないと認められる午後一一時をとつてみても、八海橋東詰より早川方までの歩行所要時間は約一〇分位であり、同家到着後凶行までの間に、侵入口の物色脱糞その他の行為に少くとも二〇分位を費したものと推認されるから、被告人阿藤等が原判決の認定するとおり午後一〇時四〇分頃八海橋に集合した上早川方へ直行したとしても、以上の各時間合計約三〇分を加算すると既に前示死亡推測時刻午後一一時を過ぎるのである。従つて右の時間関係について多少の誤差を考慮に容れたとしても、被告人等特に被告人阿藤が本件の凶行に参加することは時間的に極めて困難で稍誇張した表現をもつてすれば不可能に近いとも云える(以上第一章第四の二及び第二章第一の一参照)

三、早川惣兵衛夫婦の殺害と偽装工作について

吉岡は、警察六回調書以降において八海橋から早川方へ赴く途中、被告人阿藤の主唱で惣兵衛夫婦を殺害し夫婦喧嘩のように偽装すること及び各人の役割、殺害の方法、加撃の順序等を取決めた上、この取決めに従つて凶行をなした旨供述しているのであるが、右取決めに関する供述内容は、最高裁判所の判決により指摘されるまでもなく、余りにも不自然であり、従つてこの取決めに基いて凶行をなした旨の供述部分も非常に疑わしいのである。のみならず、(1)夫婦喧嘩のように偽装するためヒサの首吊り工作をなしているのに拘らず、侵入前脱糞し、或は屋外に子供様の素足の偽装足跡をつくる等夫婦喧嘩の偽装工作と相容れない精神分裂症的行為をなしていること、(2)ヒサの首吊り工作等による偽装行為が幼稚拙劣で、右(1)の行為と併せ考察すれば、一見して酩酊者(吉岡は当時酩酊していた)か或は知能の低劣な者の仕業であると推測できる状況であること、(3)吉岡については、極め手となるような数々の証跡が犯行現場に遺留されていたのに反し、被告人等四名については何一つとして罪証に値するものが残つていないこと、等各種の事情を綜合すれば、被告人等が本件の凶行に参画しているとは容易に解し難く、この観点からしても吉岡の前掲供述は信用できない(以上第一章第四の五参照)

四、奪取金額その他について

吉岡は、単独犯或は六人共犯を自供していた頃奪取金額を七五〇〇円ないし七六〇〇円位と自供していたが、五人共犯を自供するに至つて奪取額、分配額に関する供述が逐次変転し、原審公判の頃に至つて、結局自己が約一〇六〇〇円を奪取し、うち三〇〇〇円を稲田、松崎、久永の三名に各一〇〇〇円分配し、阿藤が四―五万又はそれ以上の金額を奪取し、うち約六〇〇〇円を右三名に二〇〇〇円宛分配した旨供述し、その後この供述を維持しているのである。しかしながら、前掲第一の二、2で説明したように、吉岡が犯行後費消又は所持していた金額合計約七五〇〇円については、明確な証左が存在し、しかもそれは吉岡自身が早川方で強奪したものであることを争う余地がないのに反し、被告人等についてはこれに相当するような証拠が些かもないのみでなく、却つて被告人阿藤は本件凶行の翌日である一月二五日以降も金銭に窮していたと認められるのである。更にここで多少の付言を加えてみると、若し五名が共謀の上金員奪取を目的として早川夫婦を殺害し、吉岡が供述するとおりの金銭を奪取したものであれば、公平に分配するのが常識であつて、吉岡が供述するように、同人が約七五〇〇円、阿藤が四―五万円又はそれ以上、他の三名が各三〇〇〇円分配取得すると云うことは余りにも不自然であつて、何人も到底首肯することができない。起訴状に奪取額を一六一〇〇円と記載し、原判決がこれをそのまま認定しているところより推測すれば、起訴検察官及び原審も亦吉岡の右供述を信用しなかつたものと解される。原判決の認定が正しいものとすれば、総額一六一〇〇円のうち約半額に近い七五〇〇円位を吉岡が領得し、残金約八六〇〇円を被告人等四名で分配したことになるのであるが、被告人等が本件の凶行に参加したものであれば、このようなことを承服するとは考えられない。以上の理由により吉岡の前掲供述は、それ自身に動かすことのできない裏付け証拠のある初期の供述即ち約七五〇〇円を奪取した旨の供述を除いては何れも信用できない(以上第一章第四の三参照)

その他被告人等との共同犯行を前提とする吉岡の供述は、何れもたやすく信用し難いのであるが、以上の記述によつて、凡そその余の供述部分に関する信憑性をも窺い得ると考えるので重ねて述べない(第一章第四参照)

第四、被告人等の各警察自白及びその他の証拠

一、被告人等の各警察自白について

被告人等は警察において、各三、四回自白し、それぞれ調書が作成されているのであるが、関係証拠に徴してみると、これらの自白調書は既にその任意性について疑問があるばかりでなく、自白内容も到底信用できないのである。即ち被告人阿藤の警察二、三回調書によると、同被告人は中野末広方からの帰途岩井商店付近で、妹サカヱ及び内妻木下六子等と出会い、同女等と一旦帰宅した上、入浴、夕食をすませて八海橋へ赴き、同所で吉岡及び他の被告人三名と会合し、それから早川方へ出向いて凶行をなした旨供述したことになつているのであるが、阿藤が岩井商店付近でサカヱ等と出会つた時刻は先に述べたように、午後一〇時半過と認められるところ、当審検証の結果によると、同所から被告人阿藤方までの歩行所要時間は一三分、阿藤方から八海橋東詰までの同所要時間は約五分であることが認められるから、被告人阿藤が帰宅後入浴、夕食をすませて八海橋へ出向いたものとすれば既に午後一一時を過ぎるものと認めざるを得ない。しかるに前掲第二で論証したように、本件の凶行は午後九時頃から一〇時頃までの間に敢行されたものと推測され、最も遅い場合を想定しても午後一一時には凶行を終了していたものと解されるのであるから、被告人阿藤の右供述は到底信用できない。なお被告人阿藤が岩井商店付近より八海橋へ直行したと仮定しても、午後一一時までに凶行をなすことが時間的に極めて困難で殆んど不可能に近い状況であつたことは先に説明した(前掲第三の二及び第二章第一の一参照)とおりである。次に他の被告人三名の各警察自白調書によると、同人等は、何れも八海橋で被告人阿藤及び吉岡等と集合し、同所付近で犯行について相談をなした上早川方へ赴き凶行をなした旨供述したことになつているのであるが、被告人阿藤が時間的関係から、本件の凶行に参加することが非常に困難で殆んど不可能に近いと解される限り、他の被告人三名についても同様のことが云えるのである。従つて同被告人等の右自白も信用し難い。更に又被告人等四名の前掲各調書によると同人等は何れも奪取金員の分配を受け費消した旨供述したことになつているが、これを裏書きするに足る証左が毫もないばかりでなく、却つて被告人阿藤が一月二五日以降も金銭に窮していたと認められることは累次説明したとおりであるから被告人等の右供述部分も信用できない。(以上第二章参照)

二、その他の証拠

原審で取り調べたその余の証拠を精査してみても、証人山崎博の証言及び同人の上申書を除いては、被告人等の罪証として批判に値するものを何一つ発見できない。そしてこの証言及び上申書の記載は一見被告人久永の自白内容に照応するかの観を呈するのであるが、既に説明したように、その対象である被告人久永の自白供述が容易に信用し難いものであるばかりでなく、右の証言及び上申書の記載内容は関係証人の証言にも牴触し、しかも山崎博自身がその後昭和三三年一二月頃に至り検察官の取り調べを受けて従前の供述を根本的に変更しているのであるから、信用できない。

次に当審で新たに現われた被告人等に不利益な証拠について概略の検討を加えてみると、証人樋口豊は当審第五三、五八、六〇回公判で、又証人木下六子は当審第六四、六五回公判で、山崎博は検事調書(昭和三三、一二、一四付、同三三、一二、一五付、同三三、一二、一八付計三通)で上田節夫は裁判官の証人尋問調書(昭和三三、一一、五付、同三三、一一、一〇付計二通)で岩井武雄は裁判官の証人尋問調書で、それぞれ被告人等に不利益な供述をなしているが、先に詳論したようにこれらの供述は同人等が従前各数回に亘つて述べていたものを一挙に、しかも根本的に変更したものであつて、概ね関係証拠に牴触するばかりでなく、供述内容それ自体にも不自然な点が数多く散見され、特に木下六子と上田節夫の供述内容は重要な点において相容れない関係に立つており何れも容易に信用し難い。百歩を譲り、これらの供述ないし供述記載が真実であると仮定しても、これらの供述は何れも本件の犯罪事実それ自体に関するものではなく、いわゆる状況証拠にあたるものであるから、これらの供述のみをもつて有罪認定の資料となし難いのはもとより当然であつて、しかもその供述内容は各被告人の自白と両立しないばかりでなく、関係証拠とも概ね牴触し、特に木下、上田、樋口の各証言中には本件の基本的証拠である吉岡の供述と重要な点についてくい違う部分が存するのであるから、吉岡の供述及び各被告人の自白を補強する証拠としても左程の価値がない。(以上第四章第一ないし第五参照)

更に張正夫、小野敏、金玉炫、鶴崎章は当審証人として被告人等が岩国少年刑務所に勾留を受けている中、本件の共同犯行を認める趣旨の告白又は発言をなしたのを聞知した旨証言するのであるが、同人等は何れも本件の発生後満七年を経過した頃はじめて本件に関連して検察官の取り調べを受け、その後右の証言をなすに至つたものである点に先ず留意しなければならない。しかも鶴崎章を除く三名は当時刑事被告人又は被疑者として被告人等と同房していたもので、現に服役中の囚人である点も看過できないところである。更に各証言内容を検討してみても、不自然な点が散見され、特に張正夫の証言中には記憶の限界を越えると認められる部分が点在するのである。これらの事情と当時被告人等が原審の審理を通じ、無実を叫び拷問を訴えていた事実とを綜合すれば、前記各証人の証言は何れもたやすく信用できない。のみならず鶴崎章、金玉炫の各証言は仮にそれが真実であつたとしても、その証言全体の趣旨からすれば罪証に値するとは解せられない。(以上第四章第六参照)

以上を要するに原審並びに当審(差戻前の二審をも含む)で取り調べた全証拠を検討してみても、被告人等が吉岡と通謀の上本件の凶行をなしたものとは認め難く、むしろ各種の関係証拠を綜合すれば、右凶行は吉岡が単独でなした疑が濃厚である。してみれば原判決は事実誤認の違法を犯したものというべく、この違法は判決に影響を及ぼすことが明白であるから破棄を免れない。弁護人の論旨は理由がある。

よつて検察官の控訴趣意は理由のないことが明白であるから、これに対する判断を省略し、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従つて直ちに判決する。

本件公訴事実は「被告人等四名は吉岡晃と共謀し、昭和二六年一月二四日午後一〇時五〇分頃山口県熊毛郡麻郷村八海早川惣兵衛方寝間において、長斧をもつて、就寝中の早川惣兵衛(当六四年)の頭部及び顔部を数回殴打して殺害すると同時に、手をもつて同じく就寝中の同人妻早川ヒサ(当六四年)の口を塞ぎ首を締めて殺害したる上、同寝間の箪笥内より現金一、六一〇〇円を強取したるものなり」というにあるが、前に詳細記述したようにその証明がないので、刑事訴訟法第四〇四条、第三三六条を適用し、各被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判長判事 村木友市 判事 渡辺雄 判事 藤間忠顕)

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